3804.意味論について



意味論について

鈴木言語学は,言語学といいながら,概念論,意味論,概念体系,
価値基準,論理判断・論理操作といった言語過程の川上から川下に
及ぶ全プロセスに及んでいることが今回確かめられた.ここに『こ
とばと文化』の魅力はあるのだろう.


得丸様

いつもご教示頂き感謝いたしております。特に先日のMLで触れて
おられた、意味論、これ自体、新しい学問であるようですが、得丸
様のヒトの進化探求とヒトの言語の進化を関連させて深化される展
望などお聞かせ頂ければ嬉しいのですが。

ご承知のように意味とは何かに始まる論、単語内部の意味的構造、
単語間の意味的関係(類義、反義、包摂など)、「統辞論的構造」
の間の意味的関係などのが意味論研究の分野に成っていると本では
紹介されたのを読んだことはあるのですが、この統辞論すら理解し
ていないものですから。
浅山
==============================
浅山さん

得丸より

ご質問ありがとうございます。

>意味論、
とても大事です。

>これ自体、新しい学問であるようですが、
新しくないのですが、難しいから誰もやらない、手を出さないだけ
だと思います。

>ヒトの進化探求とヒトの言語の進化を関連させて深化される展望

ヒトとは言語を獲得したことによって、遺伝子を変化させることな
く、文化の次元で進化するようになった動物です。

言葉を獲得したから、ヒトは急速な進化をしました。

言葉はデジタル符号であり、デジタル符号は情報を伝えます。した
がってこれは情報による進化です。あるいは、エピジェネティック
(DNA構造は変化させないで、その結合方法だけを変化させる)
な進化といえます。現象的には遺伝子や免疫でも起きていることで
す。

これは概念(記憶)と文法(接続・修飾規則)を組み合わせることで
、進化がおきるのです。

ただ、問題は、情報によって進化するためには、情報を正しく遺伝
子型に置き換える思考回路が必要であることです。

どうもヒトは、ここで間違えてしまったのだと思います。

動力機関や科学技術を獲得したときに、自分は音声通信をデジタル
化したサルでしかないのに、他の動物よりも偉いという間違った考
えに染まって、家畜化を始めました。

シーシェパードの人たちがクジラは保護すべきだが、ウシやブタは
人間が食べるために神様がつくりだしたなどとほざくことが一番間
違っています。言ってる内容も間違いならば、神様の言葉として
それを引っ張り出すことも間違っています。もっとも愚かな考えで
あり、もっとも罪深いことを家畜に行なっているのが彼らです。

日本の江戸時代は、家畜化に逆行したと聞いています。また、ヒト
はサルより毛が3本多いだけだということがいいふるされている不思
議な国です。日本こそ人類にとって本覚の地、聖地ではないかと思
います。

孔子は、概念構築や抽象概念を使うにあたって、それが正しく構築
され、使用されることにこだわった数少ない(もしかすると唯一の
)思想家ではないでしょうか。正名論がそれです。(論語・子路)

>意味とは何か
これはパブロフの犬の実験結果と同じで、外部刺激と五官の記憶が
生命論理によって結びつけられたパターン認識です。

>単語内部の意味的構造

これはちょっと意味がわかりません。

単語とは、音韻的にはひとつのシンボルです。
内部?というのは、とくにありません。

ベルの音や、メトロノームの音と、「りんご」、「いしころ」とい
う単語とは、同じ働きで、記憶と結びついています。

ただ、ヒトの場合には、「たんご」、「まんごー」、「さんご」、
「りんじ」、「りんどう」など一文字変えるだけでまったく別の単
語をつくりだすことができる。これこそが「空の記号」のものすご
さです。構造的には複数の音節(デジタル符号)によってつくられ
ていますが、これらの単語はそれぞれひとつのアナログ刺激として
認識されています。

犬も「継時複合刺激」として、複数の刺激をまとめてひとつの音韻
刺激として受け取ることはパブロフも実験で確かめています。ただ
犬が自分の能力によって、ベルの音や、犬の吠え声だけでは、何万
種類の単語を作り出すことは難しい、というか不可能です。

