実体の行為として、可能かどうかと頭とコトバでできることとの二 つの系 虚風老 批判というものは、やってる人にとって楽しいものかもしれんのう。 しかも、自分自身の言動が再検証も、本当の論証による反論を受け ない立場であれば、いっそう、感情と思い付きを垂れ流しにして、 「どうして、こんなこともわかんないんですかね」なんて、したり 顔していられるわけじゃ。テレビのコメンターターや、司会の無責 任な正義ズラの発言には、よくそう感じる。 (つっこみどころ満載というのは、こういうことかもしれない) テレビは見世物だからで割り切ればいいが、それによって、動かさ れる人は多いじゃろう。 マスメデアも基本的な機能は、「拡声器」であろう。だから、 宣伝=広告というシステムにのっておる。それに多額の金銭が支払 われ、クライアントの意向が重視されるわけじゃ。 批判というのは、両面から可能でじゃろう。 何故もっとはやくやらなかったともいえれば、そんなに、熟議しな いままおこなうのが悪いんですともいつも言えるからの。 「行為」というのは、一つしかなく、決定的である。そして、それ そのもの「行為」には矛盾というものはない。しかし解釈は立場に よって、棒を右からみたり左からみたり上下斜め、いかようにも評 せる。矛盾というものがあるのは、行為についての解釈である。 矛盾があるためには、それに対する、「言語性=観や論理の違い」 にある。一つの論理系そのものはある{前提}を措定し、そこから 発展させるがゆえに、論理内では閉じている。 そこで論争があれば、論理から逸脱している方があやまりとなる。 (数学のように) 厳密に論理というときは、無矛盾性がある。そういう意味で論理と は「線」であるといえる。 しかし、{前提}を別とした論理系の間には<矛盾>、あるいは立 体の中で線と線の間にあるような、交差しないことが生じるわけじゃ。 言語を使用する限り(言語自身が、それを将来する=言語そのもの が、完全になにかを規定−定義できないからだ=ただし、日常で使 われるのに差し支えないほどぼんやりとしたあいまいな合意は持ち 得る)<矛盾>は避けられないかもしれない。短距離の論理なら、 それは顕在化しないかもしれんがね。 言葉は、同じように使っているようにみえて、その個人が所属する 歴史や経験(読んだ本とか含めて)違っておるのだ。 我々は、行為的実体(物理的といってもいいかもしれない)と言語 的(情報−やそれを処理する回路特性=心理的)生活を両方の規定 を受けている。 だが、言語的=認識上どうあろうと、物理的実体は、ただ一つ起こ っている。 放射線の量が、危ないとか危なくないとかは認識だが、その行為( 切ったりあるいは生体がまたそれを修復したり)はただ事実として 起こる。 人は、「自分が正しくない」というのには長く耐えられないのかも しれない。 だから、自己正当化や開き直りや他者へ転嫁してしまうのだろう。 ワシは経済というのは、欲望の体系であると思っておる。 修道院のように欲に対しての制限を自主的に受け入れるとか、ある いは「足るを知る」という哲学に達するのは「個人的な戦略として 見いだすことのできる高み」であるかもしれないが、 それを社会全般に押し付けることは可能でないようにおもえる 矯正教育のために、収容所にいれられるのは、ごめんじゃな。 自分でしっかりと考えてみて、その考えの上で自身の行為(行動) を選ばなくてはならない。 それは一人一人選び方はちがうじゃろう。しかし、選んだそのこと が、その人間を規定(空間上にも社会関係上にも)する。 じっくりと、自分自身とそして外世界と自身を見詰めるのも、一興 かもの。 虚風老