3856.アートと著作権



インドにおけるマイクロファイナンスの犠牲者
From: Eiichi Morino 

以前からマイクロファイナンスの法外な金利による自殺者の増加は
指摘されてきたが、最近も増えているようだ。

The Other Face of the Global Economic Crisis: 
Debt Driven Suicides in India

http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=22496

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森野サン
ぐんまの白川です。マイクロファイナンスについては現代美術の業
界の中でも一時期は盛んに言われ、これを導入して作家の生活が確
保できるようにしたい、と言われてきました。一番そう発言してい
る作家たちは、ほとんどそういうファイナンスを必要としない有名
作家です。このあたりが美術界の不思議なところ。

あと今年は日本国内でおおきなアート展があちこちでありました。
この成功の戦略的鍵は、明治以来のアートについての各政府機関の
争奪戦、、、明治の初めは通産省関係がアートを導入、外貨獲得の
産業として、、、やがて文部省がナショナリズムの装置としてアー
トを獲得、勝利、、、この状態が70年代までつづく、70年代の
万博で一次的に通産省が再びアートを獲得するが、すぐに文部省に
奪回、、、90年代のバブルを契機にふたたび通産省関係がアート
を獲得して行く。イギリスのクールブルタニカを例に、マンガ、ア
ニメなどをとりあげ産業化路線を打ち出すが、文部省は目標喪失、
政治力低下で動きはとれず、、、こういう状況の中で通産省、国交
省関係から膨大な予算を引き出してアートプロジェクトが行われた。
観光産業としてのアート。

アジア、世界へたいしての日本のあーとのあり方をしめせる有効手
段としてアートが活躍した1年でした。
しかし当然のことながら70年代の万博でもそうでしたが、このイ
ベントによって作家の選抜が明確にされて行く。作家と作家でない
人。才能ある人ない人。

僕はぐんまで「アート難民」というのもありだな、と思っています。
しらかわ
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亀井です。(^-^)/

著作、特許の問題は日本はまだまだ途上国ですよね。

映画業界では、映画作家に著作権はないとされており、「映画監督
って何だ!」という映画も作られていますし、作詞、作曲の著作を認
めている音楽業界は中間マージンを貪る著作権協会やレコード業界
があるために、安価での音源提供が出来なく、単価の決定権もレコ
ード業界があるため、ネット配信の際、坂本龍一などが一律単価は
おかしいと異議を唱えたこともありました。

輸入盤と国内盤の価格差はよく云われますし、著作権を中間業者に
ゆだねる日本は、複合芸術である映画などで権利関係が複雑になり
すぎて、例えばアメリカ本国ではクリエーター同士の了解により発
売されている音楽を題材にした「ナッシュビル」などDVD発売されて
いるのに、日本では発売が不可能と云われています。

また、著作権切れで裁判化した「シェーン」などは国内正規発売を
していないのに、著作権切れの販売は違法と裁判になっています。

欧米では著作の管理を主張する、しないをクリエーターにゆだねて
いるのに対し、日本は基本的に、公開されたら著作は発生するとい
う自然発生の論理を採用しているので、著作の放棄は認められてお
らず、例えばブログで書かれたものはブログを管理するプロバイダ
ーに著作があるとされているらしいです。

ソフトウェアのフリーソフト、シェアウェアも日本では法整備がさ
れていないはずで著作はあるけど、フリーなどの条件が課せられて
いるそうです。

更に特許権では、薬品など新薬開発で、例えば急務を要するエイズ
やガンの特効薬の新薬特許が枷になって、途上国に薬が行き渡らな
い問題があり、その打開策として、一定期間経た新薬のジェネリッ
ク化がなされるようになったけど、最新の新薬の恩恵を受けられる
のは、医学先進国のブルジョワ層(働かなくても暮らせる層)に限ら
れているとか。

日本の医療施設もWHOの基準を満たす医療施設は国内一箇所しかない
と聴きますから医療施設の安全性にファイナンスは使われておらず
ここでもその恩恵が上流の一部以外の国民には受けられていないと
いうことでしょうね。

