3791.論語の認知科学



論語の認知科学
From: tokumaru

書を捨てて街に出ようあるいは禊修行,そして読書に戻る  − 
                      論語の認知科学 

終日不食、終夜不寝、以思無益、不如学也 (『論語』衛霊公) 
(終日食らわず、終夜寝ねず、以て思う、益なし。学ぶに如かざるなり。)

鷹揚の会の皆様,

 合気道多田塾の同門生4名が一九会道場の初学修行に参加するとい
うので,土曜日の晩から日曜日にかけて禊修行のお手引きにいって
いました。

 この一九会の初学修行というのは,初学者は木曜日夕方から日曜
日まで三泊四日,泊り込みで修行します。やることはひたすら声を
出して,ひらがな8文字を叫ぶだけなのですが,それなりの苦行です。

 修行が無事終わってから,修行者(今回は8名)から感想を聞いた
ところ,休憩時間にはひたすら修行がおわったら何を食べたいかと
いう話をしていたそうです。こんな厳しい修行にはたして意味があ
るのかやってる最中もわからなかったし,終わった今でもわからな
いということでした。

*  意味とは記憶である

  彼らの感想を聞いて思ったのは,言葉の意味とは個人の記憶であ
るという鈴木言語学です。

  意味がわからないといった女性に対して,「意味とは記憶である
。君は厳しい修行を乗り切ったという記憶を,一生の宝として得た
のだ。これほど厳しい体験はそんなにないけど,何か厳しい状況に
陥ったとき,この修行を乗り切ったことを思い出すんだよ」と話し
ました。

*  思考とは記憶の演算である

 別の女性(今回は男6、女2、日本人6、外国人2でした)は,修行が
終わったらカツサンドを食べたいと言っていました。

「食べ物の記憶にひたって,貴重な時間を費やしたことははっきり
言っておろかです」と言いたかったのですが同門生ではなかったの
で彼女に対しては言葉にしませんでした。でも彼女の言葉をきいて
思ったことがあります。それは,この禊修行は頭で考えないことを
学ぶ修行であるということです。頭で考えても,実はまったく意味
がないことが多いのです。

 なぜならば,言葉の意味とは記憶ですから,自分の知らない新し
い体験に出会ったとき,考えても古い記憶しか出てきません。だか
らほぼ100%間違えるので,無意味なのです。彼女たちが,修行が終
わったら食べたいものを考えたことは,修行を続ける上でいくばく
かの希望につながったかもしれませんが,実は考えなくてもよかっ
たのです。現実逃避以外のなにものでもありません。何も考えない
ことが正解だったといえるでしょう。彼女は修行が終わってもそれ
をまだ自分で理解できていなかったようです。

 意味は記憶であるので,「思考とは記憶の足し算か掛け算でしか
ない」。つまり自分の記憶にないことはどんなに頭をめぐらして考
えても考えられないのです。考えることは無駄,無意味であるとい
うのは,孔子の言葉としても残されています。孔子は認知科学者と
して超一流であり,当代の認知科学者で,孔子の言葉の深さにまで
到達した人はあまりいないといえるでしょう。

*  感情も記憶の現象だから無心になることが大切

  思考が記憶の演算であるのと同様に,感情も外部の五官の刺激が
記憶と織り成すものであり,喜怒哀楽は2x2行列で整理されます。

  つまり,自分にとって「よい思い出」が肯定される刺激は「喜び
」を生み,否定される刺激は「哀しみ」を生み,「悪い思い出」が
肯定される刺激は「怒り」,否定される刺激は「楽しみ」を生むの
です。

  これも記憶に依存して生まれる現象であるので,未知の事態,初
めての体験において感情的になることはまったく意味がありません。
感情に捕らわれるとマイナスになるだけです。感情を消して,無心
に行動するのが正解なのです。

  禊は,人間が無心になったときに力を発揮できることを体験させ
る修行です。

*  情報を得る方法

  孔子は,考えてもだめだ,学ぶしかないといいました。

  学ぶとは何か。

  学ぶ方法には,大きく分けて2つあります。

  ひとつは,心を無にして自然と向き合う。そして,自然現象のも
つ神秘に心を震わせて,その結果をまとめる。それが自然科学です。

  これはアナログな現象をデジタルな言葉に抽象化する技が求めら
れます。誰でもが簡単にできるものではない。それに自然の神秘の
奥深さを理解するためには,一人の人間の人生は短すぎます。

