4151.我々は最終段階にいる



我々は最終段階にいる
From: Eiichi Morino

債務危機が叫ばれている。なにが問題なの?
下記のハンデルスブラットのインタビュ記事はわかりやすいだろう。
議論はこんな感じで始まる。
・・・・
金融システムは崖っぷちにある。
金融危機は住宅危機から始まり、それから銀行危機、いま国家債務
危機に、どうやって抜け出す?
金融システムは最終段階にある。
米国での国家や市民、産業の総債務はすでにGDPの400%。それは
人々が稼ぐフローの大部分が金利であるということ。この利息は通
常経済に再投資されず、すでに巨額を持つものたちの手元に積み上
がる。

我々の金融システムは数十年おきに再スタートしなければならない
ようなものだ。我々が作り出すマネーはすべて罰金である。このこ
とが意味しているのは貨幣がローンを受け取る人間によって作り出
されているということである。流通にあるあらゆるマネーが他面で
は融資に向き合っている。もし国家が極端に重い債務を負っている
なら、他方では誰かがちょうどこうした資産の総計を持っているは
ずである。連邦共和国がその債務の利子に毎年400億支払うなら
、誰かが金利で400億集めていなければならない。
・・・
続きはブラウザの翻訳機能などを使ってお読みください。
次の頁の、「我々には上から下への再分配が必要だ」もおもしろい
ですよ。上にも下にも同額のBIをと考える方を除き。

http://www.handelsblatt.com/finanzen/boerse-maerkte/boerse-inside/wir-sind-in-der-endphase/5148778.html
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From: Hidekazu Aoki

「再生可能エネルギー」がバラ色の未来を約束する、という主張の
元祖(または教祖)的かたの見解
http://diamond.jp/articles/-/14513

こういう方には「最終段階」にある欧州債務危機はどのように映っ
ているんでしょうか?米国も大やけど必至なんだけど…
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/26857
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From: Eiichi Morino 
国連が人類70億人を祝ってましたが、このあいだ
のG20での話のひとつに、この方のいう2050年
には人類90億人、その人間を食わせるのに現行の
食料生産を70%増やさなきゃならんと。
気候変動で耕作地はどんどん減っていくのに。

食わせるだけで相当のエネルギーが要りますね。
我が国は石油づけの農業やってますが、自然
エネルギーに2050年までに変われるか、いや
その前に壊滅しているか・・・

経済のことはどうでもいい人多いですよ。
なかには、いっそうのリセッションを望む
方さえいるのだから。

欧州の政治家たちが格付け会社によるソブリン債務の格付け
を禁止するようなことをいってるけど、政治家にも
容易ならざる事態ということはわかっているようだ。
ギリシャの債務の大幅なヘアカッとひとつとっても
容易じゃあない。パンドラの箱をあけることになる。
ギリシャだけ特別扱いはできないだろう。スペイン、
イタリア、フランス、・・・とにかく欧州の銀行
も資本増強したところで軒並みつぶれるか、銀行と
いえば休業しているところばかりという光景はわが国
でもかつてあった。そうして昭和銀行を作って銀行が
つぶれていくのをごまかした。

まあ欧州の銀行(とくにフランスのそれ)はデフォルト
必至のギリシャ国債にエクスポージャしすぎ。
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管理された退却
 By 森野榮一 
 

ロバート・スキデルスキーの一文、「ブームは幻覚であった」が目
に止まる。「世界経済は危機に瀕している。私たちがいま望みうる
最良のものは、グローバル化の荒々しい土地からの管理された退却
である。オルタナティブはユーロの崩壊、保護主義、そして戦争で
さえある」と刺激的に語り始めている。
 
危機にある世界経済、その先行きの考えられる二つのシナリオのう
ち分解のそれのほうを人は予感しているだろう。30年代の傷跡を
もっと激しいかたちで通過していくことになるのか。
 
経済の考え方としては、要するに世界経済がケインズの貯蓄のパラ
ドックスに逢着しているということだろうが、現在の経済の姿をわ
かりやすく整理してくれているような印象ももつ。そこで、ざっと
、高名なケインズ研究家でもあるスキデルスキーの議論を、簡単に
じぶんなりにメモしておこうと考えた。
 
以下
New Statesman http://www.newstatesman.com/print/201110130030#
からのメモ。
 
・・・
2008年秋の崩壊以来、世界経済は3つのフェーズを経験してき
た。一年以上の急速な衰退、2009年から2010年の回復、
しかしそれは全快とはならなかった。そして次に、これまでのとこ
ろ非常に浅いものだが、本年の下降。
 
