3826.分節を音韻的に



分節を音韻的に論じていた国語学者たち
From: tokumaru

みなさま、

来週の例会で井筒俊彦さんを取り上げるのは、そもそもは、鈴木先
生が「分節」の意味を「ことばによって世界を分類する」といった
意味で使っておられたことがきっかけでした。

その用法が井筒さん直伝のものであるというところから、井筒言語
学・哲学(?)に挑戦しようとしているのです。

さて、ソシュールやマルチネが音韻的に分節(articuler)というコト
バを使ったのに、日本では言語学の先駆者である井筒先生が独自の
解釈を行なったというふうに考えていました。

ところが、ところがです。

偶然にも三浦つとむ著「日本語はどういう言語か」(講談社学術文
庫)を読んでいたところ、45ページに「言語表現の二重性」とい
う項目があり、分節論に触れていました。

まずはじめは、

「コトバの本然の姿わ、あかんぼなどの、でたらめな音声系列の発
出とわちがい、はっきり定まったねいろをもつ音声のはっきり定ま
った順序をほどこされたものであることを要する」
「人間がその思想、感情をなかまに伝えるべく、分節された音声を
用いておこなう表現活動ーーこれが・・・・・コトバの意味なので
ある」(小林英夫『言語学通論』1937年)

http://www.msz.co.jp/book/author/14565.html

小林英夫さんは、みすずから著作集がでています。

1903年東京に生れる。1927年東京帝国大学文学部言語学科卒。1929
年京城帝国大学法文学部講師(言語学、ギリシャ語)、1932年同大
学助教授。1945年敗戦により東京に帰還。1946年論文「文体論」に
より京都大学より文学博士の称を受けた。1949年東京工業大学教授
(フランス語、言語学)。1950年名古屋大学教授兼任(言語学)。
1963年東京工業大学退職と同時に名誉教授。同年早稲田大学教授。
1973年同大学退職。
1978 年死去。著書『言語学通論』(1937、三省堂)『小林英夫著作
集』全10巻(1975-77、みすず書房)訳書 ソシュール『言語学原論
』(1928;『一般言語学講義』と改題、1972、岩波書店)フレエ『
誤用の文法』(1934;改訳1973、みすず書房)バイイ『言語活動と
生活』(1941;改訳1974)同『一般言語学とフランス言語学』
(1970、以上岩波書店)。
ソシュールを翻訳しておられるようです。

ついで、

言語學提要 / 石黒魯平著(明治圖書出版社、1943.8)

石黒魯平さんは、昭和31年にお亡くなりになっておられるので
(1885-06-15〜1956)、ウェブ上で無料で本が手に入ります。
p55
「言語はふしのある(有節の)、ふしにわかれた(分節の)音の集
まりである。言語が社会的の出来ごとであり、人と人とが思考や感
情を取りかはす道具であるからには、それは目とか耳とか、鼻とか
肌とか、いはゆる五官のうちのどれかを刺激して、何か感じを起さ
せるものでなければ役に立たない。以心伝心といつて、さういふ感
覚のお世話にならずに、思考や感情を取りかはすこともあるにはあ
る。併しそれは毎日の生活に於て好きな時に出来る芸ではないし、
又込入つた考へを間違いなく伝へるかどうかあやしい。
どうしても感覚をわづらはさなければ、毎日の生活で、こみ入つた
考へは無論のこと、こみ入つてなくても一つ一つの考へや感情を、
間違ひなく取りかはすのに安心が出來ない。目も口ほどに物を言ふ
から目つきを使ふもよからう、そのほか顏の表情や身ぶり手まねも
よからう、手ざはりもよからうが、どれも細かな、こみ入った心の
働きを傳へるには都合がわるい。色々あたつて見ると、耳を刺激す
る昔を使ふのが一番都合がよい。吾々が今日問題にする言語は全ぐ
昔の集まりである。
どうして音の言語が外の方法よりも優勢になつたのかは、ほじり立
てる必要もあるまいが、アメリカのホイトニ(William Dwight Whitney)
に言はせると、只一番都合が良いからである。ソシュールに言はせ
ると、それもさうだが人間の天性にもよるといふのである。ともか
く言語は音の集まりである。
(略)
言語の音は有節のもの、分節のものでなければならぬ。即ちふしが
あつて分けられる音でなければならぬ。といふのは何の意味である
か。足音などは立派にふしがつけられる。さういふことをいふので
はない。有節とか分節とかいふのは一つの術語であつて、音節をも
つてゐる、音節を分けることができるといふ意味である。」(石黒
魯平『言語学提要』P55-56)」

