4192.上限のある世界と、「欲望」という人の性



上限のある世界と、「欲望」という人の性 

ローマクラブが「成長の限界」という論文を発表してからだいぶたつ。 

ある意味では、現在課題とされている環境問題も、水問題、食料、
資源・エネルギー問題もそれが顕在化した形であることを示している。 
もうひとつが、格差=生存危機的な状況を生むというのは、分配の
問題=少数の富裕者とたくさんの生活困難者がでるという問題でも
ある。 

ところで、今まで景気が悪くなれば、金融緩和だ財政出動だとうの
が、対処療法であった。 
しかし、ヨーロッパでの、国債危機から金融全体への危機、また、
アメリカでの、財政赤字拡大が許されなくなったというのは、未来
への時間差を利用したツケの付け回しが上限を迎えているともいえ
るじゃろう。 

その中で、人口が70億を越え、多くの場所で、高失業率が続いて
おり、これを解消する特効薬は無い様におもわれる。 
また、負担の重さから、福祉をこれ以上高福祉にすることも上限が
来たようだ。 
もともとの弱者も、これから、これまで以上に、これにすがること
はできなくなっていくであろう。 

また、福島原発や津波被害での被害者救済を「国」がと訴えるのは
、妥当だし、そうであるのだろうが、「国が」ということは、「税
金で」ということをはっきりさせておかねばならない。 
政治家や官僚は「公的資金」とか「国の責任で」とか、「国債を発
行して」言い換えるけれど、これらは全部「タックス=税」である
ことが、うまくそらされている。一般的な市民の頭では、きちんと
結びついていないのではなかろうか?(国債=未来の税収というの
は、特に覆い隠されている)から(アメリカの場合はそれがタック
スであることは明白に知っている。だからうるさい) 

課税という面では、金融では、今尚オフショアーに名を借りた課税
逃れが横行しているでなければ、取引量の多さに比べて、各国の税
収があれほど低くはならないであろう。 
すべての国際間の金融取引きに、もれなく、非常に低率な課税をす
ることが唯一有功な手かもしれない。(そのためには、国際金融決
済をG20当たりで作るの国際組織の管理下にある複数のセンター
(6箇所ぐらいか)で処理することであろう) 

今の経済学は、資源や環境は無限として組み立てられているが、わ
れわれは、上限のある世界に住んでいる。 

マルクスは、市場が独占・寡占から金融資本主本化し、その金融資
本が支配するとしたが、日本で起こったバブルやリーマン危機など
にみられるように、<投機資本主義>になったことが一因になった。
また、今回の財政・金融危機もバブルの処理を経ての対処療法とし
ての金融緩和があり、グローバル化を通じて世界が繋がり危機が伝
播し、同時にそこから利益を得ようとする投機資本がバブルをつく
り、バブルを潰した。 

しかも、投機は市場の必然でもあるわけじゃ。そして、その金融危
機の処理は、「専門家」しか解からない、「専門家」にしか、その
後処理をする能力がないということで、問題を起こした当人(金融
村の住人達=ウォール街や、ヨーロッパの金融筋など)によって行
われた。 

原子力発電の事故の処理がやはり「専門家」(原子力関係者)にし
かできないということで、「原子力村」や「電力企業関係者」に問
題処理をさせるしかないというのに似ておる。 

これは、その莫大な利益を、そのシステムから得ていた人々なので
、欠陥が根本から治されることはないということなのじゃ。 

また、日本でも欧州でもアメリカでも政治の混乱がある。これは民
衆の欲望の圧力におされて、政党が民衆の欲求に迎合的にならざる
を得ないという政策をかかげなければ、当選・政権につけない。
そして現実はその状況をそうそう簡単に変更できないので、(内的
な既得権構造と外的なグローバル市場圧力・また外国との貿易や地
政学的=安全保障上の関係があるため) 
そして、不満と無責任な批判は、またさらに左右に激しく揺れて、
安定させることができない。そして、官僚も自己利益・権能を守る
ことに必死であり、全体の配分の合理性から離れて、機能不全に陥
る。 

実際<政治>とは、多数の因子による欲望のぶつかり合いの場であ
るからじゃ。 

それに輪をかけて、マスコミが大衆の感情を煽動するばかりだし、
商業主義の帰結として、欲望をあおり、不平不満を最大化させるメ
ガホンのように喚きたてる。 

人々は自己欲望を最大化することを煽られ、その意識・欲求は自己
肥大化する。 

人は、たくさん欲しい・繁栄したい・大きくなりたい・優越したい
というのを基礎にもっておる。それらは、<生存をより容易にする
条件>であると感じておるからじゃ。そしてそれは間違いではない
が、生存条件が満たされていても、そのベクトルだけは<快・不快
>として働きつづける。 

だから、ブータンの「幸福社会」というのが、物質的な欲望が小欲
で、しかし人々の繋がりは緊密であることでなりたっていることに
、みん驚くわけじゃ。 

人間社会を破壊するのが、欲望の肥大化という人間の根本に潜んで
いるというのは皮肉なものじゃ。だからこそ古の聖人・賢人達は、
知足・欲の制御を教えの中核とした。 
しかし、彼等が聖や賢と呼ばれたのは、いかにごく少数の者しか
それを自分のモノとし実践することができなかったかをも物語って
おる。ただ、道徳というのは社会が円滑に成り立つために、この利
己愛=利己主義を制御するための教えだといえるじゃろう。 

制御こそ、要なのじゃ。 

虚風老 



コラム目次に戻る
トップページに戻る