過去4年に生じた損害は巨大であった。世界経済は2007年から
2009年の間に6%収縮し、4%回復した。2007年の成長率
が継続していたならば、そうであったであろうより10%貧しく、
そして苦痛はまだ終わってはいない。いま我々は第二の金融危機の
初期にいる。”二番底”を回避するにはすでに遅すぎるかもしれな
いが、三番底を避けるのはまだできるかもしれない。これについて
は、持続的な回復を確保するのに必要とされるものについてしっか
りした知的分析が必要とされる。そして集合的な政治的分析がそれ
を実行するであろう。
 
危機の背景
 
経済学は混乱状態にある。支配的なシカゴ学派のパラダイムが打ち
砕かれることで、その合理的期待形成論は仮説上、ちょうどいま我々
が経験したような種類の崩壊を問題外とし、フリードリヒ・フォン
・ハイエクとジョン・メイナード・ケインズという二人の巨匠が30
年代のバトルを更新するために死から蘇ってきた。
・・・我々はこれに、”貨幣供給過剰”、”救済過剰”のラベルを
貼りつけることができる。
 
スランプにあるハイエク派の議論は、公衆がその当期の所得から貯
蓄したいと望む以上のマネーを商業銀行がビジネスに貸し付けるの
を可能にするような緩い金融政策を採用するというものである。
したがって、投資の全体の一部分、ハイエクはそれを”悪い投資”
と呼んだが、それは純粋な貯蓄ではなく、信用創造によって融資さ
れた。これは消費ブームを促進した不動産及び金融部門のバブルに
導いた。(後で)マネーの蛇口が閉められたとき、バブルは破裂し
、米経済はスランプに陥った。このスランプは単に不健全な投資ー
”資本消費”の清算である。
 
対照的に、ケインズ学派にとって問題は、不十分な貯蓄ではなく、
不十分な投資であった。貯蓄は所得の安定した一部分ではあるが、
投資は不確実性に支配される。景気後退に入るのは、ケインズの経
済学が示唆するのは、いくつかの理由で、なされた貯蓄量に関連し
て利潤期待が低落するときである。ビジネスは投資よりも流動性を
選好しはじめる。これはちょうど金利が下がって欲しいときに、金
利や借入れコストを押し上げる。貯蓄と投資は金利の低下によって
ではなく、所得の低下によって均衡へと戻される。2008年から
2009年の景気後退は債務過多によるのではなく、投資の崩壊に
よって引き起こされた。債務過多は原因ではなく結果であった。
 
いずれの説明にも国際的次元がある。ハイエク派の物語は、世界の
指導的準備通貨としてのドルの役割が可能とする連邦準備銀行によ
るドルの過剰発行から始まる。米国人はこれによって分不相応の生
活ができ、生産した以上に費やすことができる。
 
ケインズ派の物語は中国の過剰貯蓄で始まる。中国人は・・・彼ら
の経済が吸収しうる以上の、所得のはるかに高い割合を貯蓄する。
それは米国が世界の”最後の消費者”になることを可能にした中国
の中央銀行の米国債の購入による中国の過剰な貯蓄の米経済へのリ
サイクルであった。米国の”貨幣の供給過剰”は、基本的には中国
の”貯蓄過剰”の原因ではなく結果であった。
 
二つの物語は市場経済がどのように作用するかについての対照的な
推論から出てくる。前者は自己調整的機構としてそれを見る。そこ
では”見えざる手”が、金融不安がない状態で、個人の利己的な活
動を社会的最適へとスムースに切り替える。ケインズ学派は市場シ
ステムの社会的価値を受け入れはするが、減らすことができない不
確実性のあるなか、それが最適な自己調整機構であることを否定す
る。”見えざる”手は社会的最適ではなく、”不完全雇用”均衡へ
と経済を導く。そのために、潜在的資源の完全活用を確保するため
に政府の介入が必要である。
 
冷静にみて、景気後退のそれぞれの説明に真実の要素がある。我々
は米国の放蕩、中国の倹約のあいだでどちらかを選ぶ必要はない。
我々の政策は、繁栄のもつれを解くために両方の貢献を処理しなけ
ればならない。
 
