3793.「分節」を「世界を言葉によって分類して認識する」



「分節」を「世界を言葉によって分類して認識する」と教えたのは
井筒俊彦先生だった!?
From: tokumaru  

−1− 分節とアーティキュレートの関係について

 松原先生が「分節」という単語を「世界を言葉によって分類して認
識する、識別する」という意味で使っておられることについて書き
ましたが、よく読むと井筒俊彦さんが『言語学概論』の中でそうい
うふうに教えられたようですね。

 鈴木言語学の用語・用法ではないというのなら、安心して、この
「分節」の意味をめぐる問題を提示してみたいと思います。要する
に、フランス語や英語のアーティキュレート(articulate, articuler
)と意味が違って使われているのではないかと思うのです。

 マルティネやレヴィ=ストロースは、むしろ音韻論的に、「音を
紡ぐ」(結節する)という意味で使っているように思えるからです。

 以下の点を、井筒先生の本などで調べる必要があるでしょう。
1)  「分節」は、「articulate」の訳語であるのか? そうでない
    なら、語源は何か。
2)  「世界を言葉によって分類する」という意味は他でも使われて
    いるのか。
3)  もし「世界を言葉によって分類する」という意味であるとする
    と、「double articulation」や「articulated language」とい
    う言葉の意味するものは何になるのか。

 参考まで松原先生の記事は以下の通りです。
「井筒さんも授業の後で部屋に寄られることがあった。言語学概論
の授業では、我々は平然と秩序あるコスモスに暮らしているが、本
来我々を取り巻く世界は混沌たるケイオス(カオス)で言語という
格子が張りついていて混沌を隠している。世界は言語によって分節
されていて、言葉によって、見ている世界は違って来る。このカオ
スを体験することは難しく、サルトルの『嘔吐』は正にこのカオス
体験であるということなどを説いておられた。授業では言語がいか
に現実を歪めるかを、現象である『火』『雷』『生』など名詞にな
ると、実体化してしまうことや、感覚が我々を騙す錯覚など上手に
取り上げられた。」
「この井筒さんの『言語学概論』は席が取れないほどの人気で、多
くの学生を虜にした」として「江藤淳、山川方夫、三崎博子」とい
うお名前があがっています。
 このお名前で検索すると、ちょっと面白い記事が出てきました。
(三崎さんはご結婚により村上さんになったようです)

−2− http://41626.diarynote.jp/
<坂上弘−井筒俊彦宅の集まりで>
山川方夫も、井筒さんが助教授だった頃の言語概論ノートをのこし
ている。以前見たことがあるが、英、独、仏、露の作家や詩人や哲
学者の原テキストを恣(ほしいまま)につかい、われにとって言語
とは何か、信ずるに値することばとは何か、を語っている。
山川たち学生に出したレポート課題は、

一、言語が究極において沈黙になることの説明。

二、純粋詩といわれるものは、言語学にどういう意味があるのか。

三、同一の単語が散文と詩に使われた場合、全く異なった容貌を呈
    することの例をあげて説明せよ。

−3(その1)― http://magnoria.at.webry.info/

私がこのブログで何回かその詩を紹介させていただいた村上博子さ
ん(1930−2000)の選詩集「雛は佇む」(島朝夫・編 花神社 2001
)が古書店から届いた。アンソロジーに紹介されていた村上さんの
数点の詩に深く魅了された私は、インターネットで村上さん個人の
詩集を探してみたけれど、この詩集一冊しか見つけられなかった。
http://magnoria.at.webry.info/200710/article_25.html
http://magnoria.at.webry.info/200708/article_45.html
村上博子さんは2000年にお亡くなりになり、「立雛」(昭和40
)、「秋の紡ぎ歌」(昭和48)、「冬のマリア」(昭和59)、
「ひなあられ」(昭和61)、「ハーレムの女」(昭和63)、
「セロファン紙芝居」(平成12)の六冊から59編の詩を選録し
たのがこの詩集。村上さんは慶応大学仏文科在学中にイスラム学者
井筒俊彦氏の思想と学問に傾倒し言語学研究者の道へ進むことを真
剣に考えた時期があったがそれをきっぱりと断念し、その後カトリ
ックを受洗してその教義・思想を深く研究された方だという。お子
さんを流産された経験をお持ちで、お姉さまも夭折されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6 
詩人としては「山の樹」や「木々」「竪琴」の同人として詩を発表
されてきた。村上さんの作品とその足跡を追うことで、また私にと
って新しい世界が拓けて行きそうな予感がする。村上さんの詩集以
外のお仕事は次の通り。

