4405.複雑系とシステム工学のシステム(SoSE)



複雑系とシステム工学のシステム(SoSE)

皆様、

本日は拙い報告にお付き合いくださりありがとうございました。

じつは前半のデジタル言語学のところで、学際性を示した図に、意外に人気がな
かったのには驚きました。そうかぁ、僕はこの図を思いついたときに、 久々に
ヒットした図だと思って有頂天になったのですが。(添付します)

2年前の7月の情報理論研究会の発表の日の朝、目覚めたときに、思いついたので
した。それまで特に深く考えることなく、必要だと判断した文献、た またまで
あった文献を、いろいろな学部の図書館でコピーして読んでいたのですが、それ
ぞれの文献を参照した図書館と結びつけ、なおかつ一般通信モ デル上のどこに
あたるかを、地図投影してみたところ、みごとに情報源=文学部、送信機=工学
部、回線=理学部、受信機=医学部、宛て先=教育学部 といった具合に文献が
学部局在していることがわかったのでした。

でも、よくよく考えると、あまり見慣れない図だから、拒否反応があるのかもし
れません。

複雑系を解析するためには、システム工学では処理できる複雑度に限界があるた
めに、アメリカでもここ7〜8年前から「システム工学のシステム (System of
Systems Engineering)」といった概念が使われているようです。

システム工学というのは、偵察衛星、通信衛星、戦略ミサイル、戦略潜水艦、と
いった個別のシステムの設計に使われる考え方(簡単にいうと全体のバ ランス
を考えながら、段取りを組むノウハウ)なのですが、それらをすべてインター
ネットで接続するためには、すべてのシステムの中味を明らかにす る必要があ
るということがわかったようなのです。そうして全部をつなぐのが「システム工
学のシステム」ということのようです。

これが複雑系に対応するためのノウハウなのではないでしょうか。そして言語と
いう複雑システムを解明するためには、「システム工学のシステム」が 必要に
なる。だから、添付したように、たくさんの分野を渡り歩く必要があるわけです。

すべてのシステムは、言語で説明されますから、正しく概念を理解できれば、読
書を通じて「システム工学のシステム」を構築できるのではないかとい うこと
です。

これはもちろんベストセラーにはならないでしょうが、まだ誰もやっていない分
野なので、やってみる価値はあると思ってここまできました。

とくまる
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1+1=2となることは、数学的に証明できるか
皆様、

週末は、育英会の学生たちとの懇親旅行に混じって、犬山の明治村にいってきま
した。
フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの玄関部分が印象的でした。

バスの中で、「1+1=2は数学的に証明できるか」という話題を出しました。
自分でも結論をもっていなかったので、考えるチャンスだと思って。

結論として、「1+1=2」は、いつ、いかなる場合でも正しいのではない。

「1+1=2」が正しいのは、●を1個、●●を2個、●●●を3個と数える自然数のシス
テム内部で、システムの定義として正しいといえるというこ とになりました。
そして、●●を2個と数えた経験にもとづいて、我々は普段、1+1=2は正しいと思
い込んでいるのです。

別のシステムにおいて、1+1は別の答えを生みます。たとえば、大根1本と、大
根1本を並べて、大根が2本となったときに、所詮大根しかないと考 えると、
「1+1=1」という式が正しいことになります。

数学には、経験的な要素と、論理的な要素が入り混じっているのですが、いちば
ん基礎の部分は、経験的であり、そこを正しく理解しないと、どんな緻 密な論
理を構築しても、基盤のところに混じった微妙な誤解や思い込みによって、とん
でもない矛盾が生まれる。

すべての数式は、経験の次元に還元しなければならない。ということを、1946年
に、ジョン・フォン・ノイマンがシカゴ大学での講演の中で語って います。

http://www.math.ubc.ca/~fsl/von%20Neumann.pdf

渡辺京二さんの「黒船前夜」は、たくさんの史料を使って、歴史の再構築をは
かっているようですが、使用した史料のそれぞれがどこまで経験(現実の 事
象)と適合しているのかということの吟味がなされないまま、使われているよう
な気がします。自分が使った史料の、信頼性を吟味しないと、自分の 論理が正
しくなくなる可能性があります。

史料を書き残した人が、他にどんな記録を残しているのか。他の人の記録の中
に、その著者は登場するのか。そういったことも気になります。正しいこ とば
かり書く人なのか。


また、渡辺京二さんは、この「黒船前夜」のために、現地を歩いておられるで
しょうか。もちろん、200年ほども時代をさかのぼった頃のことを、 今、現
地を歩いて、どこまで想像できるのかわかりませんが、まったく歩かないよりも
よいのではないでしょうか。

すべてのことばは、最終的に、物質と現象と、言語化した著者の意識(経験やそ
れに根ざしたものの考え方)に置き換えられなければならない。

「黒船前夜」に感じるもどかしさは、読者が、言語を物質と現象に置き換える手
段をもたないこと、そもそも渡辺京二さんがそのような問題意識をもた ないま
ま、史料を表面的につなぎ合わせているだけのように見えることです。

史料に書いてある言葉を、(1) 正しい観察と考察にもとづく言葉、(2) 
正しい観察もあるが、一部は謬見、 (3) 歪んだ(あるいは偏っ た)見方
にもとづいた、まったくの謬見、、、、といったようにカテゴリー分けすること
がもしできるならば(「誤り検出」)、その作業結果にした がって、(1)は
きちんと利用、(2)は、誤り訂正して利用、(3)は一切利用しないという前
処理ができれば、再構築される歴史に力がこもること でしょう。

とくまる










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