緊縮策対刺激策
 
危機の起源に関していま書いた相違は、緊縮策と刺激策の間の現在
の論争を補強する。9月15日のフィナンシャルタイムズの中で、
メグナド・デサイは「長期不況はケインズ派の現象ではなくハイエ
ク派のそれである。必要なのは支出ではなく、レバレッジの解消で
ある」と書いている。たとえこれが短期的には総需要を縮小しても
、民間も公的部門も貯蓄を増加させる必要がある。資産にそれ固有
の価値を見つけさせることが現実的な価格で実需をもたらし、間違
った決定をした人々を罰するであろう。
 
短期にはいっそうの苦痛があることだろう。しかし刺激策というケ
インズ派の代替策は調整を遅らせ、納税者に不公平に、あまりにリ
スクを取りすぎた人々を救済する代償を支払わせる。ブームは幻想
であった。景気低迷は間違った投資を清算する機会である。
 
これに対して、ケインズ学派は二つの反論を持ち出す。一つに、彼
らは崩壊以前に米経済に”あまりに多く”の支出が存在したことを
否定する。全般的な過熱のサインは存在しなかった。インフレ率は
低かったし、労働力の不足はなかった。彼らがハイエク派に与える
ことは、安価なマネーが間違った方向の、あるいは投機的な投資を
大規模に可能にしたということであり、富に駆動された消費ブーム
に油を注いだのである。しかしこのことは、厳密な意味で過剰な投
資が存在したと言うことと同じではない。いっそうの投資がゼロ収
益率を生み出したという、あるいは一般にあまりに多くの消費があ
ったという意味でである。貧困ライン以下で生活している4600
万人の米国人の財貨及びサービスの需要が飽和のポイントに達した
と信じることは不合理である。バブル経済で建てられた住宅や建築
設備はまだそこにある。それらは”手頃”になるために、低賃金層
の所得の削減ではなく上昇を要求している。
 
しかしより根本的に、ケインズ学派はたとえハイエク派の診断が正
しくても、緊縮策という対策は誤りであると主張する。それは、中
世の治療法、病人から血液の腐敗を取り除くために出血させる、し
ばしば患者の死に結びついた・・・治療であると彼らは言う。
1930年代に、ライオネル・ロビンズは、ケインズの刺激策への
反対を撤回して、こう書いた。
 
”(緊縮策による)引き続く結果を扱うために、行き過ぎた金融緩
和及び誤った実物投資が修正されたという元々の診断、それは確実
に解決された問題ではないが、そう仮定することは、その元々の問
題が過熱して氷の池に落ちた人々に毛布を否定し酔っ払うように刺
激するのと同じように不適切であった。”
 
(これをドイツの財務相、ヴォルフガンク・ショイブレと比較せよ。
「アルコールを与えることでアル中患者を直すことはできない。」)
ポイントはこうである。政府と民間部門の両方がその貯蓄を同時に
増加させようとしていれば、間違った投資をただ清算するだけでは
ない。同様に、誰もが貯蓄するにはあまりに貧困であるほどまでに
、国民所得を縮小することで、経済を台無しにするのである。
 
これが私が英国で、民間企業が眠り込んでいるとき、有効需要の不
足の故に、国家が瀕死の投資マシンを活発にするための刺激策を採
らねばならないと主張してきた理由である。
 
真実は、オールラウンドな”切り詰め”政策が債務の問題を増加さ
せるということである。債券市場は、成長政策がない状態では、一
口の債務は別の債務の後では”維持不可能”になることを正確に分
析した。国民所得が成長すれば、国債及び民間機関の債務は双方と
も、国民所得の部分として自動的に縮み、国民所得が縮めば、反対
に増大するであろう。債務消減ではなく成長が今日の経済政策の主
要な目標であるべきである。あまりにも多くの債権回収業者がいる
ところでは、彼らは結局、零落する。今日のユーロ圏はこの真実の
恐ろしい目撃者である。
 
緊縮策が優勢であることで、世界の景気回復は次第になくなってい
る。欧州は、銀行破綻から公的債務の爆発、銀行破綻の第2ラウン
ドへとフィードバックループの中にあり、危機に瀕している。米国
は、財政政策は麻痺し、市場が日本スタイルの停滞を予測すること
で、ほとんど良好な状態とはいえない。
 