・岩波セミナーブックス「コーランを読む」(1983) 推薦文
・井筒俊彦全集4「意味の構造」 付録4
・「白磁盒子」(井筒豊子 中公文庫 1992) 解説
http://www.kanshin.com/keyword/187572
http://www.geocities.jp/kodai_kura/tuusin5.html#1_3
・日本現代詩文庫「江島その美詩集」 解説 

−3(その2)―
作成日時 : 2007/10/22 18:05   >> 
 アマゾンで注文しておいた「白磁盒子」(井筒豊子 中公文庫)
が届いた。村上博子さんによる解説を読んで、この井筒豊子という
稀有な資質を持つ女性と出逢えたことに、私は至福の想いだった。
http://magnoria.at.webry.info/200710/article_82.html

 一九八二年、いまからちょうど十年前の春、「中央公論」の四月
号誌上で、「モロッコ国際シンポジウム傍観記」と題する、二十頁
にわたる紀行文を読んだ時の衝撃をこの十年忘れたことはなかった。
著者は井筒豊子、小説集「白磁盒子」の作者その人である。

 モロッコのラバット市で、一九八一年十一月二十七日から三十日
にかけて、モロッコ国学士院主宰の国際シンポジウム「現代世界に
於ける知的、精神的危機」が催された。この紀行文は、その時の講
演者の一人として招かれた哲学者井筒俊彦氏に同伴した夫人の「学
会傍観記」という珍しいものなのである。

 パリのオルリー空港からローヤル・モロッコ空港に夫君と搭乗す
るくだりから始まって、学会中の見聞のあいまあいまに、著者の回
送と思索がのびのびと時空を超えて繰りひろげられるさまが、たと
えようもなく華麗で真率で味わい深い。色彩も綾に織りなされるア
ラブの風物、人物の描写、それを根底から支える思想、なおその底
にある文化と人間との語れないほど深い地帯。日常の表層から深層
まで幾重もの層をなして、さながら一篇のシンフォニーのように奏
でられる。読み進みながら、このような文章をかつて読んだことが
なかった。満ち足りる、とはこのことだろうか。こういううれしい
驚きはまずめったに得られるものではない。

(貝殻に海鳴りの音を聞くように、私は、その変哲もない機内放送
のアラビア語に耳を澄ました。橙色の砂漠を吹く風の音や、アレッ
ポ、ダマスカスなど、砂漠の都の、其処だけ黯ずんだ市場の雑踏。
羊皮や羊肉の匂い、イスラム寺院のドームやミナレット、アラビア
音楽。典型的と云うか陳腐というか、だが確実にアラビア的な、あ
りとあらゆる色や、形象や、匂いや、物音を、アラビア語のその響
きは内臓しているかのようだ。

 固有の言語文化圏の歴史的時間の場で、変転しつつ発展してきた
意味文節の、重層的な堆積。そしてそれの共時的連鎖空間として成
立している意味文節やイマージュの網目組織の広大な無限の拡がり
。その可能的総体を、そして、その固有文化の固有性の全てを、そ
の意味を持つ固有の響きの片鱗が、いわば限りなく微妙な色のニュ
アンスのように、その内部に混在させているかのようだ。)

 この紀行文を前にして私は考えまた考えた。この著者の言葉の難
しさと独特の香気と色彩はどこからくるのか?いったいこの言葉は
何なのだろう?と。随筆には不向きなはずの、学問的術語が随所に
散りばめられているけれど、それは、難しい単語を著者が自分のも
のとして、血肉と化して使っているのとは違う。もちろん、「縦横
に駆使している」というようなこととは全ちがう。およそ言葉を駆
使するなどという考えほどこの人とは遠いものはない。これらの言
葉は最初から、著者の深い内側から血肉として出てくるものなのだ。
もとより著者の資性と、そして日々、朝夕に、哲学・言語学を日常
茶飯事として語る夫君との対話のうちに、多年にわたり研ぎすまさ
れた鮮烈な血の通う言葉。

 夫君井筒俊彦氏とその稀有の広大深奥の学問領域、それを通底す
る言語哲学については、いまさら私などが語ることではない。ただ
私事にわたれば昭和二十年代に私は大学の文学部で、まだ若い助教
授でいられた氏の「言語学概論」の講義を数年にわたって聴講する
幸いを得た。始めて精神の世界に目を開き、言葉とは何か、をそれ
によって学んだ。言葉とは何かを学ぶことは、人間とは何かを学ぶ
ことであり、一切の事象の根底を見る眼を養うことであった。井筒
氏の中に脈々と鼓動する生成途中の言語哲学があり、はるかな未来
を二人で遠望しつつ、夫人が御自信の稀有の資性の上に言葉を培い
花開かせてこられたことは容易に想像できる。