犬は人間の言葉を聞き分けることはできますが、話すことはできま
せん。

>単語間の意味的関係(類義、反義、包摂など)
これは概念体系の問題です。それをベースにした概念操作、ブール
演算の問題です。

たとえば、「りんご」と言われて手渡されて、生まれて初めて、り
んごを実際に食べた子どもは、その後で、「りんご」の属性に応じ
て、「くだもの」の一種である、「皮は赤い」、「甘酸っぱくてお
いしい」、「秋」の食べ物である、などなどのカテゴリー付けを、
本能的に行ないます。

これを行なうのは、生命論理であり、おそらく脳の古い部分が働い
ている(大脳基底核?)のではないでしょうか。

類義、反意、包摂などの関係もすべてこの生命論理が判定していき
ます。
添付ファイルの2.3.1をお読みください(人工知能学会 知識
ベースシステム研究会報告書SIG-KBS-A904-10 2010/03/30)

2.3.1生存本能の論理
 すべての動物にとって脳は判断を行なう論理装置である.五官か
ら新たな知覚が取り込まれると,それに反応するかしないか,戦う
か逃げるか,右か左かといった0か1かの判断を瞬時に行なうのが脳
の役割である.脳をもたない単細胞生物や植物も,外部の刺激に向
っていくか背くかの態度を選ぶ.これは生命が生き延びるためにも
つ本能の作用である.

 同じ脳の論理装置がコトバや概念体系を処理する.ピアジェによ
れば,「どんな人も,各自の心の中に,分類,系列化,説明体系,
自分一個だけの空間,時間,価値尺度など」をもっていて,「事物
がでてくればそれを分類し,比較し,(同じか,ちがうかの双方),
時間および空間の中に秩序だて,説明し,目的と手段とを評価し,
計画し,等々のことをやって」,「その人の一生を通じて心の中に
ある」群や群性体の操作を行なっている.[「知能の心理学」より]

 コトバは脳によって均衡をたもったひとつの概念(符号語)体系と
して構築される.このとき脳の論理装置が,そのコトバが結びつい
ている記憶のすべてを吟味し評価して,体系の中のしかるべき場所
に位置づける.小説の題名や主人公の名前のように,コトバはたっ
た一語でそのコトバに関連する記憶の総体を表現することができる.

 ヒトの論理装置は動物的な生存本能と,生後に獲得した知恵によ
って構成され,評価や行動の基準となる.自然との付き合い方,仲
間やよそ者との付き合い方,既知・未知の現実やコトバの見方や受
け入れ方などは,各人の脳の論理装置が決定する.

==============================
井筒俊彦の本「意識と本質」
From: tokumaru
                
皆様

井筒俊彦の本としては、岩波文庫から「意識と本質」というのがま
だ販売中で、入手できそうですが、なんとなく言葉の表現型がむず
かしげで、僕は読んでも感動するより批判してしまいそうで怖いで
すが、どうしましょうか。

言葉に酔いしれるのが好きな方には面白い本かもしれませんが、私
は、アラヤ識とか、深層心理というアプローチではなく、もっと脳
の生理学的なアプローチのほうが冷静でいられてよい気もします。

でも井筒さんを扱うと決めたのであれば、これしかないですね。

1)のブログで紹介されている言葉ですが、

「意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象
の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するとこ
ろに生起する内的状態であるといわなければあるまい。」

井筒さんが上の文で何をいいたかったのか、わかりません。
だから以下はあくまで僕の想像ですが、僕だったら、こう言いたい
ですね。

「意識とは体系化された概念が知覚された状態である。
 概念とは音韻符号語である単語の記憶と五官の記憶(記憶群)が
生命論理によって結びつけられたものである。
 したがって、意識は、表現型である言葉と、遺伝子型である本質
、すなわち個人的な体験や五官の記憶である。
 本質とは、言葉とは無縁に存在している生々しい現実であり、そ
の現実から我々の五官が受け取る感覚である。」