  体験ベースに発見をすることは大事ですが,手がかりとなる自然
の神秘は,どうしても身近な現象からになってしまうので,そこか
ら深遠な世界にたどりつくには何回も思考枠組みを作り変える必要
があるので大変です。それに今の人間は自然の中に暮らしていない
ので,驚きや発見に出会う機会も少ない。「朝顔につるべとられて
もらい水」のような経験すら,もはや現代人の生活にはありません。

*  言葉の表現型と,もとになる体験の遺伝子型

 学ぶ方法のもう一つは,人の言葉から情報を得ることです。

 これはすでに誰かが体験して,そこから真理を見つけ出していて
,それが正しく言葉として残っているとすれば,それを正しく読め
ば自分で体験するのと同じ効果が極めて短い時間で得られるという
ことです。

 本を読む意味はここに極まるといえます。

 本に書かれている言葉は,誰かが何かをもとにして書いたもので
す。それが正しい経験で,正しい考察が行われて,正しく言葉とし
て残っていれば,それは貴重な情報源です。

 ここから先は,この情報を正しく自分の知識に取り込むかという
問題になってきます。つまり,(1) 自分が何を知りたいのかを理解
する,(2) 過去の人物で誰が同じ問題意識を持っていたかを調べる
,(3) そのうち誰が正しいことを発見したか,あるいは途中経過で
あろうとも正直な言葉が残っているかを知る,このためにはある程
度たくさんの文献を読んで比べてみることも重要でしょう,(4) 言
葉が正しく印刷されて現代に伝わっているかを確かめる。校正や校
訂は非常に重要な問題です。たとえば同じ著者の本でも,初版では
きちんと校正が行われているのに,新版では校正もれが多いという
こともあります。

 ここまでたどり着いて,はじめて本を読む作業に取り掛かること
ができます。ここまでの作業は,今日,文字という表現型で残され
ている誰かの思考結果を,その大元にある著者や話者(孔子は自分で
著したわけではないので)の直接的な体験,知覚,記憶,思考判断の
次元(遺伝子型といいます)にまで遡って確かめる必要があるので行
います。

 言い換えるならば,自分の前に文字情報があるとき,いったいど
うしてそのような文字情報が残されているのかということを,丁寧
に調べる必要があるということです。世の中で本として売られてい
るものの多くが,たくさん売ってお金をもうけるためのものである
ことは悲しいけれども真実です。本当に大事な情報は,商業出版と
は無縁の世界で探さなければなりません。

*  未経験・未知の記憶をどのように自分の記憶にするか

  仮にいい本を見つけたとしても,それを正しく読み取る力がなけ
れば,百害あって一利なしとまでは言いませんが,無用の長物です。

  まず,一番だいじなことは,その本で使われている概念を正しく
理解することです。自分の知らない世界のことを学ぶためには,そ
の世界で使われている言葉の意味を正しく把握しなければなりません。

  しかしながら,言葉の意味とは記憶です。実際に自然を観察した
り,実験を行って書かれた文章を読むにあたって,同じ経験を持た
ないときに本に書かれたひとつひとつの言葉の意味を自分は持って
いないということを謙虚に思うべきです。

  著者が使っている言葉の表現型を,たまたま自分が知っていたと
しても,著者が意味する遺伝子型を自分は知らないということを先
ず肝に銘ずるべきです。

 自分の知らない言葉の意味をどのようにして獲得するかは,読書
をする上でじつに重要なことであるのに,我々はあまり問題にして
きませんでした。

  多くの場合,本に書いてある言葉の表現型を,自分のもっている
遺伝子型に結び付けて,自分に都合よく理解するか,あるいは自分
の記憶に照らして理解していただけだったのです。

*  読書の技法

 長くなるので,本の読み方,著者が書いていることを修正しなが
ら読む技術,自分自身の心を静謐にして雑念・余念のない状態で読
むことの大切さについては,また改めて書いてみます。