 近年まで私が井筒豊子の著書で眼にすることができたのは、訳書
をのぞけばこの「学会傍観記」ただ一つであった。しかしそれはお
よそ十年も私の中で揺れ続け、香り続け、(いい文章というものは
、何というすごい触発力を持っているのだろう!)この人の言葉へ
の私の夢をふくらませるのに充分だったのである。十年は長くはな
かった。(たいへんな文章だ)よく私は折にふれて思いだすたび、
独り心に呟いた。いつ思い出しても(たいへんなもの)を心に持つ
ことはこの上ないしあわせだった。

 何と言う感動的な文章でしょうか。一人の人間が生み出したたっ
た一つの美しい文章が、ここまで人の生きる力になっているのです
。井筒豊子という女性はきっと、麗人としか表現のしようのないよ
うな素晴らしい方だったのでしょう。

(この王子さまの寝顔を見ると、ぼくは涙の出るほどうれしいんだ
が、それも、この王子さまが、一輪の花をいつまでも忘れずにいる
からなんだ。バラの花のすがたが、ねむっているあいだも、ランプ
の灯のようにこの王子さまの心の中に光っているからなんだ…)
(「星の王子さま」(サン=テグジュぺリ 内藤濯訳)より)


井筒俊彦氏は、「分節」をマルチネの二重分節の枠組みの中でも説
明していました。

−4−
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/tetsugakuteki_shii.html

日常的経験の次元におけるわれわれの世界との出会いは、いま申し
ましたように、感覚器官を通じて生起する無数の感性的印象の入り
乱れ、錯綜する渾沌であります。われわれはふつうこの感性的渾沌
の諸要素のあるものを知覚的に選択しまして、一定の形で整理する
ことによって、そこにわれわれにとって意味のある一つの存在秩序
、すなわち「世界」をつくり上げます。

この知覚的選択と整理の過程には言語の意味的カテゴライゼーショ
ン、つまり類別的対象化というものが内面から大きく働いていると
考えます。現代言語理論でよく近ごろ問題にされておりますフラン
スのマルティネ(Andre Martinet)の提唱する二重分節
(la double articulation)理論にしたがって申しますならば、言語
の第一分節の存在論的作用というようなことになりましょうか。
つまりわれわれの経験する存在界、われわれにとっての有意味的な
存在秩序としての世界は、第一次的に知覚とともに、知覚によって
 つくり出されるのでありますが、その知覚の作用そのもののなかに
言語が範疇的に、あるいは第一分節的に入り込んできて、はじめか
らその構造を規定していると考える のであります。

簡単にいいますと、われわれは現実をなまのままとらえているので
はなくて、われわれがそれを意識するときには、すでにもう言語的
記号単位、あるいは 第一分節単位、つまり「赤い」とか「白い」と
か、「花」とか「山」とかいう語の分節作用によってあらかじめ意
味的に整理されている。そういう形で経験されたものが いわゆる現
実の表層であります。しかし、その整理の仕方、すなわち第一分節
体系のあり方は、言語ごとに微妙に違ってきます。 

−5−
http://youyou8.cocolog-nifty.com/app/2010/05/11-3afc.html

井筒俊彦氏の「意識と本質」に出てくる意味分節の考え方は井筒氏
独自のものであり、次のように解説されている。

「意味分節理論における『分節とは』次のような根本的な考えに基
づいている。すなわち、我々は身のまわりの世界をみるとき、やや
もすればそれを直接みているかのような錯覚に捉われるが、実はそ
うではなく、常に、我々の言語意識の中にある意味の複雑な連関の
網目構造のフィルター或いはスクリーンを通し、分節して世界をみ
ているのであり、そしてこの分節の仕方はそれぞれの民族や文化ご
とにさまざまに異なっている、ということである。
 この意味分節理論は広く言えば意味論の分野に属し、この理論を
構想するに当たって先生は現在行われている意味論の全領域に目を
向けたが、その中には満足すべきものを何一つ見出すことはできな
かった。」(*3)

