3827.禊ぎとは何か



禊ぎとは何か 思想道場としての読書会
From: tokumaru

皆様、

読書会が「禊ぎの場」でありえるでしょうか。

言葉という情報を処理する読書という作業を、禊ぎのように純粋な
境地へと高めることはできるでしょうか。

できなくもないと思うのです。いやむしろ、禊ぎの場としなければ
、知性は輝きをもたないでしょう。

南さんの「ヨーロッパ人の心 第四章」の一節:

 現実の世界から出発して、ひとつひとつ論理的に推論していく、
いわば現実世界の延長では、理想や本質を見ることはできません。

 逆説的に聞こえるかもしれませんが、知的な活動は、思考の積み
重ねでは決してないのです。本質を直に観る、直観なのです。

 なぜならば、現実から出発した、つまり感性で得られた経験をい
くら発展させても、理想型をはっきりと観ることはできないからです。
 経験を一足飛びに飛び越えなければ、本質をとらえられないのです。

 こうした一足飛びを要求されることが知的活動であり、知的活動
を引き起こすものが知性です。このような読書会のあり方が大切で
あるならば、読書会はひたすら禊ぎの場でなければならない。

禊ぎとは何か。

合気道も禊ぎだといわれます。それは、3つの要素があります。
(と私は考える)

1 記憶を止める。(過去を忘れる) 考えない。私を捨てる。無心
    になる。
2 感覚を鋭くする。大事なことだけ注目する。「今・ここ」に集
    中する。
3 ひたすら体を動かす。

読書会の場合、3で、ひたすら頭を働かせるということになります
ので、普段から正しい概念の獲得と、正しい概念の体系化が必要に
なります。

正しい概念と概念体系が構築できていなければ、正しい読書、知的
な読書会活動は不可能です。

孔子の正名論が重要となるわけです。

以下は、今朝、寝起きに思いついた「合気道が禊ぎであるとはどう
いうことか」です。

ご参考まで

得丸


***** 合気道が禊(みそ)ぎであるとはどういうことか *****

 一昨日の11月23日、自由が丘道場創立記念日に多田宏師範のご指
導のもとで剣と丈の特別稽古をしたためか、早々と目がさめた。こ
れは頭の中にある、禊ぎについて整理するためかもしれない。

 合気道とは禊ぎである、と常日頃、多田先生がおっしゃっておら
れる。

 禊ぎとは何か。実際に禊ぎ道場で禊ぎに参加した人は多少なりと
もわかるが、その経験がない人はさっぱりわからないかもしれない。
禊ぎに参加したことがない人たちのために、別のわかりやすい言葉
で説明をしてみたい。

 もちろん、私がどこまで禊ぎを理解しているか、はたして正しく
理解しているかは、自分では確かめようがないことである。読者の
判断にゆだねる。

  *** 禊ぎとは何か ***

 合気道が禊ぎであるというのは、3つの心の状態である。

 そのうちの2つは、稽古に入る前に、正座しているときにそうな
っていなければならない状態、安定打坐(あんじょうだざ)である。

 安定打坐は、まず、

(1) 考えない。思考を止める。

 考えない。思考を止めるとは、まず第一に記憶を止めるというこ
とである。何かを思い出す行為を止める。これが考えないというこ
とである。

 万が一、何かが彷彿として記憶を呼び覚ましたとしても、そこで
止める。それ以上、何も思考操作をしない。

 また、自分が自分であることも忘れることが大事である。同様に
、相手が誰であるかも関係ないということになる。

 我々は知能をもっているので、生まれてからこのかたさまざまな
記憶が脳内に蓄積されている。これらの記憶を一切想起しない。そ
れが考えないということである。

 言葉は、後天的な記憶であるので、言葉も使ってはならない。

 稽古中に口をきくなというのは、言葉を発するな、ということで
ある。言葉の意味とは記憶であるので、言葉を聞いた側も、記憶が
想起するので、稽古の邪魔になる。

 基本的に稽古中は一切口を開いてはならない。

(2) 呼吸を整え、五官の感覚を研ぎ澄ませ、情報処理モードに入る

 安定打坐は、考えない状態であるが、ぼんやりしてはいけないと
、常に先生もおっしゃっておられる。

 考えないというのは、記憶の想起作用を停止することである。記
憶を停止すると、記憶をもたない単細胞生物の感覚と同じリアルタ
イム・モードになる。つまり、「今・ここ」だけに集中するという
ことである。

