3697.「ことばと文化」



デジタルとは位置のエネルギーなり

皆様、

せんだって松本さんから、「もう、デジタルということばは使うな。
他のことばで言いかえられないなら、意味ないことだ」と言われて、
「いえいえ、まだ誰も考えたことがない地平のことを考えるために
は、デジタルという概念が必要なのですよ」と受け答えしていたの
ですが、、、、

このところ、デジタルというものに、具体的な存在を感じるように
なりきました。
それは、デジタルとは、位置のエネルギー。送信側の位置を高く設
定することにより、受信側に情報がスムーズに流れるようにするの
が、デジタル。

このように考えるようになりました。
これは、DNAにも、言葉の音韻構造にも、共通してあてはまること
です。

それによって、自動的に進化や細胞再生やタンパク質合成がおき、
意味が相手に思い浮かぶというメカニズムになるのです。
以下、デジタル讃歌


デジタルは位置エネルギー高くしてノイズに強い情報送る

デジタルはひと手間かけるエネルギー 手間の分だけ進化をとげた

デジタルをアナログ処理する動物脳 それが自然の流れをつくる

デジタルをアナログ処理するオートマタ進化も意味も自由に生まれる

デジタルに組みあげられた二重らせんDNAはゲノムを守る

デジタルなゲノム入れ替え新しいタンパク質を生み出す力

デジタルに組み立てられたことの葉を吐く息に混ぜ大気に放つ


得丸公明
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読む者を深淵の穴へと誘う「ことばと文化」

皆様、

「ことばと文化」批判(賛美?)は緊張します。
ご意見があればご指摘ください。

得丸


読む者を深淵の穴へと誘う「ことばと文化」 

1 異文化と動物:ことばの謎に目覚める2つの契機

 もの心ついたときから、人はことばを使ってコミュニケーション
する。親兄弟にはじまって、家庭や学校や地域といった場で顔の見
える人々との意思疎通、手紙や電話による遠方の人との通信、そし
てテレビや新聞やネットを通じて送られてくる知らない人からの一
方的なメッセージ、などなど。さらに五官から入ってくる情報を頭
の中で整理するとき、思い出すとき、考えるときもことばを使って
いる。

 生成概念・生成文法というように、ことばの意味も文法も自然と
周囲から学んでいくことであり、ことばを使った通信や思考があま
りにも当たり前のことだから、どうして自分の思っていることが相
手に伝わるのか、どうしてことばで考えるのかということについて
悩み考える人は少ない。お互いに気心の知れた人たちと付き合う限
り、ことばとは何かと考えなければならないほど困った事態に陥る
ことはまずない。万一、嘘や詐欺に騙されることがあっても、悪い
のは嘘をついた人、詐欺師その人であって、ことばが嘘を表現でき
るところに責任の一端があるかもしれないと思う人はいないのでは
ないか。

 だからことばについて深く考えたり疑問に思うためには、ことば
が思ったように通じない異文化の中で生活するか、ことばを使わな
い動物や植物とよほど深く付き合うことが必要なのだと思う。鈴木
先生はその両方を経験されておられるので、ひとかたならぬことば
への興味や疑問がわいてきたのだろう。

  鈴木先生の「ことばと文化」も、異文化体験を通じて考えたこと
がたくさん紹介されている。異文化は自分の文化について客観視す
るきっかけを与えてくれる。だが、単に外国に長期間住めば異文化
が見えてくるというわけではない。異文化を好きになり、それにど
っぷり浸かって人々と交流するから、通り一遍の付き合いでは気づ
かない価値判断や概念体系におよぶ水面下の言語構造・意識構造の
違いを実感できる。

  冒頭にアメリカ・インディアンの言語を専門に研究していた米国
人言語学者T氏が登場する。アメリカは日米戦争中にナバホ語を暗号
に使っていたので、T氏は戦争中にかじったナバホ語を自分の経歴に
加えて利用しただけなのかもしれない。アメリカ人がわざわざ好き
好んでアメリカ・インディアンの言語を研究するようには思えない
からである。

 そして鳥。野鳥観察を続けてこれらた鈴木先生だからこそ、人も
動物の一種にすぎないということを理解した上で、ではいったい人
の話し声と鳥の鳴き声はどこがどう違うのか、といったことにも関
心を向けることができたのだと思う。

2 大いなる謎と取り組む大いなる好奇心・大悲の心

 「私の言語学」の最後のところで鈴木先生は、「究極の目的は、
言語を手がかりとしての人間理解だと思う。人間という不可思議な
生物、人間の心、精神というつかまえ所のないもの、その正体を何
とか見きわめたい」と書いておられる。