ラテンアメリカや中東、それにロシアはコモディティ・ブームから
利益を得ている。しかし彼らの主要な市場のうち、米国と欧州はほ
とんど成長していない。また、北京が不動産インフレのバブルを抑
制しようとしており、またその輸出主導型の成長が米国や欧州にお
ける需要の持続的な増加に依存しているので、中国は減速している。
中国商品に対する貪欲な欲求が減速すれば、ラテンアメリカや中東
、ロシアの成長は音をたてて停止するであろう。そうして次には、
中国製品へのそれらからの需要を制限することであろう。したがっ
て、不運がそれぞれの上でフィード・バックするので、苦痛の円環
は広くなる。
 
明らかな事実は、世界にはあまりにも小さな総需要しかないという
ことである。また、追求されているあらゆる政策の正味の効果は
それをさらに縮小するということである。そうなると、将来に何が
もたらされるのであろうか。
 
我々は、1930年代に何が起こったかを知っている。世界経済は
崩壊した。一般通念は、これが今日いかなる場合にも不可能である
というものである。決まり文句は経済統合が不可逆であるというも
のである。情報とコミュニケーションにおける革命は抗いがたく世
界を「地球村」に変えている。しかしながら、この良性の予想は、
大きな危機や崩壊の可能性を無視している。人々は1914年にも
正確に同じことを言っていた。歴史上、グローバル化は波のように
やって来た。経済生活は国家の支配権の相対的に安全な避難場所へ
退却するので、危機とカタストロフィのインパクトのもとで後退す
る。
 
我々はグローバル化の最後の位相に到着している。そこでは、投機
バブルによって汲み上げられたリサイクルのメカニズムによって、
変わらずに誤った価格がつけられた通貨の問題を扱う。しかし、何
がそれに続くのか。二つの対立する仮説がある。それは分解か調整
かのいずれか一方といえるかもしれない。
 
最初の仮説は、我々がグローバルに問題の解決に失敗し、世界経済
の破片化が始まるだろうということである。現在、国内需要は、極
度に輸出主導型成長に依存する国々、また経常収支の赤字を削減し
ようとしている諸国によって抑制されている。これが示しているこ
とは、さまざまな理由から、グローバルな各当局が同時に総需要を
削減するための努力に従事しているということである。
 
これは完全に間違った政策である。景気後退に逆らう財政緊縮が自
殺であるとクリスティーヌ・ラガルド・・・が主張することは正し
い。これ以上の「出血」を続けることができない赤字国が通貨価値
下落と保護政策に頼り始める時、崩壊がやって来るであろう。ユー
ロ圏が成長政策を組み立てるのに失敗すれば、ギリシアや恐らく他
のユーロ圏諸国はその貨幣上の、また交易上の独立を再開するであ
ろう。通貨及び貿易戦争が世界中で勃発するであろう。もちろん、
これらの戦争は既に始まっている。
 
第二の仮説(調整)はゴードン・ブラウンが「G20成長盟約」と呼ぶ
ものである。本質的に、彼は、2009年の刺激策を生み出し、
もう一つ世界大恐慌へ滑り落ちるのを止まらせた国際的な協力の精
神の回復を要求している。そのような盟約の要素は、経常収支の不
均衡の時代が終了することを目標として、グローバルな通貨制度の
改革を含んでいるであろう。金融制度を改革し、危機を引き起こし
た銀行の過剰な貸出を回避することを目指すこと、そうして世界の
需要を押し上げることを目標とするマクロ経済政策を短期的には要
求するものである。
 
進歩は第二の項目にある。バーゼルIIIは、銀行にその債務に対して
いっそう資本を持つ必要性を受け入れさせた。各国はまた、その規
制システムを強化し始めた。英国において、ヴィッカーズ報告は、
銀行の小売と投資の業務の分割を提案していた。ハイエクは承認し
たことであろう。・・・根本問題は大銀行の政治権力である。金融
は改革されねばならないばかりか、管理されるべきである。1925
年にウィンストン・チャーチルは、大蔵大臣として、それをよくし
た。「私はむしろ金融がそれほど誇りをもてず、産業がより満足す
るのを見たい。」これまでのところ、政府は、銀行に抵抗するため
仕掛け持っていない。それは、金融の再規則が弱体化されるだろう
ということを示唆する。
 
他の二つの項目においては、いずれにしても言うべきほどの進歩は
ない。国際通貨制度改革の必要性は主に中国と米国との間の準備金
と為替レートに関する大きな取引に基づくが、いまだこれを達成す
るいかなる真剣な試みのしるしもない。第三の項目に関しては、
ただマクロ経済的な調整が世界経済を盛り上げるのではなく、切り
詰める方向にある。成長にはいかなる投資もない。
 