 五官の感覚を研ぎ澄ますと、さまざまな現在の状況の刺激が脳に
送られる。

 たとえば、お昼近くになると、近所の焼肉レストランのいい匂い
がすることもある。これが脳に届くのはいたしかたない。しかし、
それによって、レストランのメニューを思い出したり、お腹が減っ
たなあ、この後何を食べようかなどと考えてはいけない。

 不要な刺激は、その場で、ノイズとしてカット、フィルター処理
するのだ。いい匂いがしても、その段階で注目しなければ、これは
要らないと体が判断すれば、匂いはすぐに感じなくなる。

 ひたすら、何も考えずに、無心に、外界の刺激を受け入れる。

 すると、必要なものだけ、意味を生み出すものだけ、動きだけ、
変化だけが見え聞えてくる。この状態を情報処理モードという。


  稽古の前と後に(1)と(2)の状態に入ることが安定打坐である。

(3) 禊ぎとは安定打坐の状態で、全力投球・全力疾走、力を出し切
ること

 禊ぎモードになるためには、(1)と(2)の状態を維持したまま、全
力で状況に立ち向かう。

 自分のことも考えないのだから、「疲れたら嫌だなあ」とか、「
あの人は痛いかな」とか、余計なことは一切考えずに、ひたすら、
一生懸命に稽古をする。

 「長いなあ。疲れたなあ」ということも余計な考えであり、「は
じめ」から「よし(終わり)」までの間、ひたすら稽古を続ける。
疲れることが嫌な人は、稽古に来ずに家で寝ているほうがいい。

 疲れることを厭わずに稽古を続けていれば、だんだんと体や心の
無駄な動きがそぎ落とされて、疲れない体と心が獲得できる。これ
が禊ぎの目的である。

 このようにして稽古をすることが、合気道は禊ぎであるというこ
とではないだろうか。

得丸公明
==============================
得丸さん
 
合気道の例がでたので書いてみました。
 
++++++++++++
 合気道も禊ぎだといわれます。それは、3つの要素があります。
(と私は考える)
>
> 1 記憶を止める。(過去を忘れる) 考えない。私を捨てる。
   無心になる。
> 2 感覚を鋭くする。大事なことだけ注目する。「今・ここ」
   に集中する。
> 3 ひたすら体を動かす。
+++++++++++++++++
 
いずれも私が色々な合気道の先生から教えられてきたことと共通し
ています。
日本の「道」を教える姿勢に共通する内容であろうかと思います。
また、いずれも「守・破・離」と段階的に少しずつ個性的に習得し
ていく方法であろうかと思います。
 
この場合にも、真如を求めていく妄念からの関係があるのかもしれ
ません。先生の真似を繰り返し行って体で覚えながら
型のみではなくその型の心をも読み取って習得していく。見えない
けれども「道」の求める絶対神のようなものに近づいていくという
ことではないでしょうか。
 
無分節の真如を求め感じるために集中し、無心になる必要があるの
かもしれません。
「体を動かす」は形而下に落とすことによって(分節によって)形
而上の抽象的な内容が明確に具体的に理解できるということではな
いでしょうか?
 
小川
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小川さん、

合気道の諸先生のご指導に照らしての、禊ぎの定義のご確認ありが
とうございました。

僕もあんなことは滅多に言葉にしないのですが、たまたま今朝思い
ついて言語化してみました。

一点だけ、悩ましいのは、「形而上」「形而下」をどう理解するか
です。

「形而上」=「哲学」という崇高さを感じる一方で、
「メタフィジックス」は、怪しげな「錬金術」でもあるし。

>「体を動かす」は形而下に落とすことによって
>(分節によって)
>形而上の抽象的な内容が明確に具体的に理解できる

明確に具体的に理解できると、抽象的概念ではなくなる。
少なくとも、体験者にとっては、具体的概念になる。
そして、非体験者にとっては、以前と同じく、抽象的概念のまま。

つまり、わかりたければ、言われたとおりに身体を駆使して、抽象
概念が自分の中で具象化するのをまつしかないということになるの
か。

そうなると、激しく修行する以外に、覚りは得られないということ
になりますかね。

とくまる





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