4324.「言語本能」を超える文化と世界観



きまじめ読書案内:ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン 「言語本能」を
超える文化と世界観』
(屋代通 子訳、みすず書房、2012年、3400円)
得丸公明

1 はじめに:宣教師にキリスト教を捨てさせたピダハン

 この本はすごい。衝撃的だ。

 キリスト教の宣教師として、アマゾンの未開部族にイエスの教えを伝え るた
めに出向いた著者は、現地語であるピダハン語をマスターして、ピダハン人と付
き合っていくうちに、だんだん自分自身の信仰に疑問を感 じるようになり、つ
いには無神論者になって、妻や子とも別れてしまうという著者の回心がズバリ描
かれているところがすごい。キリスト教に とっての脅威であろう。

 また、筆者は、チョムスキーの生成文法論を学んで現地入りし、チョム ス
キー流の考えに沿ってピダハン語を研究しているうちに、いつしか文法は人間の
遺伝子に組み込まれているとする考え方が決定的に間違って いるということを
発見して、チョムスキーを否定するに至るところもすごい。言語学にとっても脅
威である。

 この著者の体験のおもしろさは、ピダハンという世界でも他に類のない 孤立
した言語とピダハンの人々の生き方に触れたおかげである。それを素直に受け入
れた著者がすばらしいのだが、キリスト教宣教師にキリス ト教を捨てさせたピ
ダハンとは何かということについての興味もあるが、以下では言語学的にピダハ
ンを分析することによって、我々の言語の 認知メカニズムの解明を試みるもの
である。

2 ないないづくしのピダハン語

 著者がピダハン語とはじめて接したのは1978年12月だっ た。それからおよそ
30年間にわたって調査とピダハン言語研究が行なわれてい るので、これは同時
代の報告である。

 本書は、著者の人生とその哲学を知るにはよいが、ピダハン語について のま
とまった記述にさかれているページ数は本書中の10分の1程度でしかない。ま
た、文法の定義がなされておらず、著者はチョムスキー理論に沿ってピダハン語
の語順あるいは統語法 に注目して文法を論じている。そこで、ピダハン語につ
いて、本書のそこここで触れられていることを自分なりにまとめてみることにす
る。そ れによって、ピダハン語がどのような言語であるか、姿を現してくるだ
ろう。

 ピダハン語は、あれもない、これもないのないないづくしである。

1)他言語との類縁性がない

 著者によれば、「ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がな い」、
「現存するどのような言語にも似ていない」という。

 しかしそんなことってあるのだろうか。言語は7万年前に南アフリカで生ま
れ、言語を使える人類が5万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸に移住し
て、世界に広がったと考えられている。もしピダハン語だけが、他のす べての
言語と類縁関係を持たないとしたら、どうしてそんなことが成り立つのか。

 ピダハンは現生人類ではないのか。そんなことはない。著者が付き合っ た報
告を読んでも、写真で見ても現生人類であることは間違いない。音素数は世界で
もっとも少ないが、母音を3つ、子音を男は8つ、女は7つもっ ているから、有限
で離散的な音韻信号をもっていることも確かだ。DNA鑑定をしてみれば、ピダハ
ンも南アフリカで生まれた現 生人類の末裔であることが確認されるであろう。

 なぜピダハン語が孤立しているのか。孤立しているように見えるのか。 答を
求める前に、もう少しピダハンについて知ることが必要だ。

2)文字がない

 著者はピダハン語の文字について一切触れていないが、本書から読み取 るか
ぎり、ピダハン語は文字をもっていない。

 文字を使うためには、紙や石盤、鉛筆や筆と墨や白墨、そして教育が必 要で
ある。それらがピダハンで行なわれたという報告は本書にない。著者にとって
は、言うまでもないことだったのかもしれない。

3)文法がない

筆者は文法の定義を行なわないまま、「ピダハン語の文 法の仕組みを知り、聖
書を翻訳する」ために、ピダハン語を学び始める。

そして、形容詞に比較級がない、動詞に完了形がない、 名詞に複数形がない、
色を表す単語がない、数がない、抽象概念がない、と、実にいろいろなものがピ
ダハン語に欠けていることに気づいてい く。複文がない、転位がない、修飾も
ほとんどない。代名詞は最低限必要なだけを他の言語から借りてきているだけ。

