3772.欲望を肯定するしかない感情のメカニズム



David Harvey 欲望を肯定するしかない感情のメカニズム
From得丸公明

David Harveyは2007年に邦訳が2冊出ていますね。

『新自由主義 その歴史的展開と現在』(作品社)、
『ネオリベラリズムとは何か』(青土社)

そして、1978年から1980年にかけておきた中国の近代化やレーガン・サッチャー
の自由主義を、「世界の社会経済史における革命的転換点」と 位置づけている
ようです。(新自由主義の冒頭)

どちらもまだ中身は読んでいませんが、その時期に、人類の経済史上で、大きな
転換があったという指摘は、そのとおりだと思います。小川さんの言わ れるよ
うに、1986年を元年として、2010年をPC25年、ポスト文明
(Civilization)25年であり、ポスト・チェルノブイリ 25年とするのと同じ発想
だと思います。

世界経済の成長の限界がまだ形をもっていなかったとき、中国が「俺はまだ経済
成長の便益を受けていないから、資本主義化するよ」といって世界経済 に参入
してきたということでしょう。いうならば「駆け込み資本主義」。

結果的に今は中国は景気がよいですが、先進諸国の失業と不況をまき起こしなが
らの経済成長ですから、数年から十年くらいで行き詰って、自分の首を 絞める
ことになるのでは。

新自由主義は、成長の限界を超えた文明社会で、どさくさにまぎれて行なわれて
いるパイの奪い合いであり、今まで以上に計画性のない、自然破壊と国 際競争
が起きているという気がします。

東西冷戦を終焉させて、他所の国の自然資源を略奪して、国際市場で商品化し、
結果的には、人類文明の終焉が、数十年早まった。


そこには新自由主義という名の経済運動があるわけではない。国民国家が国民の
ために、他国と競争しようとしているわけでもない。

文明が崩壊・終焉していく時代に、火事場泥棒をしてでも、他人を蹴落としてで
も、たとえわずかな時間でも、物質的に豊かな生活を送りたいとする刹 那主義
こそが新自由主義の正体ではないでしょうか。

そしてエリートたちが刹那主義的な行動を取り始めたという点で、非常に危険な
思想状況だと思います。



しかし、世界中の人たちが、いまだに物質文明の恩恵を夢見ているとしたら、何
をいっても無駄なのでしょう。もっとたくさんの電化製品、もっとたく さんの
自家用車、もっとたくさんのエネルギー消費を提示する以外の選択肢を、政治家
はもたない。

感情 とは、 「外部刺激」 と 「記憶」 の 演算によって生まれます。よ
い記憶・悪い記憶と、それらを肯定する・否定する刺激の2x2マトリ クスに
よって、感情が生まれます。

たとえば脳の記憶が「消費生活の豊かさ」に包まれている先進国の人々の場合、
それを「肯定する」刺激は、「喜び」を生み、「否定する」刺激は「寂 し
さ」・「悲しみ」を生みます。

また、脳の記憶が「消費生活の不満」に包まれている発展途上国の人々の場合、
それを「肯定する(つまり、貧しいままでいなさいという)」刺激は、 「怒
り」、「憎しみ」を生みます。そして、それを「否定する(豊かな物質文明に近
づく)」刺激は、「希望」や「明るさ」を生みます。

つまり、人々の記憶が、物質文明・消費社会のさまざまな幻影によって占められ
ているときには、いくらそれが自滅を生むということがわかっていて も、ます
ます豊かになりましょうというほかない。

それを乗り越えるためには、感情によって行動することをやめて、理性にもとづ
いて行動するか、あるいは水俣やチェルノブイリの惨事にひたすら心を 寄せて
生きるほかはない。そんなことを普通の人間に期待するのは無理というものです。

やはりこのまま一度奈落の底に堕ちて、生きるか死ぬか、食うや食わずの生活を
して、そこから立ち上がるほかはないのかもしれません。

それを経験できるだけでも、我々は恵まれた時代に生まれたと考えるべきでしょう。

得丸公明
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得丸さん、
David Harvey は、いわゆる左派の思想家ですから、
「ネオリベラリズムとは何か」を書いていますが、
これは新自由主義(いわゆる政府による介入は
最小限にすべきという伝統的・古典的な自由主義の再評価を主張する思想。
競争促進、民営化、福祉の縮小など)
の批判の書であって、擁護する書ではないです。

袖川
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袖川さん

コメントをありがとうございます。

> David Harvey は、いわゆる左派の思想家ですから、

そうですね、
つまり、僕は、左派の限界を感じたということです。

> これは新自由主義(いわゆる政府による介入は
> 最小限にすべきという伝統的・古典的な自由主義の再評価を主張する思想。
> 競争促進、民営化、福祉の縮小など)
> の批判の書であって、擁護する書ではないです。

新自由主義を批判することの有効性、
それはそもそも主義と呼べるものではなく、
国民の福祉や国家経営について完全に諦めて、

なんでもいいから、手当たり次第に、
お金になることをしようというのが新自由主義の正体では
ないでしょうか。

ロシアのマフィアがエネルギー資源や森林資源を、自分たちの
活動資金として確保するのと、五十歩百歩の無思想・無定見な
場当たり的な、国家の食い逃げが新自由主義ではないかと思う
のです。

だけど、左派はそれを否定します。
ベーシック・インカムとか、福祉を継続せよとか、いいます。

でも新自由主義がなければ、世の中はうまくいくかというと、
そうではないところが問題なのではないでしょうか。

新自由主義は、それを理解しています。
もう文明は、滅びの段階に入った、泥舟ですから、取れるもの
だけ取って、あとは適当に捨ててしまえばよいという無責任な
考えが新自由主義でしょう。

左派が、新自由主義を批判しても何も生まれない。
その前提にある沈みゆく文明、奈落の底へと堕ちていく人類の
文明を、人類史的に解明しないことには、解決は見えないと
思うのです。

いうならば、パンのみに生きることをやめろというくらいの、
ライフ・スタイルを示さなければならないのです。

ベーシックインカムというのは、生活保護の枠を広げろという
のと大差ない。
(Davie Harveyがベーシックインカムを主張しているかどうか
わかりませんが)


左派と右派の違いは、分配の平等性にあったのではないでしょうか。

自然破壊をして、自然から資源を略奪して、生産力を増やすという
生産力主義においては、左派も右派も大差なかった。

左派は、この未曾有の没落の時代に、生産力信仰を改めなければ
ならないのだと思います。

新自由主義が、沈みゆく船からの火事場泥棒だとしたら、そこで
左派はどう生きなければならないかということを提示してほしい。


さっとそんなことを予感したのでした。


批判してもはじまらない。
左派の自己批判がまず必要であり、
さらには、何か別のことを「提案」してほしいと思うのです。

得丸



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