http://uwazura.cocolog-nifty.com/blog/files/isiguro_gengoteiyo.pdf

井筒先生はこれら国語学者の先行文献を参照しなかったということ
でしょうか。

得丸公明
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皆様、

そもそもどうして井筒俊彦の本を取り上げたかというと、『ことば
と文化』の中で、「分節」の意味が一般的な用法と違っているので
はないかという疑問を呈したところ、「いやいやそれは井筒言語学
の用語ですから」という回答をいただいたところに帰着します。

「ことばがあるから世界を認識できる。ことばが世界を分節する」
という意味で、articuler を使っているのはたしかに井筒言語学が
そうであり、それが井筒言語学の中心概念ですが、他の言語学者に
はそのような用法は見つかりません。

これをどのように理解すればよいのか、というところ出発点でした。
これが第一のテーマとなるでしょう。言語学の音韻論における中心
概念が「分節」ですが、最近は用語の混乱もあるせいか、あまり議
論がホットではないようにも感じています。

テキストは「大乗起信論」を哲学的に読むことを目ざしています。
大乗仏教の中心概念である、「真如」、「本覚」、などの言葉の典
拠となっている「大乗起信論」をどう理解するのかというのが、第
二のテーマになります。

そのとき、解釈とは何かという問題が生まれます。したがって第二
のテーマと若干つながりますが、井筒流の哲学的に読むとはどうい
うことをいうのか。これを明らかにしなければなりません。これが
第三のテーマです。そもそも本を読むとは、読書はどういう行為で
あるのか、どういう行為でなければならないか。

得丸

「ことばと文化」をあらためて読むと、いろいろと考えさせられることが多いの 
ですが、ひとつだけ定義というか、言葉の使い方で、皆様の知見なりお伺いして 
おければと思うことがあったので、事前に思ったことを書かせていただきます。

***** 分節という言葉について *****

「ことばと文化」p31,33,38で用いられている「分節」という言葉は,どうも一 
般的な用法と異なっているのではないだろうか.

1.分節の「節」にはどんな意味があるだろうか

「分節言語」は,もともと日本語にはない概念で,翻訳語である.

まずは一般的用法をみてみよう.

原語はフランス語のlangage articule(ランガージュ・アルティキュレ)だが,こ 
の語の意味が明確でない.

英語でarticulated languageと訳されるが,langageとlanguageは文字面(表現 
型)は似ているが,意味(遺伝子型)としてはlangue(仏)が language(英)に近く, 
langageはむしろ「言い回し」を意味するwordingに近いように思う.

どうも英語訳も表現型の次元にとどまっている.深い意味にまで迫っていない.

OEDは,articulateに"1.はっきりと発音する□(考えや感情を)流暢に理路整然と 
表現する: 2 関節を形成する□関節によって結び付けられる"と定義を2つ示す.

参考まで,日本語でも「節」は多義的に使われる.「関節」,「区切り」,「メ 
ロディー」(節回し),「歌」(安来節).「分節」はそのどれかの意味なのか,あ 
るいは複数を意味するのか.また音楽用語の「節」,「小節」,言語学の「音 
節」,「文節」との関連はあるのか.


2.分節言語という言葉はどのような文脈で用いられてきただろうか

(1) ブイヨー
langage articuleという言葉が具体的に用いられた例としては1825年のブイヨー 
の論文がある.
(Bouillaud, J.-B. Traite clinique et physiologique de l'encephalite, ou 
inflammation du cerveau, 1825,矢倉英隆氏による邦訳)

論文に目を通した方によれば,言葉の定義は行なっていないが以下のような表現 
がある.

「話振りや言葉の記憶の変化は脳の前葉の障害とよく一致し,脳の他の部の障害 
ではその変化がなくなる.

脳の前葉に言葉,あるいはわれわれの考えを表わす主要な記号の生成と記憶の場 
所がある.脳の前葉がlangage articule の場所だと結論できないだろうか.」

この後,「口がきけなくなるためには脳以外の原因,すなわち音を発するために 
必要となる筋肉の麻痺を考える必要がある.しかし,その麻痺も脳の前葉の変化 
とよく対応している.言葉の記憶に関わる部分と言葉を発するための神経を識別 
する必要がある」と続く.