著者は言及していないが、おそらく接続詞もなく、冠詞 もなく、助動詞もない
と思われる。

4)文構造が単純

文の構造は、驚くほど単純な形をしている。文や句が、 別の文や句のなかに現
れるということがない。

「オイイが話した。オピーシはここにいない。オイイが そこで話した。アオ
ギーオソは死んだ。」これはオピーシの妻アオギーオソが死んだことを伝えるた
めの表現だ。構造と呼ぶことをためらって しまうほど単純である。

5)語彙数も少ない

上の文例から、妻という言葉もないことがわかる。

ピダハン語で親族を表す言葉は、「親」、「同胞」、 「息子」、「娘」しかな
く、「妻」、「夫」、「母」、「父」という言葉もない。「従兄弟」や「孫」と
いう言葉もないわけだ。

6)動詞の接尾辞だけが複雑

唯一、文法的な複雑さがあるのは、動詞である。

「どの動詞も接尾辞を最大十六もとることができる。多 ければ十六もの接尾辞
が動詞のあとに並ぶ」という。これは文法がないから、仕方なく動詞の活用を接
尾辞で表現したと考えるべきだろう。

7)直接経験の原則

そして「最も興味深い接尾辞は、、、、確認的接尾辞と いうもの、つまり話し
手が自分の話している情報の精度をどのように見ているかを示す尺度だ。ピダハ
ン語にはこの形だけで三つある。伝聞、 観察、推論だ。」

ピダハン語では体験の直接性が重んじられる。「発話の 時点に直結し、発話者
自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄
に関する断言のみ」が語られると著者は いう。

動詞の単純な現在形、過去形、未来形は用いられるが、 完了形は存在しない。

ピダハンには創造神話もなければ、おとぎ話すら存在し ない。

8)大人語と子ども語の区別がない

 ピダハン語には、大人語と子ども語の区別がない。著者は「見たかぎり でピ
ダハンは赤ちゃん言葉で子どもたちに話しかけない」と書いている。

「ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に 尊重
される価値がある。子どもたちは優しく世話したり特別に守ってやったりしなけ
ればならない対象とはみなされない。子どもたちも公平に 扱われ、体の大きさ
や体力に合わせて食事の分量などは変わるけれども、基本的には能力において大
人と対等と考えられている。」

 そうかな、と思う。著者の思い入れ、感情投入は事実を覆い隠すことに つな
がるのではないだろうか。

3 大人に なっても赤ちゃん言葉を使いつづけている

1)チンパンジーと同じ

 私は読み終えてしばらく考えて、著者は違うと思った。大人語と子ども 語の
区別がないのは、大人語しかないのではなく、大人が子ども語を使っているから
ではないか。ピダハンは、幼児言葉のまま、語彙だけ増や した言語だと考える
と、すべての謎が解ける。

 ピダハン語に文法がないことも、構文が単純なことも、複雑な血縁関係 を表
現する言葉がないことも、抽象化した言葉がないことも、これですべて納得がいく。

 ピダハンの構文は、手話を覚えたチンパンジー ニムが話していたこと と似
ている。ピダハン語は、二語、三語を並べただけであり、これには文法も構文も
ないと考えるほうが妥当だ。

2)『悪童日記』との共通点

直接体験したことしか話さないという原則は、アゴタ・ クリストフの『悪童日
記』を思い出させる。『悪童日記』も「簡潔さを極めた文体」だった。フランス
語原文は単純で、単語を並べただけの二 語文、三語文だ。冒頭を原文に忠実に
訳すと「ぼくらは大きな町から着く。ぼくらは一晩中旅してきた。お母さんの目
は赤い。」となる。ピダ ハンほど単純ではないし、「お母さん」、「赤い」な
どピダハンには存在しない語彙が使われているが、もっとも初歩的で基本的な単
語しか 使っていない。

