3703.「社会力を育てる」



社会とは、種としての人間ではなく、一定の規模の集団ではないか?
From得丸公明

門脇先生の「社会力を育てる」を駆け足で読みました。

いくつか違和感を感じたこと、気になることがあるので、述べてみたいと思います。

レジュメの肥やしになればよいのですが、もし邪魔になったらごめんなさい。


1 社会とは、人間という種全体を指すのではなく、特定の集団を指すのではな
いか。

 この本の中で何度も何度も語られる「社会力」あるいは「社会」という言葉で
すが、読んでいるうちに、段々と疑問がわいてきました。

 社会ということばは、ある特定の集団を指すのではないか。たとえば読売巨人
軍とか、株式会社○○の社員と家族とか、△△宗という信仰宗教団体とか、そういっ
た一定規模の目に見える集団のことを呼ぶのではないでしょうか。

 不特定多数で、いつ誰が参加してもよいとか、見たこともない人が突然やって
くるとか、そういう関係性は予定されていないのではないでしょうか。

 「人間は社会的動物である」というとき、それは利他的な、博愛的な存在を指
すのではなく、特定の集団の利益のために身を呈する一方で、他の集団に対して
は、きわめて激しい敵意をもって対決することが予定されているのではないで
しょうか。

本来的利他性というのも、特定の集団に対してのみ発揮されるのであり、けっし
て人類全体、あるいは敵対集団に対して作用することはないのだと思います。あ
くまで仲間内の利他性の話では?

むしろ、社会ということばである集団を規定すると、社会に対しては無私の献身
が予定されているのですが、その反作用として、外部に対しては無条件に敵意を
示す、ゼノフォビア(外部を嫌う心)が必ず予定されているのではないかと思う
のです。

だから、スポーツの国際試合で、あれだけ盛り上がるのだと思います。それは、
本能だと思います。教育しなくても、本能的に、「社会性」を身につけている
(つまり敵か味方かを考えて行動する)のが人間ではないでしょうか。


2 社会力ではなく、社会が亡くなりつつある時代

序章で論じられている門脇先生の問題意識は、鈴木先生の徹底的なニヒリズム、
文明崩壊と人類滅亡を待望し確信しているのとは、ちょっと違っているように思
いました。

門脇先生は、いろいろな問題を論じておられるけど、それがことばの次元で終っ
ているような気もします。

会社が終身雇用をやめ、いつ何時リストラがおきるかわからない時代。国際化が
進展して、地域社会にしても、会社社会にしても、内と外を区切る境界線がみえ
にくくなっている時代。それが現代では?

つまり、もはや「社会」と呼べるような社会そのものが成り立たない、存在して
いない、見当たらないのが、現代ではないでしょうか。社会力は、そのような時
代には、時代錯誤的で、無力ではないか。

社会力を教えれば問題が解決することはないと思います。

社会力をつけて帰属する社会そのものが喪失しつつあるのが現代です。


3 人間主義は立ち行かない

「社会の実体、すなわち社会を作っているのは他ならぬ人間である」といった表
現がありましたが、このような発想が人類を破滅に導いたのだと思います。

人間だけで生きているわけではありません。

人間に住処を奪われた動物、人間に自由を奪われて食肉になるためだけに生かさ
れている家畜、そういった生き物たちの存在を忘れていたから、地球環境問題が
起きたのではないでしょうか。

全体として、個別の問題事象に心を奪われて、全体が見えていないのではないか
と思いました。

社会学系の学者は、もっと自然のことを考えたほうがよいと思います。


4 言語学的なことについて

1) 「話し言葉(パロール)」と「書き言葉(ラング)」という区分について
質問があります。(p132)

そのような区分は一般的な区分なのでしょうか。

話し言葉も「言語(ラング)」と呼んではいけないのでしょうか。話し言葉こ
そ、ラングだと思うのですが。

書き言葉は、話し言葉を定着させるための一手段に過ぎないのではないでしょうか。

2) 読解力・解釈力が大切であるということが書いてあります(P134)が、言
葉に対して意味は自動的に浮かんできませんか。

何かの言葉が頭に入ってくるとき、まったく初めての単語であればまったく意味
も浮かびませんが、すでに個人の体系や知識の記憶として長期記憶に保存されて
いる言葉の意味は、自動的に思い浮かびませんか。

言葉というのは、いちいち意味を考えながら対応するのではなく、もっと瞬間的
に作用がおきる自動装置のような気がします。


以上、駆け足で読んだので、いろいろと誤解もあるかもしれません。どうかご容
赦のうえ、ご指摘ください。

得丸公明
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得丸さん、ありがとうございます。

今3回目を読んでいるところです。ご指摘いただいた点につき

現状の私なりのコメントしてみます。

 

1、社会って特定集団じゃないの?