(2) ブロカ
ブロカは1861年に解剖学会で行なった報告の中でlangage articuleについて論じ 
たが,定義はしていない.

(Broca, P.P. Remarque sur le siege de la faculte du langage articule 
suivi d'une observation d'aphemie 失語症の1例にもとづく構音言語機能の座 
に関する考察,萬年甫・岩田誠編著「ブロカ」東大出版会1992に所収)

ブロカは「構音言語の特殊機能をめぐって少なくとも2つの仮説をたてることが 
できる」として,「知能障害である高等機能」か「単なる運動障害」かの可能性 
を示し,前者である見込みが多いと思うが,はっきりと見解を表明する勇気はな 
いと語っている.

(3) ランガージュの意味

同時代の文献にlangageの定義をみると,「考えを表わすすべてのシステムを 
langageという.話をすること,身振りをすること,象形的・表音的文字を書く 
ことなど.(略)以下のものが完全な状態にあることを前提とする.1)いくつかの 
筋肉とそれを支配している運動神経とその中枢神経系,2)いくつかの外部感覚器 
と感覚神経とその中枢神経系,3)ランガージュの一般的能力に関わる脳の部分.」
(de Font-Reaulx, J-L-J., Localisation de la faculte speciale du langage 
articule  矢倉訳)

3. 分節言語に本能的部分はないだろうか

上のlangageの定義は「考えを表す」こととされているが,言語的思考以前の感 
情の部分,知能以前の本能の部分はないだろうか.鳥が仲間とさえずりあうよう 
に,ヒトも仲間と一緒に歌う本能があった.言語が生まれた後,それが会話を楽 
しむ習慣になった可能性はないだろうか.

鈴木先生の「教養としての言語学」には,(p54)「人間という動物は,声を出す 
という行為,それもリズムをつけて発声することそれ自体に快感をおぼえるとい 
うタイプの,極めて特殊で例外的な動物だから」という表現がある.

ヒトはおしゃべりを思考や情報を伝達する道具として使うだけでなく,おしゃべ 
りそれ自体を楽しんでいる.声にこそ出さないものの,我々の頭の中では四六時 
中無音の内言が生まれている.我々の脳は感情のおもむくまま休むことなく言葉 
を紡いでいる.

したがってlangage articuleは,高次の知的構文機能も含むが,その前提に本能 
的な,感情にしたがって単語を連鎖状に結合して音声化する作用を含んでいないか.

たとえば禅修行を実際にやってみると,修行で求められる心の中の言語活動を止 
めることがどれほど難しいことかわかる.言葉に意味を加える以前に,言葉を紡 
ぐことが快楽になっているのではないか.

遺伝子とヒト言語の相似性という点から考えると,ブロカ野あるいは分節言語の 
機能は,単語という意味単位を結合するので,細胞質でアミノ酸をペプチド結合 
するリボソームの役割と似ている.DNAの二重らせん構造に記憶された概念と文 
法の単語が,転写され修飾・編集されて,ひと連なりの音声として紡がれていく 
プロセスは,神秘的ですらある.

4. 「ことばと文化」における「分節」の意味

というように「分節」をarticulationという意味で使うと,このように議論が広 
がる.

しかしながら「ことばと言語」において「分節」をdifferentiate(区別する,分 
類する)という意味で使っているように見受けられる.

これはどちらかというと,むしろ,ことばの「かくれた規準」の問題,概念体系 
の構築の規則についての話ではないかと思う.

この点を皆様はいかがお考えであろうか.

得丸公明
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タカの会の第5 回研究会の盛会ぶりと発展について
From: tokumaru

みなさま、

タカの会への感想を書きましたので、ご参考までお届け申し上げま
す。小川さんの色即是空のことにも言及していますので。

得丸

***********************************************

「鈴木孝夫の世界1」の出版祝賀会を兼ねたタカの会の第5回研究会
は、まるでジャズのジャムセッションのように参加者と鈴木先生の
心がひとつとなって盛り上がり、これまでにない盛況ぶりでした。
鈴木先生すばらしいお話をありがとうございました。

質問者、問題提起者の皆様、松本さん、中村さん、裏方の皆様、ほ
か参加者の皆様、お疲れ様でした。

唯一足りなかったのは時間ですが、質問や感想を述べる時間が持て
なかった人は、あるいは時間が足りなかった人は、メールをタカの
会事務局に送ることで、ジャムセッションに仮想的に参加できます。