 自分に雑念・余念がなければ,人の言葉のちょっとした一言から
貴重な情報を得ることもできます。その情報をどのようにして生か
すか,どのようにして自分の体験・記憶に変換するかについては,
また別の技術があります。

 おそらく孔子は,これらのことをすべて踏まえた上で「学ぶに如
かず」と言われたのではないでしょうか。

得丸公明
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鈴木孝夫の世界1
From: tokumaru

皆様

 もうすぐ84歳になる鈴木孝夫先生ですが、今年3月からタカの会と
いうサロン的研究会の主宰者として引っ張りだされて、二ヶ月に一
度、研究会を開催しておられます。

 研究会の会誌第1集が本日発売されますので、ご案内申し上げます。

 研究会の経緯とそれに臨む鈴木先生のお気持ちは、鈴木先生ご自
身が書かれた序文「世にも不思議な研究会の主人公となって」に簡
単に述べておられますので結語の部分、鈴木先生の決意表明だけ紹
介します。

「私が現役時代におこなっていた講義や講演は自分が最善を尽くす
ことだけに集中して、相手が理解しようとしまいとそれは先様の勝
手といった一方的な発信の姿勢で一貫し、相手と対話することは人
数の点からも会場や教室の大きさからも無理なことであってまった
く顧慮しなかった。

 ところがタカの会では限られた数の熱心な人々、それも学生から
社会人といった年齢も背景もさまざまな人々と、できる限り対話に
近い形の知的交流をしようというのだから、私もこれまでの自分の
スタイルから脱皮して、いろいろな人の意見や考えを聞きながら、
話を進めていくという私にとってはまったく新しい対応を迫られて
いる。

 そこに追い討ちをかけるかのような、私を研究対象とする研究誌
の出現である。これにどう対応したものか、その解決は頭でこうと
考えるよりは、一生懸命、試行錯誤を繰り返しながら体験的に見つ
け出すしかないのではと今は半ば諦めの境地にある。」 

 これまでに先生の著作である『ことばと文化』、『私の言語学』
、『教養としての言語学』を読み直すという作業をしてきました。
(次回11月は『日本人はなぜ英語ができないのか』)

 テーマに即した鈴木先生の講演、そして言語学者、心理学者、大
学生、一般の老若男女の参加者の質疑応答にすべて鈴木先生が答え
るという、きわめてスリリングで、内容的にもいまでも言語学(統
語論から意味論、概念論、価値体系論などに及ぶ全体システムとし
ての言語学)の最先端におられることが感じ取れます。

 本日付けで発売となる鈴木孝夫研究会の『鈴木孝夫の世界 第1
集』は、『ことばと文化』をめぐって、鈴木先生のお話、内田伸子
、門脇厚司、本名信行、松原秀一ほかの方々の「私にとっての鈴木
孝夫」などなどが掲載されています。

 鈴木先生のご講演は、2本、「青山墓地を世界遺産に」(2010年3月
)と「私が『ことばと文化』で明らかにしたかったこと ーーー 
恩師・井筒俊彦との決別と自立の書でもあった」(2010年5月)です。

 ちなみに後者の小見出しは、
・弟子が師を「破門」せざるをえなかった破天荒
・たとえ高尾山であっても自分の山を築きたい
・マギル大学図書館での背水の陣とひらめき
・ようやくにして『ことばと文化』刊行
 − タコ壷的専門家からの越境めざして
・西洋中心主義という思い込みを打ち棄てよ
・今こそビッグ・ピクチャーあるいはグランド・セオリーの学を!
・生物も言語も文化もすべて多様性が命だ
となっています。

 言語学者鈴木孝夫の出発点がどのようなものであったかというこ
とが、ご本人の口から、語られています。天才言語学者は、素顔も
やはり天才であった(当たり前ですが)、という印象をもつ一冊です。
ぜひともお手にとってごらん下さい。

http://www.penguins.co.jp/takanokai/takanokai/xuan_guan.html

ISBN 978-4-902385-95-3
1600円

得丸公明


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