インドも著作、特許が中間業者の利益になるような仕組みが行われ
ているのじゃないでしょうか。

日本の観光業界も中間業者の利益優先はよく語られていますし、接
客サービスの下手さは観光立国を謳う北海道でもよく云われていま
す。

この頃は外国マネーによるニセコ、ペンションの即金買いなどが
話題となり、日本の建物の外国資産化が始まり、世界の文化遺産の
買いあさりのように日本も切り売りされていくのかなと思っていま
すが。

目先の欲に走る日本の資本家が、政治家を操って、日本を貧相にさ
せているのでしょうね。

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From: Eiichi Morino

白川さん
こんにちは
アートも産業であり、産業化していくものですが、そうではないと
考える人も、そうだと思う人も、凡そ産業として立っていくには、
その深い根ざしが、どこにどのように届き、根がどれくらいはって
いるかに依存していることは否定できないでしょうね。その意味で
アート難民はアート活力の源であると思います。深い根ざしを忘れ
軽視したときいかなる産業も衰退しますから。アートでご商売の役
人や事業家が忘れがちな点でしょうか。根を殺して産業を育てるこ
とはできません。アート難民を放置し駆除するアートの世界はすぐ
に打ち捨てられる切り花となるでしょう。


インドのマイクロファイナンス危機については、その貸出規模から
みて金融システムの危機に発展することはないとインド中銀が火消
しに努めていたころ、別の場所で取り上げたことがありますが、日
本ではさほど話題にならんかったですね。貧者に金融アクセスを可
能にした点は評価されるにしても、といっても日本ふうに言えばサ
ラ金で借りれなかった人が借りれるようになったのと変わりません
が、その高利な貸出や借り入れた人間たちへの相互監視の導入など
、表向きの綺麗事に隠れた問題はずっと批判されてきました。しか
し少数派の意見として無視されてきた印象があります。ようやく自
殺者が増えてきて無視できなくなったというところですね。マイク
ロファイナンスを持ち上げて社会的栄誉を得た方々はいまどのよう
な弁明をなさるのでしょう。チト気になるところです。

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森野サン
お久しぶりです。 アート難民と呼ばれるはずのかなり大きな存在
があると思います。
2000年からの地域おこしのアートプロジェクトは、国交省の予
算を使って大規模に行われてきました。しかし基本は「創造的都市
」とか言われるイギリス流の経済地域活性化政策の日本版です。

ふりかえってみると70年代以降の公共野外彫刻展や公共施設への
彫刻設置のブームと定着が、現在のアートプロジェクトの動きに僕
はかさなって見えます。上位にいる作家にとってはこれらの政策は
お金、名誉、権威、ステータスがつくうまい話です。
無論選ばれなかった作家は無数にいます。才能がない、と切り捨て
るのも正論かもしれません。アートが産業であって近代的な意味で
の職業であれば、そうなのかもしれません。

村上隆などは市場の中に入って来れない奴はだめだと言っています。
歴史と市場のアリーナに入ってこそ、作家としての意味、価値があ
るということでしょう。しかしそのアリーナはベンヤミン的には「
勝者の歴史」の世界だけで完結しているものです。

しかし毎年美術系大学から卒業してくる学生数はすでに、近代的美
術市場の許容量をはるかにこえています。
制作でも鑑賞、批評でもすでに大きな量のアート難民を作る出して
いると思います。

ぐんまの田舎にいて、この世のアートはどうなってるんだろうかと
思います。
負け犬の話は聞きたくないと言われそうですが、これで良いのかと
疑問に思います。
しらかわ
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From: Eiichi Morino 

確かに市場という闘技場で売れなければ仕方ない、支持されなけれ
ば無価値だという社会ですね。そうして勝者は報奨を得て歴史に刻
まれる。敗者は忘れられる。社会は勝者の栄誉を喧伝し、闘技場の
闘いに参加する予備軍を作り出す。これはアートの世界がギ・デュ
ボーがかつて批判したスペクタクルになっていることですね。予備
軍は次々にアリーナに登場し見せ物として消費される。ひとそのア
ート表現がそんなかたちでしか評価されない仕組みはいったいどう
なのかと疑問に思っても別の選択肢があるようにも見えない。人々
も文化的消費物をメディアに操られながら求め続ける。いやアート
はもっと人間の根源に根をもっていると思っても無視されることと
「さあリングに上がれよ、勝って君は評価されるのだ」との声に無
力だ。