得丸


以下、参考まで各種HP・ブログから
1)
http://blog.kohan-studio.com/archives/50827649.html
何日か前、撮影中に雨に降られた。傘をさすのが面倒で、近くの木
の下に入り込んで雨をやり過ごしていた。20メートルぐらい先にあ
る別の木を何十分も見つめ続けていると、そのうちに何だか変な気
分がしてきた。何で木は「木」なのだろうか。木をその周囲と区分
して認識するのはなぜなのか。木というのは単独で存在しているわ
けではなくて、地上部、地下部ともに周囲の環境と相互にさまざま
なやり取りをして生きているものである。それを木だけを取り出し
て考えるというのは、人間の頭の中の活動のある種の偏りがもたら
す便宜に過ぎないのだ。というような考えが、思弁的ではなく直覚
的にわき上がってきた。そうだ、これは井筒俊彦だ!というわけで
再び読み返してみたくなる。

「意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象
の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するとこ
ろに生起する内的状態であるといわなければあるまい。」意識と本
質 I/井筒俊彦/1991

言語によって世界が分節されまくった状態がわれわれの生きている
日常的世界である。言語なしには目の前の世界に普通の調子で(つ
まり意識がある、という状態で)接することはできない。それだけ
言語はわれわれのものの見方をガチガチに決定しているのだ。写真
も当然その延長線上にある。いくら中心的なモチーフを隠蔽したと
ころで、指示対象を拡散させたフラットな画面を作り出したところ
で、写真は必ず言語による分節作用を通過してしまう。写真が単な
る薄い紙の表面に展開される色の重ね合わせと見えるようにならな
い限りは、指示対象から逃れることなど絶対にできないのである。

2) 岩波書店HPから
東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身に
ひきうけて主体化し,その基盤の上に新しい哲学を生み出さなけれ
ばならない.本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の
方法によって展開した壮大な哲学的営為であって,その出発点には
自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった.

3)2chから
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/philo/1115873889
54 :通行人:2006/04/13(木) 23:50:10 
井筒は結構剽窃をしてゐる。本質実在論についてのマラルメとリル
ケの相異はコプルストンの哲学史そのままだ。 

http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/philo/1115873889
考える名無しさん:2006/10/30(月) 21:23:45 
昔、井筒俊彦の『意識と本質』を読んだときには、 
何かとても高揚した感覚を得た覚えがあります。 
しかし、私はしだいに井筒俊彦氏と距離を感じるようになりました。 
それは彼が「東洋思想」と何の留保もなく言ってしまうからです。 
彼の言う「東洋思想」には中国・インド・日本はもとより、 
イスラム・ギリシャ・ヘブライまで入ります。ですが、そんな 
「東洋」がどこにあるというのです? 違うと思うのなら、 
中国思想、インド思想、ギリシャ哲学、ユダヤ教を勉強してみて下さい、 
勉強すればするほど、すべてがバラバラになっていきます。 
「その同じきより見れば、万物は皆等しく、 
その異なりより見れば万物は皆異なる」とは『荘子』の言ですが、 
井筒さんは「その同じきより見る」ばかりで、その異質さを見ない。 
こういうと井筒さんはそれは西洋的・表層的な見方であると言うのでしょう。 
でも、それではあなたはどうなのですか? 東洋のそれぞれの地域の差異を 
無視し、それを「東洋」の名のもとに包括する。そのような見方は西洋の 
オリエンタリズムそのものではないのですか? 
また、あなたは西洋哲学を浅薄であると批判し、西洋現代思想の終着点は 
すでに東洋が千年も前に到達していたとおっしゃいます。 
確かに、それはそうかもしれません。しかし、そのために西洋はどれだけの 
苦闘を経たのでしょうか? 第一次大戦や第二次大戦といった西洋思想の 
根幹から生じたような破局を経験した西洋は、それをどうにか克服しようと 
大きな努力をはらってきました。しかし、その間、東洋は何をやっていた 
のでしょうか? 既成の権威に胡坐をかき続けていたのではないのですか? 
そのような東洋に、西洋を浅薄であると批判する資格など、 
本当にあるのでしょうか? 
以上のような疑問を感じてしまいました。 
不快に思われた方は読み飛ばしてください。  