言葉は情報ですので、形を変えてネットワークできます。会場で音
声化できなかったメッセージを、電子メールにすれば、読み手の心
の中で言語化されます。これは言葉が「空の記号」だから可能なこ
となのでしょう。言葉は、肉声(音声)としても伝わるし、文字化し
て手紙や本などの文書としても伝わるし、電子化して01のビット情
報にしても伝わります。「空の記号」でなかったら、こういう芸当
はできないでしょう。

私も感想というか、質問というか、テキストを読んで感じたこと、
鈴木先生の昨日のご講演を聴いて思ったことを述べさせていただき
たいと思います。

1 言葉の正しい使い方

テキストにもありましたが、昨日の黒板を使ったご説明にもありま
した、言葉を「1 自己顕示」に使う中国型、「2 相手の攻撃・
折伏」に使うアメリカ型、「3 相手のよいところを学び自己改革
」する日本型の中で、どれが正しい言葉の使い方であるのか。

情報の使い方として、1はプロパガンダ(宣伝)であり、2はマニピ
ュレーション(操作)であり、3だけが情報を自分の意識・知識デー
タベースの中で処理して、新たな意味づけを行なって、価値を生み
出している行為ではないでしょうか。

「和魂漢才」・「和魂洋才」という言葉がありますが、魂(意識)が
きちんと構築されているから、才(言葉=情報)から新たな意味が生ま
れるのではないでしょうか。

(今の民主党政権の混乱ぶりは、魂がしっかり構築されていないか
ら、よい政策が生まれないのだともいえます。魂は政権を奪取すれ
ば一朝一夕に生まれるものではないのです)

昨日の鈴木先生のご講演から、3の日本型の自己改良、自己改革の
ために情報を集めて、理解して、自分の文化として自分流に受け入
れるというのが本来あるべき情報の使い方、ことばの正しい使い方
ではないかと思いました。

これは、言葉という表現型を生み出し処理する実存的な意識・魂の
涵養もとても大切であるということになります。

逆に言えば、日本の本をいくらたくさん英語やその他の外国語に翻
訳したとしても、読む人がそれを理解して、日本のよいところを学
ぶ魂(意識)を持っていなかったら、「豚に真珠」、「馬の耳に念仏
」であり、何の意味も生み出さないということにならないでしょう
か。

2 「空即是色」の空(言葉)と色(文化)の緊張関係

9月の研究会のときでしたか、小川さんが質問で「空(から)の記号
」と「色即是空」の関係について触れておられたかと思うのですが
、そのときは「単なるこじつけかな」、「から」と「くう」は字は
同じだけど、つながるのかあと思いました。

しかし、その後今回のテキストを読んだり、他の本を読んで、言葉
が空の記号であるということと、文化が色、つまり現実であること
との関係が、「空即是色」であるというのは、意外に当たっている
のかもしれないと思うようになりました。

空の記号は、言葉だけの問題ですから、何でもいえます。

学者が難しい言葉をならべていろいろな哲学や宗教のことを説明す
るとき、結局、言葉を別の言葉で説明しているだけで、どこまで聞
いても、生々しい現実、身につまされる体験が表現されることはあ
りません。(実は最近、井筒俊彦著「意識の形而上学」を読んでい
て、何かが足りないという印象を持ったのでした)

空の記号をいくらたくさん並べても、どんなにリズミカルで、どん
なによどみない言葉であっても、それは所詮言葉の羅列にすぎない。

「ことばと文化」というとき、私はこれまでずっと長い間、「こと
ばは文化のひとつである。文化の中でももっとも重要な基盤をつく
るものである」という風に渾然一体に考えてきていましたが、さら
にその奥に踏み込んでいくと、「言葉は空の記号で表現型であるが
、文化は実態のある遺伝子型であり、短い言葉によって言い表され
ることができるが、現実にはものすごい知識や体験の集合体である
」ということばと文化の緊張関係が存在しているのではないでしょ
うか。

たとえば、「大根の桂むき」という言葉。言葉にすればわずか10文
字で、2秒もあれば声にできますが、実際に大根を包丁で桂むきにす
る技を習得するのは、一朝一夕にはできません。青首大根が適して
いるとか、包丁は薄刃包丁がよいとか、桂むきをつくったあと水で
さらして千切りにして刺身のツマにするとか、そういった技や使い
方に関することは、現実の問題です。さらに、誰に教わったか、ど
うやって上手になったか、どのようにして弟子に技を伝授したかと
いった問題も現実の問題です。

