4427.秋田・米沢事情



7/29から8/1まで、仙台、山形、秋田に、一人で18きっぷ
で旅行した。仙台では広葉樹の苗木の研修会であり、150名が全
国から集まり、大変盛況であり、皆さんが真剣であった。

この研修後、山形に行き、そこで泊り、翌日は朝早く秋田に旅立っ
たので、山形は見ていない。秋田に昼について、半日市内観光で、
久保田(秋田)城跡地の千秋公園と赤レンガ博物館を見た。

次の日、秋田、朝6:04分の電車で東京に向かうが、米沢では2
時間も福島行きの電車がない。奥羽本線では福島と米沢間の普通電
車は昼の時間では1本、米沢発13:12の電車しかないのだ。
これは、冬、雪が多く、路線整備が大変なのであろう。峠駅など3
駅がトタン板で駅を囲っている。ということで、電車の本数が極端
に少ない。新幹線のために、この線はあるような雰囲気である。

このため、この2時間を使って、上杉神社を見てきた。

そういえば、東北本線にも羽越本線にも貨物列車が走っていたが、
奥羽本線には貨物列車が居ない。それは、新庄までは標準軌、そこ
から秋田は狭軌であるため、貨物列車は通れないようだ。3本レー
ルが秋田と大曲の間にあるが、しかし、この区間は複線であるが1
本が狭軌、もう1本が標準軌であるために、秋田駅のホームは新幹
線と在来線とは違う。

新庄から米沢は在来線も新幹線も標準軌であるために、新幹線も在
来線ホームを利用している。しかし、新幹線は1時間1本であるが、
奥羽本線は単線と複線の区間がバラバラにあるためか、普通の電車
が少なく18きっぷでは使いにくい。このため、乗客も少なく、2
両編成の電車でワンマンも多い。

しかし、鉄道写真を撮りに全国を歩く息子に言わせると、秋田に行
くには羽越本線の方がよいというし、福島と米沢の間は新幹線を使
えばよいではないかという。しかし、それでは1日で秋田から東京
には戻れないし、何のための18きっぷかと私は反論する。

このため、福島に着くと、なぜか安心感が沸く。1本乗り遅れると
、後がない奥羽本線は時間の調整が難しい。息子に言わせると、山
越え区間は全国どこでも同じで、そのときは、その区間だけ新幹線
や特急に乗るのが正しいという。

しかし、そのために上杉神社を見ることができた。しかし、そこに
行くのに、2時間と短いのでタクシーで往復したので2000円弱
掛かっている。このため、金の問題ではなく、主義の問題だと子供
には言ったが。

この観光した2つの都市を比較したい。秋田藩と米沢藩の比較と現
在の秋田と米沢の比較が面白い。

秋田は、佐竹氏が常陸の国54万石から20万石の秋田に転封して
きた。そのため、常陸以来の膨大な家臣団を抱えて財政は慢性的に
苦しい状態が続き、宝暦4年の藩札発行に起因する佐竹騒動を初め
藩政の混乱や領民の一揆が多発した。

しかし、藩財政では、鉱山としては院内銀山・阿仁銅山などが稼働
していたし、林業では軍艦・城用木材として秋田杉が有名で、家老
渋江内膳の「国の宝は山なり」との言葉が残されている。だが乱伐
によって林業も一時衰退したが、林政改革で復活した。また新田開
発も行い、実質38万石にもなっている。というように、東北の藩
では恵まれた藩であり、明治維新時も薩長サイドに立ち、ここでも
大過なく、経過している。

これに比べると、米沢は上杉氏が越後300万石から会津120万
石、そして米沢30万石と変遷し、寛文4年に15万石に減らされ
、家臣団の総数は同じであり、財政的に極度の貧困状態になってし
まった。このため、高鍋藩秋月種美の次男を養子に貰い、藩政の改
革を行う。この改革を行ったのが上杉鷹山公である。この改革は成
功して、全国的、世界的に有名になっている。

しかし、米沢の文化というと貧弱であり、鷹山が起こした米沢織と
米沢牛しか思い出せない。この点、秋田の文化は多い。銀と銅の合
わせ細工や郷土の版画など工芸品や稲庭うどん、きりたんぽなど、
豊富である。

どう考えても、観光的にも文化的にも秋田の方が米沢より上である
が、私が行きたい場所としては米沢の方が秋田より、2枚も3枚も
上になる。それは歴史上に上杉鷹山公がいるからである。

この鷹山公を偲びたいという思いがそうさせるのであろう。
「出るを制して、入るを図る」「為せばなる。為さねばならぬ。何
事も」ということばは、今も政治を心がける者は、肝に銘じないと
いけないように感じる。日本は、徐々に鷹山公前の米沢藩と比較し
てもよい状態になってきている。

このとき、思うのは、産業の方向性をシッカリとした殖産興業と皆
が我慢の財政改革である。「入るを図り、出るを制する」ことであ
る。

秋田・米沢の写真集

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