4) 
http://www.libru.jp/detail3622.htm
非常に難解。訳文じゃなく、日本人が書いた日本語だというのに、
ここまで意味がわからないかというぐらい、難しい。
インド・中国起源の東洋哲学と、イスラム哲学についてかなり細か
く解説がされている。イスラム哲学の考え方についてはほとんど初
めて知ったので、イスラムでもここまで深く本質論について考察が
されてきたということには驚いた。
もう一つ、かなり面白かったのは、カバラや密教の中心教義になっ
ている「言葉」による世界解読のロジックが詳細に説明されていた
ことだ。その話しはやたらと込み入っているのだけれど、まだまだ
この本に書かれていることはその入口に過ぎないのだろう。
この本で繰り返し説明されているのは、禅宗の考え方の話しで、禅
は考案を通して「言葉」による対話を試みてきた。その中でも最も
基本的な考え方では、「山は山である」というところからいったん
「山は山ではない」という意識に変容して、その後また「山は山で
ある」というところに戻るのだという。そして、最初と最後の「山
は山である」が意味するものは、同じではない。
どの時代のどの地域の考え方でも、必ず出てくるのは「言葉」とい
うものが持つ性質の難しさという問題だ。何かを説明するには「言
葉」によって説明をせねばならず、しかし「言葉」を用いた時点で
既に、説明しようとするものとは異なってしまうという矛盾。
しかしまた、「言葉」は力でもあり、言葉が持つ力によってこの世
界は創造されたとする考え方は、あらゆる哲学において非常に根深い。
この「言葉が持つ力」については、ちょうど今興味を持っていたテ
ーマとぴたりと重なったので、その点、この本ほど詳しく説明され
ている本は他にはなく、とても参考になった。

 名言
リルケにとって、ものをその普遍的「本質」、すなわちマーヒーヤ
をとおして見ること、つまりコトバの普通の意味文節の網目をとお
して「本質」定立的に認知することは、ただちにそのものの本源的
個体性を最大公約数的平均価値のなかに解消してしまうことを意味
した。我々がXを「花」と認めるとき、Xはその一回限りの独自性を
奪われて、公共化され、画一化される。Xが花であるという形で意識
されるとき、XはもはやXという個物ではなくて、どこにでもある無
数の花の一つになってしまう。人間の日常的存在世界とは、マーヒ
ーヤの生み出すそのような平均価値の巨大な体系機構にほかならな
い。(p.51)

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、
「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」の実在を信じ
る人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままでは
なく、個物の個別実在性として直観すべきことを彼は説いた。(中略
)この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結
晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間の
ポエジーであった。(p.57)

伊川が曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を
窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして
窮め終った理が多く積もると、突然、自らにして貫通体験がおこる
のだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも
、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、と
いうのである。(p.95)

中国と日本を通じて、傑出した禅師たちの現在に伝わるおびただし
い言葉の中で、「文節(I)→無文節(II)」の全体構造を的確かつ明快
に提示したものといえば、青原惟信の「見山(水)是山(水)」→「見
山(水)不是山(水)」→「見山(水)祇是山(水)」にまさるものを私は
知らない。(p.145)

コトバの自己顕現の過程において、「深秘の意味」が言語アラヤ識
に直結する最初の一点、コトバの起動の一点、を真言密教は「ア」
音として捉える。いわゆる阿字真言、「阿字本不生」である。(p.232)

実範の『阿字義』に、「阿字は、すなわち是れ、本不生不可得空な
り。この畢竟不可得空は衆徳を具足して、普く一切諸仏の法を摂す
」と言われている。すなわち、いやしくも意識が意識として起動し
、存在が存在として現れようとする時、「無」から「有」へのこの
微妙な転換点に、必ずコトバが「ア」音の形で発現し、絶対無文節
者の自己文節はそのまま進んで一切万有まで展開していく、という
のだ。(p.234)

日本とでも「コト」は言であり事であるなどとよくいわれるが、ヘ
ブライ語のdavarという語は明確にこの両義をもつ。つまり言葉と事
物とを同一視するのだ。言い換えると、ヘブライ語を母国語とする
人々の深層意識では、言葉とものとはもともと一つなのである。言
葉とものとの、この深層意識における同一性の覚知を基礎として、
その上にカバリストは彼ら独特の言語哲学を構想する。(p.235)