 ことばの本質を究めれば、人間の正体が見えてくるという予想は
たぶん正しい。ことばの起源だけでなく、その作用するメカニズム
も、人類にとっていまだに謎である。我々はことばがいつ、どこで
、どうやって生まれたかも知らなければ、いったいどうやって相手
に意味が伝わるのか、あるいは伝わらないときがあるのかという仕
組みも知らないで、ことばを使っている。

  人類学や言語学だけでなく、情報理論や分子生物学など、さまざ
まな領域の研究者がこれまで取り組んできたが、ことばの起源も仕
組みもなかなかその正体を現さない。おそらく、我々が誰一人とし
て思いもしなかったほどに、ことばは巧妙かつ複雑そして神秘的な
メカニズムなのだ。もしかすると、ことばは我々が思っているより
はるかに崇高で繊細なシステムであり、人類はその正しい使い方を
まだ知らないのかもしれない。

 タカの会で鈴木先生とごいっしょに勉強するようになってから、
私は何度か「ことばと文化」を手にとり、そのたびに新しい発見を
することに驚いている。語り口はきわめて平易だが、この本の奥深
さは鈴木先生の人類や言語への思い入れの深さ、真摯な考察の成果
である。

 ことばとものの関係について論じておられるところで、「私の立
場を、一口で言えば、『始めにことばありき』ということにつきる
」と書いておられることに最近目がとまった。ご自身の立場を表す
ことばとして、聖書のことばをサラリと使っておられるのだが、ク
リスチャンでないのにそれができるのは、ことばについて十分に考
え続けてきた経験と自信のなせるわざである。そして、そのすぐ後
に、「そこにものがあっても、それを指す適当なことばがない場合
、そのものが目に入らないことすらある」と、これまたサラリと書
いておられる。

 つまり、「純粋に言語学の立場から、唯名論的な考え方が、言語
というもののしくみを正しく捉えている」といっておきながら、「
そこにものがあっても、ことばがない場合」のことが念頭から抜け
落ちていない。ことばが始めにあるけれど、ことばはすべてではな
いのだ。そしてそれがさらに発展すると「言語は魔術であり、人間
を縛る呪詛ともいえよう」と、極めつけのことばが生まれる。

3 深い井戸の中をもっとのぞきこんでみたい

「ことばと文化」は読みやすく、言語学の入門者が読んでおもしろ
い本である。しかしこの本の本領は、言語についてそれなりに勉強
した後で、読み返すたびに新しい発見をするところにある。二度目
に読むとメッキの剥がれに気がついて白けてしまう本も多いなか、
これはじつにめずらしい。

 読みやすさと、メッキが剥がれない理由は、もちろん著者が十分
に考え抜いてきたことを書いているからということもある。それに
加えて、もっと基本的な著述スタイルに先生のお人柄が表れている
こともあるだろう。先生は、自分で見たこと、自分で聞いたこと、
自分で考えたことを、洗練されたわかりやすい自分のことばで書い
ておられるのだ。

 本書は、6の「人を表すことば」がページ数で4割近くを占めてい
る。著者はこの言語社会学的な話をするための準備として1から5ま
でを簡潔に論じたのかもしれない。ことばが人間のすべてを規定す
ることをわからせるために、ところどころに深淵へと続く井筒があ
ることを示しながらも深入りはしない。だからこそ肩の力の抜けた
、わかりやすい概念論、概念体系論、意味論、価値判断論が展開さ
れているのだ。

 ことばの意味が個人の記憶の集成であり、その記憶を吟味して価
値判断することによってことばが体系化されて、個々の人間の意識
が形成される。言語化されない、氷山にたとえると水面下の7分の6
にあたる部分を視野に入れた言語学の本には、本書以外にはまだ出
会ったことがない。

 個人の意識の水面下を論じた「ものとことば」、「かくれた規準
」、「ことばの意味」、「事実に意味を与える価値」の章は、それ
ぞれ、概念、概念体系、意味、論理判断といった言語活動の中核と
なる構造物や仕組みを扱っている。それらを決定づけるのは、合理
性で説明のつくようなさかしらな知恵ではなく、文化や風土の違い
をも超越した、もっと野性的で生き生きとした、生命の起源に直結
する原理あるいは生命論理といったものではないか。

  タカの会では、「ことばと文化」ではあえてサラリと扱った言語
を運用する構造の部分について、鈴木先生のお話を伺ってみたいと
思う。野性の鳥類の生態を観察しつづけてきた鈴木先生に、人類の
意識の深奥でことばを支配している生命論理を明らかにしていただ
き、我々に正しいことばの使い方を教えていただきたいと思うから
だ。
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「ことばと文化」のまとめは箇条書き

