3709.パブロフの犬の気持ちに迫れるか



パブロフの犬の気持ちに迫れるか
From: tokumaru  

皆様、

パブロフの犬について、犬の名誉回復をするための読書案内を書い
ています。
途中ですが、お付き合いください。何か感想があればお願いします。

得丸


パブロフの犬の気持ちに迫りたい

きまぐれ読書案内 I.P.パブロフ著「大脳半球の働きについて 条件反射学」

1 はじめに:犬の名誉回復を

「パブロフの犬」ということばは誰でも知っているが,それがどん
な実験であったか,実験の結論が何であったかを知っている人は少
ないのではないか。筆者の場合も,一般常識程度に,条件反射とは
,犬にベルの音を聞かせて食べ物を与え続けていると,ベルの音だ
けでよだれが出てくる現象だと漠然と思っていただけで,それ以上
の興味はまったくわいてこなかった。中途半端な知識があると,か
えってそれが予防接種ワクチンのように邪魔をして,知的好奇心が
封じ込められるのかもしれない。

 反射が形成されるということは、ベルの音だけで食べ物がなくて
もよだれが出るということだろうか。そうであるなら、犬はずいぶ
んと愚かな動物だということになる。犬の名誉のために書いておく
と、食べ物が出なくなるとすぐに、ベルの音がしてもよだれが出な
くなることをパブロフは実験結果として紹介している。これはほと
んど知られていない。

 パブロフは犬に記憶や感情や欲望がないということを証明するた
めに一連の実験を35年も続けていた。だから餌が出なくなったと
きに、ベルの音に対してよだれが出ない現象を、犬の大脳皮質のモ
ザイク構造が抑制刺激を出すように変わったと説明したかと思えば
、後のほうでは、大脳皮質が睡眠状態にあったからだと、ずいぶん
いい加減な説明をしている。犬が、もうその刺激は餌とは結びつか
ないのだと考えるようになったと素直に読みとればよいだけと思う
のだが。

 パブロフは、育ったのが教会司祭の家庭であり、高校までは神学
校に通っていたから、「動物に魂はない」という教会の教えを固く
信じていたのだろうか。だから、犬がさまざまな思考や感情の表現
をしても、それが目に入らなかったのだろうか。

 筆者は動物心理学者でも脳生理学者でもないが、パブロフの著作
を読み解くことによって犬の名誉回復を試みたい。

2 条件反射の記号論

 筆者は3年前に南アフリカで最古の人類遺跡を訪問して以来,言
語の起源と仕組みについて考えてきた。2月の電子情報通信学会の
「思考と言語」研究会のテーマがパターン認識であったことと,そ
の研究会のための予稿を書いているときに立ち寄った古本屋にパブ
ロフの本が2冊1000円で並んでいたので,パターン認識と条件反射は
関係あるかもしれないと思って買い求めた。

 原稿提出締め切りまで一週間しかなかったため,基礎的なところ
だけを大急ぎで読んで、いちおう意味が通じるような内容を予稿に
書いた。それはことばの意味を音韻構造と五官の記憶の関係性とし
てとらえるものであった。

 ヒトの言語において符号語と意味はパターン認識によって結びつ
くが,「それは犬の条件反射と同じである」というのがパブロフの
結論であった。つまり犬の神経生理現象と同じように,ことばの刺
激と五官の記憶が個人の脳内で神経接続されることによって,こと
ばに意味は生まれると読み取った。じつはこのときはまだ、パブロ
フが犬には思考や感情がないという前提で実験結果を読み解いてい
るということに気づいていなかったので、犬の条件反射とヒトの概
念(音声刺激と記憶=意味の結びついたもの)は同じであるのかと、パ
ブロフのことばを素直に受け取っていた。

 すると,以下のようなことがいえるが、これは鈴木孝夫先生の意
味論やボードリヤールの記号論と相通ずるところがある。

? 同じ音韻構造をもつことばであっても,それを受けとる人によっ
て経験や知識の蓄積が違っていると,ことばの意味は異なってくる。

? 同一人にとっても経験や知識を積み重ねると,同じことばの意味
は深まり広がる。

? 実体験をともなわない科学的概念や歴史的概念などの抽象概念の
獲得や使用,他者との意味内容の共有はきわめてむずかしい。

? ブランド名など消費の記号は,五官にもとづく現実の使用価値が
意味をもつのではない。同じ消費生活を送る他者との差別化を感ず
ることによって消費者意識がくすぐられ、記号が五官の記憶とは異
なる仮想的意味をもつのである。
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社会力のことわざ表現    When in Rome, do as the Romans do
From: tokumaru 


「郷に入っては郷に従え」(その土地(又は社会集団一般)に入っ
たら、自分の価値観と異なっていても、その土地(集団)の慣習や
風俗にあった行動をとるべきである。)という諺がありますが、こ
れって社会力のことになりませんか。

つまり、社会というものは、その土地、そこの環境・文化・歴史に
よって、規則(法規範)も違ってくる。

それを尊重するのが社会力では?

会社の束縛によって、公害反対運動などを無視していた社内組合の
やっていることは、社会力の表現ということになりませんか。

むしろ、会社員でありながら、公害反対運動を支援するということ
は、反社会的ということになる。


昨夜から「社会」ということばのもつ限定的な性格、内外を敵味方
で二分する発想にこだわりつづけて申し訳ありませんが、「社会」
というのはそういうものじゃないかという気が、今回のテキストを
読んで強まってきました。

社会というのは、文明空間の中で、仮想的に集団を取り囲んでいる
環境ということかもしれません。

そうでない「社会」概念というものは、成り立たないのでは?

得丸
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国民教育は使命を終えた?
From得丸

皆様、

朝から暑いですね。

昨日の読書会、木野さんのレポートと、著者のお話。その後の二次会での南京玉
すだれと、新しい芸、トンガリ帽子のパフォーマンスもご披露いただき、じつに
盛りだくさんでした。木野さん、お疲れ様でした。二度目のロンドン生活で、新
しい局面、ぜひとも「隠された美しいもの」を発見してお楽しみください。

昨日のご発表を聞きながら思ったのは、結局、国民教育というのは国軍兵士や産
業兵士を育てることが目的であったから、今日のような多くの生産現場が国外に
移転してしまうと、あるいは成長が限界を超えてしまって、文明が崩壊過程に突
入してしまうと、目的がなくなるのかな、ということです。

労働現場も、「自動車絶望工場」の労働状況が「厚待遇」と思われるほどに苛斂
誅求を極めたフリーター搾取の構造が日常化して、機械化で採算の合わないとこ
ろを仕事させている。 労働に希望も喜びもない。ただ搾取されるために仕事さ
せられる。

でもこれは、階級や学歴によって希望格差があることを指弾すべき状況なのでは
なく、人類文明の終焉という絶対的な絶望状況なのではないか。人類は、1リッ
トルもチンパンジーより大きな脳を活用する知的野生動物として生きる手段を模
索すべきときかもしれない。

知的野生動物として生きるときも、社会的動物であるという本能は生き残るで
しょう。社会力は必要ですね。そのとき教育は、国家や産業の要請とは異なる野
生の教育ということになるのでしょう。

得丸


ps フリーター漂流に関するブログ、興味深く読めました。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/freeter-hyouryuu.html

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/freeter-hyouryuu-book.html

http://www.magazine9.jp/interv/kamata/index1.php



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