いつか全く違った光景のなかで只今の敗者に違う判定をくだす正気
の人間や必ずいると信じるしかないかもしれません。単なる消費物
と違ってアートであればこそ。

ローマの闘技場はローマと運命を共にしました。ゲルマンは違う社
会と文化、アートを持ちました。スペクタクルの社会はいずれ環境
と資源制約のなか崩れさるでしょう。権力と権限、カネを掌中にし
たアートの権威者と彼らが運営し演出するアリーナも運命を共にす
ることでしょう。

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亀井です。

アートを消費と考えるか、文化と考えるかなのだそうです。

消費と考える日本は文化価値を理解できずにいるらしく、アートか
ら次なる価値を生むことをわからないらしく、文化資産をもりかい
できていない。

日本の大道芸は消費からまねることで、次なる価値を生んだもので
、著作権云々が社会資産を増やすことを阻害することも耳にします。

アートから次なる価値を生むことが出来るかどうかが文化資産なの
でしょうね。
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From: Eiichi Morino

たしかに、アートの資産化はアートの価値が独り歩きし始める文化
の問題なんでしょうね。同時に新たな作り手との関わりを持ち直す
「状況」として著作権も含めてアーティストに向きうものかもしれ
ません。

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亀井です。(^-^)/

コピー文化華やかな1960年代、如何に本物よりも優れたコピーを提
供するかを競った時代に幼少期を過ごしたので、思うのですよね。

wikipediaで、
「広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザイン
が選ばれたが、原爆を落としたアメリカの人間であるとの理由で選
考に外れた。
しかし彼のデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原
爆慰霊碑」に生かされている(丹下はこのプロジェクトにノグチの
起用を推挙した)。」

と美談のように語られているこの話も実のところはどうなのかなと
思ったりもするんですよね。

今の時代は豊かさゆえに、工夫や独創性というハングリーさが失わ
れ、叶えうるアイディアも底がついた時代といわれています。
#古代ギリシャの文明のコピーを永遠とやってきたとも云われますが。

「著作権」はある意味、生き残りのイス取りゲームなのかも知れま
せんね。


プロジェクト WISDOM どうなる日本
http://www.nhk.or.jp/wisdom/1101/theme.html

すこし気になります。
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From: Eiichi Morino

著作権なんてものが、金本位と同様に「野蛮の遺物」になる時代が
すぐそこに来ているのかもしれません。かつて10数年も前、欧州
のゲゼリアンと交流があったCCC(カオス・コンピューティング・
クラブ)のハッカーたちの流れが、いま、海賊党やウィキリークス
に流れているようです。
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From: Eiichi Morino

日本もそうだけど、米国におけるワーキングプアの厳しい状況の
リポート

「ひどい景気後退が米国のワープアに厳しい打撃:働く世帯の3世
帯にほぼ1世帯が米国では低所得である」

http://www.workingpoorfamilies.org/pdfs/policybrief-dec2010-embargo.pdf

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こんにちは。

江戸末期から明治、大正にかけて、おおよそ近代の流行歌の研究が
あったかと思います。
それによると江戸末期の1つの歌の流行は短くて十年〜二十年つづ
いたものです。それに比べ、現在は半年で売り飛ばせばヒットとい
うわけです。一年もたてば誰も歌わない。
歌の寿命がこんなにまで短くなった原因はいろいろあるとは思いま
すが、その一つに著作権があるのではないでしょうか。
歌が流行するのは、みんなが想像力を働かせて一つの歌を変えたり
ひねったり、いろいろするからはやるわけで、著作権は想像力を人々
から奪い取る方向にしか働かないわけです。

AT&T社のUNIXをカルフォルニア大学が著作権侵害をしたということ
で、AT&Tがカルフォルニア大学を訴えた裁判からフリー・ソフトウ
エア運動を起こしたストールマンが同じことを言っています。
かつてソフトウエアは商品ではなかった。
有能なハッカーがお互いに自分のソフトウエアを譲り合うことでソ
フトウエアが発展していくのだというようなことです。