これが空即是色、空の記号と色である現実の関係ではないでしょうか。

すると、色即是空とは、現実に直面したときに、正しい言葉が生み
出されること、正しい言葉が生まれることをさすと考えられます。

正しい言葉が生まれるように、正しく概念獲得し、概念体系を構築
しなさい。

これが色即是空の教えである。

言葉と文化の関係を、氷山の水上部分と水面下、つまり表現型・情
報と、遺伝子型・現実の緊張関係として捉えて説明をこころみた言
語学者は鈴木先生だけであり、これは禅者が論じていることに近い
のではないでしょうか。

つまり言葉以前の世界です。

言葉という表現型以前に存在するものを考察するというのは、鈴木
つながりの大拙的な発想、禅の考え方ともいえますが、鈴木大拙が
、ことばと文化としてそれを論じていたかどうか、知りません。

以上、感想とも質問ともつかないことを述べさせていただきました。

得丸公明
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井筒さんの本
From: "MINAMI
南です。

第13章まで読んでの感想です。
本覚−不覚やアラヤ識全般については、読み終わってから述べるとして、
今回は、真如や心をめぐる議論について述べます。

一番の疑問は、コトバにもときおり言及しながら、
意味分節が「間文化的普遍論」になっていることです。
その意味では、プロティノスの「一者」や「充満の原理」を並行的に出す
ことは正しいといえましょう。
プロティノスは、プラトンのイデア論や創造論を発展させ、
「一者」が善のエネルギーで存在を流出させ、存在しうるすべての存在を
世界に充満させている(元々「一者」の中に可能相として充満していた)、
と考えた人です(3世紀中葉の人)。
彼の考え方は、アウグスティヌスによって取り入れられ、キリスト教教理の
ひとつの柱になりました。
なお、学際の先駆者A.O.ラブジョイの『存在の大いなる連鎖』は、
「充満の原理」を西欧科学哲学史の中心に据えています。

ただ、第3章で、絶対存在の捉え方にも文化的背景があり、
それゆえ様々な呼称があると言っておきながら、意味分節を汎文化性に
してしまうのは、矛盾していると思うのです。
意味分節にコトバ(意識でも同様だと思いますが)が介在する以上、
その文化性(蝶と蛾を区別する日本とそうでないフランスのような)は
「普遍化」できないのではないかと思うのです。

これは、そのまま宗教的救済の普遍性を否定することかもしれません。
それは、「個的実存」を舞台とする「本覚−不覚」「アラヤ識」の議論に
つながってきますので、後ほど(最後まで読んで)コメント致します。

南
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南さん、なつかしいです。

僕は4〜6章を担当したので、とくになつかしい。五賢帝の時代があ
って、プロティノスが登場する, 精神的にもそしておそらく政治的
にも経済的にも安定した時代。

西洋思想も東洋思想も、同じ人間の思想ですね。

このところ、デジタル進化について考えているものですから、

「プロティノスが、存在を成り立たせる原因として、「一者」、知
性、魂の三階層を考えた」ときの「一者」とは、「複雑さを生みだ
すもの」、すなわち「デジタル原理」と考えられないか。

すると、「存在を存在として成り立たせている究極の原因は」、ゲ
ノムや言葉の情報であり、

「本質を直に観る」知的活動は、「エピジェネティックス」(ゲノム
情報はそのままだが、つなぎ方だけが変わることで生まれる進化)、
あるいは「再結合による創造性」。

(Francois Jacobは「創造とは再結合である」といいました)

デジタル情報の処理は、処理回路が重要です。

「知性」とは、自らの心を鎮め、精神と肉体を練磨することによっ
て、自らの情報処理回路のエントロピーを下げる行為であり、それ
によって送られてくる情報の処理の可能性を最大化し、再結合して
新しい情報を生みだす力ではないか。

という風に想像(Mousou)がふくらみました。

得丸
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一者はデジタル原理か
From: "MINAMI
得丸さん

「一者」はその中からあらゆる存在を紡ぎ出せる原理だと思います。

「ヨハネによる福音書」の「はじめにロゴスありき」は、
正統派キリスト教には、神のロゴス(言葉)がイエスであり、その交感が聖霊
と解釈される(というか、そう解釈したのが「正統派」になった)のですが、
一方で、ロゴスを論理=世界の切り方(意味分節)と解釈すると、
ギリシャ的な汎神論になり、グノーシス思想、中世の「異端」、さらには
ジョルダーノ・ブルーノへとつながっていく、二面性を持っています。
(個人的には後者の解釈に魅力を感じます)。