しかし、世界経済は、景気後退からの出口を切除することはできず
、その出口を育てなければならない。債券市場が多額の債務を持つ
政府に赤字削減プログラムを強要する場合、国家は有利な投資機会
の不足のために無駄になる国民貯蓄を動員するために、国家的ない
し地域的な投資やインフラのための銀行のような別の道具立てを用
意しなければならない。
 
分解シナリオ
 
もしどのような成長でも起こっていれば、政府系投資ファンドや年
金基金は成長に投資するであろう。そうであるから、彼らは公的債
務に投資する。その収益は低いが、少なくとも、比較的安全である。
元米国の財務長官代理ロジャー・アルトマンは、歴史的に、米国や
英国、ドイツにおける歴史的な低収益の長期の公的債務はただ”無
視しうる資本需要”の予測によってのみ説明しうると指摘した。
 
二つのシナリオのうち、分解はよりありそうである。これは、政治
的指導力がグローバルな盟約を鍛える仕事になっていないからでは
なく、現行の国民的経済モデルに要求される調整が任意に試みるに
はあまりに大きすぎるからである。米国人より少なく消費し、いっ
そう多く輸出する必要があろうし、中国とドイツはより多く消費し
、もっと多く輸出する必要はないだろう。こうした変更は、三国す
べての生活の仕方の根本的な再検討を要求する。
 
米国の場合では、調整は、信用に駆り立てられた経済を壊すことを
要求するであろうが、それは、そのほとんどの製造業を低賃金国へ
外部委託することで作り出されてきた富と所得の大きな不平等に対
処する米国資本主義が持つただ一つの方法なのである。しかしなが
ら、米国がその資本主義バージョンを再考する意志がある小さなサ
インが存在する。
 
中国の場合は、マイケル・ペッティスが彼のブログ、チャイナ・フ
ィナンシャル・マーケットで指摘するように、同国の低い消費率が
「(中国の)成長モデルにとって基本的であり、消費の抑制は、生
産性の伸びに比した低い賃金上昇、割安の通貨、なによりも人為的
な低金利のような政策の帰結であり、それが猛烈なGDPの成長を生み
出した」。
 
ドイツもまた輸出主導型成長に捉えられ、それが永続的な輸出超過
の実行により、欧州の隣人を貧困にすれば、結局、自らを貧困にす
ることになるだろうことを理解しているようにはまったく見えない。
 
中国とドイツが21世紀の、輸入以上に輸出する重商主義者である
ことを主張するなら、その他の世界は彼らから自らを保護し始める
であろう。
 
ドイツの政策は、ユーロ圏の崩壊に導くであろう。中国のそれは世
界貿易と支払システムの崩壊に導くであろう。
 
二つのシナリオ(調整と分解)は、共通に、諸国や国々の集団による
国内の成長資源へのいっそうの信頼と外国貿易の減少を想定してい
る。それは、もっとバランスのとれた世界経済について語る場合に
我々が主張したいことである。ただ一つの問いかけは、グローバル
化の野生の土地からの退却が整然としているだろうか、混乱してい
るかどうかである。我々は1930年代のブロック経済へと漂流す
るのか。それとも、我々には、なにごとも市場に安全に任せておけ
るという幻想から自由に、グローバル化の管理され変更された形態
を構築する知恵があるかである。
 
そしてここに、ポイントがある。グローバル化からの混乱した、厳
しい退却は1930年代の経済や政治をリバイバルさせ、その傷跡
を通り過ぎざるをえない。しかし、核拡散の時代には、さらに恐ろ
しい結果に結びつく。したがって、私たちは、断然最良であるよう
に、幻想なしで、そしてただ適度な希望をもって働かねばならない。
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電力、雑記雑録送信者 
Eiichi Morino 

エネルギー問題についての雑記・雑録を他のMLに書こうとしました
が、こちらに投稿させてもらうことにします。 

エネルギーや環境の問題の所在に気づかされたのはずいぶん前で、
学生時代。地球環境の汚染が話題にされはじめたころで、先駆的に
そうしたテーマに取り組むひとが出てきたころだった。指導教官は
そうした研究をされている方々に、ひとこと、「コール・クエスチ
ョンですな」と。 