皆様、

夕べはお褒めのことばをありがとうございました。

あの後は、箇条書きにして、概念、意味、概念体系、価値判断(論
理)について、明らかにしたいこと(しなければならないこと)を
並べようと思っていました。

*鈴木先生は、ことばの意味とは、「ある音声の連続(イヌならイヌということ
ば)と結びついた,ある特定個人の経験や知識の総体である」とおっしゃっておら
れますが、この定義「ことばの意味とは、あるひとつの連続した音声刺激と、そ
れと結びついた記憶の総体」でいうと、飼い犬も概念をもつということでよいか。

* パブロフの実験は、イヌも概念をもつということではないのか。 
 パブロフの実験は、有益・有害なもの(餌や口の中に注ぎ込まれる酸の溶液)
と、それと直接には関係をもたない音響・視覚刺激(ベルやメトロノームの音、
丸や四角の形など)が、イヌの意識の上で結びつくことを示した。
 概念は、視聴覚という遠隔探知できる感覚器官を発達させた動物が、生命維持
の本能によって、有益・有害なものを、音響・視覚刺激と結びつけるところに原
型がある、ということにならないか。

 これが、生成概念ということの背景である。

* 人間は、概念を、それが本来もっている生命維持の本能と無関係に使えるよう
になった。だが、本当にそれでよいのだろうか。ことばをもっと生命(人間の生
命、動植物の生命)につなげて使う必要があるのではないか。

* パブロフの実験では、類似した2つの刺激を、ひとつは有意なものと結びつく
刺激、もうひとつは有意なものと結びつかない刺激として設定し、イヌが2つの
刺激を別のものと識別できるかを確かめる「分化」の実験が行われた。
(この手法は、その後、ウズラやチンチラが、音素「t」・「d」を聞き分ける
かどうかを確かめるときにも用いられた。)

 イヌも、ウズラも、チンチラも、よく似た二つの刺激が、有意か無意かで、識
別できることを示したが、これは世界をAとnotA(あるいは補集合として  1-A )
に分化することではないか。
 もし、世界をAと(1−A)の2つに分化できるのであれば、二分木の要領で、
さらに細分化し、概念体系を構築することができるのではないか。

* また、ブール代数のAND と ORを使って、「A*B」(Aであり、かつ、Bであ
る)、「(1-A)*B」、「A+B」(AまたはBである)として、論理的な判断を行うこ
とができるのではないか。

 たとえば、餌(A)、危険(B)という分化が行われているとしたら、まず「A*
(1-B)」(安全で餌がある)を探すのだが、それがなければ、「A*B」(危険で
あっても、餌がある)という選択肢に移る。

 このように考えると、動物も、生きるための本能にもとづいた「思考」を行っ
ていることになる。人間の行っている思考も「すべて記憶内容に対する論理操
作」であるといわれている。

 ヒトは、記憶の量が多いことと、ことばがあるから抽象的なことを考えられる
ところは、ヒト以外の動物よりもすぐれているかもしれないが、思考という点で
は、同じことをしているのではないか。

*  キリスト教では「動物には魂はない」と教える。

 これは人間は動物でないということを言っているのか。ラスカサス文書で、イ
ンディオに魂はあるのか、インディオは人間なのかということを論じたのと、同
じくらい間違っているのではないだろうか。

 だが、ヒトはことばに束縛される。パブロフは30年以上、イヌを使った実験を
続けたし、イヌにも気質があるし、イヌの大脳半球の働きはヒトのそれと同じで
あると結論を出しながらも、イヌに感情や欲望があることに最後まで気づかな
かった。これは「動物には魂がない」と思い込んでいたからではないか。


* 概念や思考が、生命の本能のはたらきであるならば、どうしてヒトはことば
に束縛されるのだろう。ことばに束縛されてはいけないのではないか。

* どうすれば、ヒトは間違った概念から自由になって、動物としての正しい論理
判断・価値判断を行えるようになるのだろう。

こうなってくると、もう宗教の世界です。「悟り」、「本覚」という世界へ、理
性を突き詰めることによってたどり着こうという試みといえます。

このあたりの箇条書きのところも、またご意見をいただきたいです。


なんでもかんでもこの一回で書ききる必要はないと思っています。抽象概念と文
法については、次回以降にしようかと思っています。

* 抽象概念とは、「五官の記憶のないことを、別の記憶の演算によって想像す
る」ことである。
たとえば、「坂本竜馬」も、歴史家が想像や調査によって書いたことをもとに、
竜馬を想像する抽象概念である。
これはことばのはたらきであり、イヌやことばをもたない他の動物は、抽象概念
をもつことができない。

* 文法も、ヒトだけがもつことができる。
 文法は、すべての単語および、単語の音韻の微妙な変化が、相手に確実に届く
ようになって生まれたものであり、単語の意味を接続・修飾するための共通規則
である。

得丸公明



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