直接経験の原則は、『悪童日記』では「ほんとう」の ルールとして描かれる。
「ひとつとても単純なルールがある。作文はほんとうでなくてはならない。ぼく
らは、そこにあるもの、ぼくらが見る もの、ぼくらが聞くこと、ぼくらがする
ことを書かなくてはならない。」この原理はピダハンと相通ずる。子どもの純
心、真心で世界を表現す る原則は共通だ。

3)純粋無垢な子ども心を持ち続けた

 純朴な幼児の目で世界を見て語るのがピダハンである。

文法も、類概念も関係性概念も、そして複雑な構文もも たずに、そこにあるも
のだけを言葉にして並べる。昔話もなければ、明日を思いわずらうこともない。
ひたすら今を生きる。

どうして文法や複雑な概念の獲得をやめて、単純な概念 の羅列へと文化的に退
行したのだろうか。いくつか可能性を考えてみた。

たとえば、親たちが皆殺しにされるか、みんな病気で死 んでしまい、文法を教
えてくれる大人がいない環境で子どもだけ育ったという可能性はあるだろうか。
それでは生きていけないだろう。可能性 は低そうである。それに、もし子ども
たちだけで大きくなったとしても、母語あるいは身近な言語の文法や複雑概念
を、ピジンやクレオールの 要領で身につけるのではないか。

あるいは、言葉が嘘をつくことに嫌気がさして、嘘をつ けない表現を追及し
て、幼児言葉に限定するようになったという可能性はあるだろうか。アゴタ・ク
リストフの『悪童日記』は、旧共産圏にお ける収容所社会を生き延びる知恵と
して、真実のルールを生み出したと私は思っている。ピダハンも嘘に疲れ真実を
求めて、幼児返りしたのだ ろうか。

4) 自然の中で身を守る必要性が脊髄反射の先祖返りをひき起こした

いろいろと可能性を考えてみて、私が到達したのは、 ジャングルの大自然の中
で生きていく上で、文法や複雑概念が邪魔だったというものである。

幼児語から大人語へとシフトする際に、ヒトは脊髄反射 のメカニズムも自然対
応から言語対応へと変化させているのではないだろうか。

そもそも動物に備わっている脊髄反射は、視覚・聴覚記 号のパターン記憶の刺
激に反応して、即座に逃避行動を起こすためのものであった。考えている暇はな
い。敵を察知したらすぐに敵に襲われな い方向に逃げなければならない。

 言葉は後天的に獲得する概念や文法に対する反射、条件反射である。ヒ トは
言語理解のために脊髄反射を使うようになった。それは概念が過去の記憶を刺激
するだけではない。概念は思考結果の記憶を刺激し、別の 概念を刺激し、概念
の相互刺激の連鎖反応を呼び起こす。次々と送り込まれてくる概念は、文法規則
にしたがって関係性のフラッグを付けられ て、意味発生のメカニズムのなかを
通過する。

複雑な認知活動を行う意味のメカニズムを構築するため に、おそらく脊髄反射
は言語対応の特別の進化を経験しただろう。その代わりにヒトは、いちいち言葉
を聞いて行動を生み出さなくなった。危 機的状況の予兆が視界や聴覚に飛び込
んできても、自動的に体が動かなくなった。言語対応によって敵から逃げる本能
を犠牲にしたのだ。おそ らく我々は一人でジャングルのなかに入っていったと
き、敵から身を守ることはできないだろう。

ジャングルの中で生き延びるためには言葉は邪魔であ る。ピダハンは言葉の高
度な発達をやめて、チンパンジーや幼児と同じ二語文・三語文だけでコミュニ
ケートするようになったのだ。その代わ りに、大人になっても、見えないとこ
ろに隠れている敵を察知し、五官で認識する前に体を動かすために、脊髄反射を
使えるようになった。

 以上の考察がどこまで的を射ているのかわからないが、これだけの考察 を生
むきっかけとなった本書は本当にすばらしいと思う。著者に感謝したい。

(2012・ 4・7 得丸公明)




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