一者の本質(神性、仏性、、、)が、あらゆる存在(の魂)に偏在し、
普段はそれに気付かない「不覚」状態にあるわれわれ(の魂)に、
一者(真の神、本覚)は、つねに呼びかけの信号を送っている。
ふとしたときにその信号に気付き、一者を愛し求めるようになり、
真の知(新薫過程)をたどることで、一者に再び合一できる。
これは、1世紀から3世紀にかけて、地中海世界からインドまで
(すなわちヘレニズム世界)に広がっていた救済論だと思います。

作者不詳、元々漢語で書かれていたともいわれる『大乗起信論』ですが、
大乗仏教隆盛時のインドでの思想を伝えているのではないでしょうか。

本質を直に観てあらゆる存在を創り出す知的活動は、まさに
「情報の組み合わせを変えている」と言い換えてもかまわないでしょう。
組み換えと再結合により、存在する可能性もったすべての存在が
新たに創造されていく、というのはプロティノスの充満の原理に合います。

妄想(妄念?)ではないと思いますよ(笑)。

ところで、井筒先生の「意味分節」についてですが、
「形而上レベル(真如の話をしているとき)に汎文化的」なのは
形而上レベルだからなのだ、と納得しましたが
(するとコトバも文化的実存を取り去ったものになりますけど)、
個別実存レベルで、「意味分節」とコトバの作用する場所が異なっている
ようで、違和感を禁じえませんでした。

得丸さんはどのように解釈されましたか?

南
==============================
南さん、

> 「一者」はその中からあらゆる存在を紡ぎ出せる原理だと思います。

だとすると、デジタル原理とも重なりますね。

> 真の知(新薫過程)をたどることで、一者に再び合一できる。
> これは、1世紀から3世紀にかけて、地中海世界からインドまで
> (すなわちヘレニズム世界)に広がっていた救済論だと思います。

西欧がヘブライズムを指導原理として採用する以前ということになりますか。

> 作者不詳、元々漢語で書かれていたともいわれる『大乗起信論』ですが、
> 大乗仏教隆盛時のインドでの思想を伝えているのではないでしょうか。

その可能性も大いにありますね。
篠田英雄さんの「大乗起信論講説」(文一出版 1973)は、はっきりと
インド起源説を述べていました。

> 組み換えと再結合により、存在する可能性もったすべての存在が
> 新たに創造されていく、というのはプロティノスの充満の原理に合います。
> 妄想(妄念?)ではないと思いますよ(笑)。

どうも、ありがとう。

> ところで、井筒先生の「意味分節」についてですが、、、、、

ある人が使っている抽象概念を正しく評価し、他の人たちの
使っている抽象概念との比較をするというのは、とても大変
な作業で、まだなんともいえないところです。

そもそもの発端である井筒流「分節」は「唯名論」です。
言葉があるから世界が成り立つ、認識できるという論理です。
これがそもそも正しいのかという問いは可能でしょう。
、
ソシュールも、フンボルトも、ブロカも、レヴィ=ストロースも、
そして時枝も、小林英夫も、みんなみんな音韻論です。
どうしてわざわざ混乱を招く用語(翻訳語)を使ったのか。
井筒さんは、他の学者の著作を読まなかったのでしょうか。
他の学者と話が通じたのでしょうか。

意味分節論は、「東洋哲学の精髄」(p40)であるのか。
そのとき東洋とはどこまでを指すのか?

非常に困った問題だと思っています。

得丸
==============================
得丸さん

> そもそもの発端である井筒流「分節」は「唯名論」です。
> 言葉があるから世界が成り立つ、認識できるという論理です。
> これがそもそも正しいのかという問いは可能でしょう。

なるほど。それで混乱したのですね。

>皆さま
なお、前のメールで「偏在」とあるのは「遍在」の誤りです。
プロティノスも、グノーシス派も、人それぞれに仏教でいうところの
仏性がある、と思っていました。
出エジプト記で、神は自分を「在りて在るもの」と言っていますが、
これをとことん考えると、やはり遍在性につながります。
(そう考えたのはスピノザですね)。
ユダヤ教もキリスト教も、教典の中に「異端」の入り込む余地があって
面白いです。

南


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