エネルギー危機が最初に叫ばれたのは、今日のような電力の時代で
はなく、蒸気の時代、ウィリアム・トムソンが、英国のエネルギー
問題につき、「蒸気の時代」(つまり石炭の時代)が終わることを
警告したのが1881年だった。彼が懸念したのは石油ではなく石
炭であったが、問題の構造は変わらない。それ以降、石炭問題は議
論を呼んでいった。研究室ではジェボンズの議論が話題となったと
記憶しているが、当時のイデオロギーで首が回らない状態のおろか
な私にはその意義を理解することができなかった。 

そうして自身の関心の中心にくることはなかった。それが環境派の
議論に親しむようになった20年前くらいから、違ってきたか。原
発事故の前からしたり顔で、化石燃料の時代を問題視する議論をな
さる方々の意見を聞かされていたが、考えてみれば、そうした懸念
を最初に表明したのは、米国で核海軍と原子力産業の父と言われた
ハイマン・リックオーバー提督。彼は1957年に「今日、石炭と
石油、天然ガスが世界のエネルギーの93%を供給している。」ち
ょうど一世紀前の1850年は、「化石燃料は世界のエネルギーの
5%であったし、人間と動物が94%を供給した」と言っている。
57年である。私なんぞ生まれてまだそれほど経ってはいないころ
だ。こうしたエネルギーの動力化が19世紀央よりもはるかに高い生
活水準を可能にしたのはたしかだろう。 

なつかしい未来という人がいる。人力と牛馬の力でまかなう世界を
なつかしんでいるのだろうか。 

しかしリックオーバーの関心は当時すでに2000年以降にはいつ
かは、そして2050年までにはもっともありそうだが、化石燃料
は枯渇するだろうということであった。 

つまりいまネットでみられるピークオイルコミュニティの議論を先
取りしていた。彼の場合、化石燃料枯渇に対するオプションとして
核があったが、それですべてをまかなうなんぞという核エネルギー
開発への夢を抱いた20世紀前半の人々とはいくぶん違っていた。
小型化した原子炉を自動車の内燃機関におきかえることを夢みるこ
とより、自動車という形そのものを消滅させていくような方向を考
えていたようだから。 

彼のみるところ、「高度なエネルギー消費は常に政治権力にとって
必要不可欠であった。」石油生産は1957年に比べ5倍、更新可能
エネルギーがリックオーバーが想像したよりも確たる基礎を確立し
ているとはいっても、我々はいま、石油、石炭、天然ガスが世界エ
ネルギーの80%以上を供給している世界にいる。確実に、リック
オーバーが化石燃料の時代と呼んだ時代にいる。 

更新可能エネルギーへの期待があるにしても、問題の状況は変わら
んなあ、と。そうして核がオプションにならない答えがひとつ加わ
っただけの状況だ。加えて、この間、その選択をした尻拭いに、幾
世代にもわたって原子力産業や技術者を養い、廃棄のプロセスを積
み重ねていかねばならない事情も加わった。 

皮肉なことだが、化石燃料の時代への批判を原子力推進派から反原
子力の方々は引き継いでいるようにみえる。ここに含まれる問題は
後回しすることにして、動力源がスティームから電力に変わるころ
の事情はどうであったのか少し振り返ってみたい。動力源としての
電力の供給網として電力グリッドの死活性が英国で意識されたのは
第一次大戦による。 

・・・ 

東電をどうする? 
発送分離? 
日発の歴史をどう総括するの(電力民有国営;いわゆる電力国管)? 
等々いろいろ問題はありますが、 

まずは電力グリッド、豆知識から。 

電力グリッド、いつどこでなんのために? 
英国では、第一次大戦における産業動員で電力手当てで困難に逢着
。英国は電力源を水力ではなく火力が主体で、発電所は工場の近く
に立地させた。つまり送電網というものがほとんどなかった。とこ
ろが戦争は産業を動員するために電力も集中動員しなければならな
い状況をつくる。そこで送電網を一元化し運営を国営にする考えが
登場することになる。 
米国では有名なルーズベルトのTVA(ニューディール)に先立ち、広
域の発電送電をできるだけ連携させ一組織の運営とすることで効率
化が図れるとして、 実現に着手していた。 
日本の乱立していたともいえる五大電力(東邦電力、日本電力、東
京電灯、宇治川電気、大同電力)は送電網もダブっていたり資本の
二重投下もみられたり、過大な設備投資資金の外債への依存など問
題山積、そういうなかで公益優先の考え方で改革が試みられたが、
その背景には英米の動きもあり。 


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