禅を無彩色文化とすれば、密教は彩色文化だ、と言った人がある。
たしかに、密教的世界は極彩色の世界だ。禅は、「無」の境位にお
ける存在リアリティーの無色性を強調し、経験界、現象界について
も、その「無」的性格を重視する。経験界の雑多で華麗な色彩の只
中にすら、そこに顕現する「無」の無色性を、禅は見る。(p.254)
永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって粉乱する
感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度におい
て、イデア論と正名論は一である。(p.298)

よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbread
と訳したとたんに形象が違ってしまう。日本語で「パン」と訳せば
ますますです。はじめから食物の文節、つまり区分けの仕方が違っ
ている。つまりずれがあるからです。それに第一、日本人の「パン
」とフランス人のpainでは、それを取り巻く生活環境が違います。
フランス人の生活の匂いの染み込んだpainを、今では日本的生活の
一部になりきってしまった「パン」で置き換えても、意味内容は正
確には伝達されない。(p.385)

単純率直に申しますと、形而上的深みを欠いた水平的言語コミュニ
ケーションは、禅に言わせれば実存的意味のないあだ事であります
。他人を理解しなければならないとか、他人に自分を理解させなけ
ればならない、などと申しますが、もし当の私が自分自らを理解し
ないでおいてそんなことをして一体何になるでしょう。それがまさ
に禅の問題とするところなのであります。(p.408)
==============================
井筒俊彦『意識の形而上学』

本人はいたってまじめなつもりで、おもしろいことがわかったつも
りになって発言すると、それが周りの人をびっくりさせることがよ
くあります。

ま、びっくりするほうが悪い(というか若い)と僕は勝手に思って
いるのですが。

『意識の形而上学』は、井筒さんが「分節」を井筒言語学の中心概
念にすえていたことがよくわかること、さらに日本の仏教思想の中
心概念であり、本居宣長の「もののあはれ」にも通ずる「本覚」理
論について井筒さんが触れているからです。

皆様、ぜひこの本を読んできてください。また、本を読まなくても
、「本覚」や「分節」についての文献を読んできてください。

形而上学は、メタフィジックスという言葉の翻訳です。メタフィジ
ックス自体は「錬金術」とも通ずるなかなかに怪しい概念であり、
南博通さんが書いた西洋哲学史概説書「ヨーロッパ人の心」ともか
なりオーバーラップするところがあります。

僕はあまりメタフィジックスという言葉は好きじゃないので、「意
識のエピジェネティックス」といいたいところです。

エピジェネティックスも、むずかしい概念ですが、これはDNAやRNA
の個別の塩基の部分的な変化という意味で使われることが多いです
。僕にとってのエピジェネティックスは、ゲノムを文法によってつ
なぎかえるという意味です。

デジタル符号として考えるならば、個別の塩基の部分的修飾は、ひ
らがなの「は」の左の縦棒をはねるか、はねないかといった程度の
話だと思うので、概念と文法と考えたほうがダイナミックでいいと
思うからなのですが、、、。

(エピジェネティックスの意味の話は、11月26日にしましょう)


「意識のメタフィジックス」か、あるいは「記憶体系のエピジェネ
ティックス」か。

話がどう展開するか、まったくわかりませんが、どうか皆様、テキ
ストを読んできてください。鈴木先生との勉強会を続ける上で、井
筒俊彦の評価をそれぞれが自分の言葉で行なう必要があります。

あるいは、井筒さんの他の本や、大乗起信論でもよいです。

得丸
==============================
進化を生みだすデジタル情報
From: tokumaru

皆様、

先月の学習会に参加された皆様にはお配りした「進化を生みだすデ
ジタル情報」の予稿にもとづいて、情報論的学習理論と機械学習研
究会(IBISML)でポスター発表をしてまいります。

ポスターの一部がウェブ上で公開されましたので、ご参考までお知
らせいたします。

インターネットのレイヤー(階層)モデルに準拠して、ヒトの言語の
階層間の通信(プロトコル)を分析しただけの絵ですが、よそではあ
まり見かけない、オリジナルな組み合わせになっているかと思いま
す。

http://ibis-workshop.org/2010/preview/P4-1.pdf


ご意見ご感想などあればどうぞお寄せください。

http://ibisml.org/

http://ibis-workshop.org/2010/posters.html

得丸




コラム目次に戻る
トップページに戻る