 学問的には門脇先生にお聞きするとして、この本で話題にしたい「社会」は

ひとが他者とかかわっていくときに生まれる関係性であって、それは家族

とか会社とか国とかいった特定集団をさすこともあるけれどもそれにとど

まらない、もっと具体的レベルの話だと思います。たとえば私は昨日所属する

カラオケ同好会の地区連合の合同発表会があり、そこで出演もしましたが

スタッフとして音響機器の移動係もやりました。所属する同好会のメンバーが

歌う時に思わず応援に力が入りますが、スタッフとして働くときは他の

同好会でたまたま同じ係になったひととと力を合わせるのでなかよくなりました。

ここで社会力というのはそういうレベル、所属と無関係でないけどどんどん

そこから広がってひととひととが仲良くなれるレベル、そうしたことが実は

意外とインパクトがある、そう理解しました。

2006年のワールドカップで縁あってクロアチア対日本戦を見に行きました

がそこで青い服を着た日本人応援団とも知り合いになれましたが、赤い服の

クロアチア人応援団ともまちなかでビール飲んでワイワイできる、そんな可能性

をここでは注目したいのだと思います

 

2、社会がなくなっているのでは?

 たしかに外形的なたよりになる枠組みという意味ではなくなってきているのだ

と思います。ただいっぽうで社会は枠のように固いしっかりしたものだけでもなくて

たったふたりの人間が「おもしろそうだからやろうぜ」というところからも始まれる

やわらかいものもあって、そのためにもまず隣にいる人に声をかけてみるという社

会力が使える余地がある、と思います

 

3、人間だけではない。

 その通りです。人間だけでなんでもなりたつなんて傲慢です。ただここでのポイント

はその人間からはなれた概念的な議論が多い中に人間がちょっと工夫すれば十分楽しく

できる空間があることが見過ごされている、ということだと思います。デリバティブは

金融工学がもたらしたけしからん商品だと切って捨てるよりはデリバティブってそもそもなんで

使うんだろう、どうしてそんなに広がったんだろう、誰がどんなときに使うと成功したり

失敗したりするのだろうと人間の行う行為として興味をもって真実に近づいていく、その

方がずっと面白いしわくわくする。こうした考えにまずはいきつくために行為の主体のして

の人間に注目しているのだと思います

 

4、すみません、これはちょっと考えてみます。

 

皆様梅雨明けの今週とても暑いそうですがお身体気をつけてください

 

木野
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Re: 門脇厚司さんのこと/ 思想力が問われる保田與重郎本の読書
From得丸公明

松本さん、木野さん、

さっそくにレスありがとうございます。

病み上がりの門脇さんに、鋭く厳しい質問をする気はありませんので、ご安心く
ださい。ただ、読んでみて、だんだんと社会という言葉の意味が気になってき
て、本番をあえて外して質問をしました。

ハダカデバネズミも、同種であっても集団外であればゼノフォビック(外人嫌
い)な対応をとり、いじめ殺すというところが、ヒトと似ています。同じ巣に住
む同士であっても、他の群れと暮らして匂いが変わると、殺されるそうです。

資源が希少で食べ物をめぐって争う動物にとって、社会性と表裏一体のゼノフォ
ビーは、本能ではないでしょうか。いじめは社会性の現れ、社会力があるからこ
そ村八分もきっちりニコニコとできる。そのあたりに社会力の真理が宿っている
ような気がします。

レヴィ=ストロースも、人間は共食いする動物であるという厳然たる事実に驚か
ないようにということを、「アメーバの譬え話」の中でしています。

南アフリカで発掘される人骨の多くが、頭部に穴があいていて、殺されて食べら
れた跡があるということも、食人の歴史は古いことをしのばせます。

したがって、人が社会力を身につけて、殺しあったり、いじめあうのは、本能の
働きであり、むしろそのように人間同士が殺しあうことを続けていたら、地球環
境問題は起きなかった。もっと人間はお互いを殺しあうべきだったのであり、そ
うすれば動物を家畜化して不幸な目に合わすことがなかった。

ヒューマニズムや人間だけが偉いという思想のほうが、食人より罪作りな思想で
あったといえますね。

そういえば、太田竜の「家畜制度全廃論」が序説で終ってしまったのはどうして
なのでしょう。鈴木先生のように、太田さんはキリスト教の思想をきっぱりと否
定できなかったのでしょうか。残念ですね。


あの本で取り上げられている自然科学系のようなフリをしていて、実はちっとも
自然科学的なアプローチではない学者たちは、問題だと思います。彼らこそもっ
と勉強してもらいたいです。



それから、保田與重郎は、彼の使っている概念を自分のものにしないかぎり理解
不能なタイプの思想家だと思います。

テキストの選び方もむずかしいですが、もっとむずかしいのは、戦後日本の国家
観や歴史観という自分自身の概念体系全体を作り直すくらいの気持ちがないと読
みこなせないのではないでしょうか。これまで学校やマスコミが伝えてきた歴史
観は、右も左も中道も、すべて間違っているのだといわれてもへこたれずに、自
分自身の概念体系を組み替えるくらいの知的労力が求められます。

かなりしんどいと思います。朝日新聞も、読売新聞も、産経新聞も、NHKも岩波
も全部嘘だというふうに突きつけられるときに、自分の思想の一貫性をどのよう
にして保持するか。それに耐えられるのか。

保田與重郎を全体として真摯に受け止めることができるか。それとも身勝手ある
いは中途半端に自分の食べたいところだけ、おいしいところだけを受け入れるの
か。自分流に好き勝手に調理して、保田を食べたつもりになるのか。

保田與重郎を読むということは、まことに厳しい読書のあり方が求められます。
自分の読書力、思想力が試されるといえるでしょう。

得丸公明


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