3868.禊する読書、そして沖縄の隠された過去



禊する読書、そして沖縄の隠された過去
From: tokumaru

みなさま、

 一昨晩と昨晩、東久留米の一九会道場の寒修行に参加しました。
 これは夜7時から8時まで、庭で、上半身裸で、呼吸法と祓いをす
る行です。
 一昨年と昨年はそれぞれ一晩だけ参加したのですが、一昨日行っ
てみると、なんと日本人1名、東欧から来ている外人1名というさび
しい状況だったので、昨日も参加したのでした。

 行きがけの電車とバスの中で思ったのは、もし人間が自分の知っ
ていることしか新たに知ることができないのであったら、なんのた
めに読書するのだろうということでした。

 読書して、自分の意識に照らして、面白い、つまらない、同感だ
、異論があると、あれこれ思ったとしても、所詮すべてそれは自分
だけに有効なもの。そして、じつは、自分は読書を通じて新たに何
も獲得していないのです。

 これは、韓国合宿で金芝河の問題に遭遇したり、台湾合宿でサイ
さんに靖国神社にお参りするように言われて、それで自分がどれだ
け変わったのかということを問うこととも通じます。

 しかし、読む本によってコロコロ思想や生活を変えることなんて
できないし、逆にそれは危険です。

 どうすれば、自分の知らないことを本から学べるのか、正しい本
の読み方とは、何か。


 これは本に限りません。

 よい芸術作品、私の場合は何といっても荒川修作ですが、よい作
品がどうして人々に受けないのかということとも通じます。

 どうして人は本当によい芸術作品を求めないのか。

 おそらく、よい芸術作品を本当に味わうためには、見る者・聞く
者の自己変革が求められるからでしょう。

 読書を含めて、芸術作品との付き合いは、禊であり、修行であり
、試練でなければならないのではないか。

 その本や作品と正面きって向き合って、必要であれば何度でも読
み直す、鑑賞しなおす、そうしているうちに、自分自身が変化して
いって、それを味わえるようになる。

 そんな気がします。


 夏の合宿で沖縄が予定されていますが、沖縄戦は、韓国以上に情
報がない気がします。集団自決のような「事件」はそこそこ報道さ
れていますが、それは真実のわずかな部分であり、本当のことを覆
い隠すためのカモフラージュであるように感じています。

 近づけば近づくほど、沖縄戦は、一般に思われているのと違って
、純粋で、悲惨で、そして愚かであるかもしれません。大本営の過
ちとは、誰の過ちであるのかといったことを、かみ締めなければな
らないことになるでしょう。

 かなりしんどいと思います。

 沖縄に関する本も、実は非常に少ない。灯台下暗しというやつで
すね。

 泡盛を飲むだけ、沖縄料理を食べるだけなら、東京でもできます。
わざわざ行って、苦しい思いをするよりも、楽しく飲んで食べるほ
うがいいかもしれません。

 迷いますね。

得丸久文


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