簡単に言えば、自分の著作物利用に際し「コピーさせないことを禁
ずる」というライセンス契約をすることによって(逆手にとった訳
ですね)、
ソフトウエアのコピーの自由を守る運動がフリー・ソフトウエア運
動です。

昨今のコンピュータやインターネットの発達により、コピーかコピ
ーでないかの境目が形骸化し、これは面白い方向だと思いますが、
コピーに対する様々なテーゼはもっと昔からあるようですね。マル
セルデュシャンの「泉」はそれ自体著作権侵害(?)ですが、その
複製をデュシャンに許可をもらって多量に売りさばいたバイヤーが
いるとか。

ちなみに、知人がこんな本を出しました。(amazonでは発売日はも
う少しあとのようですが.....)

村上直之
『近代ジャーナリズムの誕生 [改訂版] イギリス犯罪報道の社会史から』
* 単行本: 296ページ
* 出版社: 現代人文社 (2011/1/5)
* 言語 日本語
* ISBN-10: 4877984704
* ISBN-13: 978-4877984700
* 発売日: 2011/1/5

その帯に、『ウィキリークスは正統なジャーナリズムの直系である!....(中略)....
あらためて問う19世紀ラディカル・プレスの「知識への課税との戦
い」の歴史』とあります。おもしろそうです。

森 ひろひさ
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亀井です。(^-^)/

コピー文化の始まりは印刷だそうで、手写しも代筆屋というビジネ
スになっていたけど印刷で一気に大量生産に変わったがゆえに、産
業革命が成り立ったとか。

流行歌の短命化はアイドル不在の時代だからなのじゃないでしょう
か?
アイドル=清潔のイメージをぶち壊し続けたマスメディアが
アイドル不在の時代、流行に揺さぶられる姿は滑稽なものです。

今の若者たちが潔癖に著作権を神聖なもののように捉えるのは不思
議に思え、何の恩恵も受けていないのにと思うんですよね。

著作権云々が云われるようになったのは
多分ディズニー社のミッキーマウス延命法案あたりからだと思うけ
れど、50年前のミッキーマウスを越えるキャラクターを作り出せな
い会社が、その政治力(創立者の軍事産業支援は有名)で生き残りを
かけただけの著作権延命なのに、それがここまでメジャーになるの
は団塊の世代以前の著名人の資産確保だからなんでしょうね。

カラオケ一曲歌われる毎に10円支払われる著作権はやはりおいしい
でしょうから。

そして、今、流行歌が短命になった代わり、歌われ続けるのは70年
代、80年代の団塊の世代以前の著名人が作り、歌った歌ですから。

映画界のリメイク・ブームも似たような安全パイだからとか。

それだけ世の中、世知辛くなったのでしょうね。

#一番消費度の高い20代が月給10万円未満という暮らしをしている
時代ですから。
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From: Eiichi Morino

情報ありがとうございます。

コピーレフト、いいですね。ずっとその精神に鼓吹されてきました。

若い時分に、堀田善衞の「定家名月記私抄」を読んだとき、歌人たちが
その世界でイデーを取り合っている(交換)しているという指摘になるほど
と思わされました。各自が歌を詠みながら実はその表現はさまざまでも
その基礎にはイデーの交換があるというわけです。この書物で、和歌の
本来の意味を知ったのですが、それは「和する歌、要するに、こたえる歌
の意なのである。・・・つまり現代的な独立した一首の詩歌という意は、原意
には添っていないのである。それはつねに応答、交換を期しているもので、
場合によっては会話、対話の一種でさえある」と。たしかに堀田善衞は、
ドガが詩を書きたい、イデーはあるんだと言ったときヴァレリーが詩は
ことばで書くものだと応えた逸話を引き合いに出して、表現における技芸の
意義を強調してもいるのですが、それはイデーの重要性を指摘したうえでの
こと。著作権は和歌さえ「独立した」一個の詩歌に閉じこめてしまうことで
しょうね。

個人的な趣味で近世の農学を研究していますが、そこでも、近世の学者たちが
いかにイデーを交換しあっていたか実感させられています。そうしてそれが
農学者たちの独自の達成をもたらしたかに気づかされます。






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