−6−
http://www.bible.ca/islam/library/islam-quotes-izutsu.htm

弐ツの暗号 (4) 意味分節理論
 言語が人間の思考に直接・間接におよぼす影響に注目した井筒博
士は、世界各地の言語およびそれをもちいる諸民族の文化について
研究を重ね(その過程で32ヶ国語を身につけたといわれます)、
1955年にその成果を『Language and Magic -Studies in the Magical 
Function of Speech-』(私は読んでません、すまん)という論文に
まとめました。40年以上にわたって博士の薫陶をうけた牧野信也
教授(1930- )はその要旨を次のようにまとめています。

「言語というものは我々をとりまく外界の事物や我々の思想を表現
し、伝達する手段と考えられ、その限りにおいては論理的であり、
そうあらねばならない。しかし、一方、古代人の世界に目を転じて
みると、そこでは言語は事物を客観的に記述、伝達するのみでなく
、或る呪術的な機能を果していることがいずれの民族についてもみ
られる。言語の機能におけるこうした呪術的要素は……実は我々の
中にも形をかえて脈々と生き続けているのである。 このような視
点から、著者は言語の機能を論理と呪術という二つの面の対立とい
う従来試みられなかった新しい角度から捉え、明らかにしている」
(『マホメット』p.126)

 その後、この論文で展開された<言語の論理的要素と呪術的要素> 
という概念を下敷きに、それまでの膨大な言語研究で得られた知見
を活用し、構造主義や解釈学なども取り入れて誕生したのが、『意
味分節理論』と呼ばれる方法論です。その大ざっぱな説明として、
博士は次のように書いています。

「イスラームをはじめとする諸他の東洋思想の哲学的研究方法とし
て、通常概念という形で扱われているものを意味分節単位群に分解
・還元し、それを意味連関組織として構造的に考察しなおす」とこ
ろの、「文化の意味論的解釈学」(『イスラーム生誕』文庫版p.9,234)

 “分節”という用語については、牧野教授の解説をお借りしましょう。

「意味文節理論における『分節』とは次のような根本的な考えに基
いている。すなわち、我々は身のまわりの世界をみるとき、ややも
すればそれを直接みているかのような錯覚に捉われるが、実はそう
ではなく、常に、我々の言語意識の中にある意味の複雑な連関の網
目構造のフィルター或いはスクリーンを通し、分節して世界をみて
いるのであり、そしてこの分節の仕方はそれぞれの民族や文化ごと
にさまざまに異なっている、ということである」(『イスラーム生
誕』文庫版p.241)

 なんとなくイメージが湧きますか? イメージが湧いたら、それ
は誤解。“分節”は井筒哲学の中心を占める概念なので、数行では
わかりっこないのです。関心を持たれた方は岩波文庫『意識と本質
』をお読み下さい。ここでは深入りはさけて先に進みます。

 この意味文節理論が最初にもちいられた論文『GOD AND MAN IN 
THE KORAN』は、一部がこのサイトに載っています。英語の達者な方
は雰囲気をつかんでみて下さい。 次回は意味文節理論が更に発展
してできた、『共時的構造化』という第二の方法論について眺めて
みたいと思います。(周縁的なこと以外についてわたしは語りうる
立場にないので、あくまで「ながめる」だけね)


−7−
http://d.hatena.ne.jp/inhero/20100630/1277903418

 井筒俊彦の「意味分節理論と空海――真言密教の言語哲学的可能
性を探る――」(『東洋哲学』所収、中央公論社、一九九二年)に
よると、なまの現実世界は、通常、私たちの解釈行為(意味分節)
によって、操作された括弧付きの「現実世界」に他ならない。この
操作が意味分節理論である。井筒の想定は、まず原初的カオスがあ
り、それを分節していく中で「現実世界」が作られる、というもの
である。

 言葉の呪性を考える際、この意味分節理論は有用だ。私たちの世
界は、言葉によって「分節」され、その結果として「現実世界」が
生じ得ている。言葉なき世界においては、原初的カオスという、言
わば右も左も(概念としてすら)ない世界であり、その世界におい
て私たちは現実をそれとして認識できない。そのために私たちは言
葉の呪性によって、世界を「分節」し(対象化し)、結果として世
界(正確には「世界」)との関わりを持つことが可能になる。不立
文字は逆説的に文字を書くことによって、この原初的カオスに限り
なく近付こうとする試みであろう。その意味で、その試みは不可能
性に満ちているが、そこに文学が生じうる可能性があるのは間違い
ない。或いは、それこそが不立文字に限らず、小説や、もっと大き
く文学の可能性なのだろう。

 では、言葉を前提とし、身体を媒介として世界と繋がろうとする
言葉は、いかなるものなのか。

以上

得丸公明


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