3689.「日本語は滅びない」か?



皆様
 
“楽天が英語を社内公用化する”というニュースに脅威を覚えました。
http://mainichi.jp/select/biz/news/20100701ddm002020069000c.html
 
前月の会で「日本語は滅びない」というカナダ在住をエンジョイし
ている著者が書いた課題本に対して「日本語は滅びる」の多くの議
論をしたところですが、言語問題が身の回りにも発生してきている
ようです。三木谷社長は国際化に対応するためと簡単に表現をして
いますが、彼は、自分の企業が外資に乗っ取られやすくなることを
懸念心配していないのでしょうか?雇用機会も外国人重視の企業と
なることでしょう。
 
ニッサンのように既にゴーンという外国人経営者になってしまった
企業ならともかく日本人社長自らが何故日本語は不要と考え始めた
のでしょうか。危惧されるシナリオは、時流に迎合することの得意
な彼の試みが成功すれば、民間企業経営者たちも真似て日本の民間
企業の多くが英語を社内公用語とする会社が増えて、民営化が好き
な役所も英語の公用化を進めるのではないかという不安です。役所
が日本語不要を唱えれば完全に日本語が滅びることになるでしょう。
英語で話すことがカッコウいいからでしょうか。(フランス人はそ
う思わないと思いますが)日本語が不要で滅びることを喜ぶ人が多
くなったということでしょうか。前々回の会のレポートの台湾が言
語問題でクレオール化してしまいアイデンティを見つけられなくな
ってしまた台湾人の悲哀を学習しましたが、日本人も同じようにな
るのでしょうか。
 
私の海外駐在時代の体験では、駐英の日本企業内の会議で日本人同
士が英語で会話することに妙な気持ちになりました。日本人が10人
いて1人だけが英国人秘書が出席した会議でしたが英語で議論するこ
とに日本人はひどく苦労していました。日頃よく発言する日本人ス
タッフの発言が心持ち少なく遠慮がちになったように思いました。

英語の会話能力が不足していたからだけの原因では無いように思い
ました。会話の内容が英語では話しにくいのです。話の内容を深く
考えると同時に日本語で考えた内容を英語で表現することに英国人
よりもエネルギーをつかう必要があるのです。

逆に英国人が10人で日本人が2−3人の会議では、能力不足もあっ
てますます発言が少なくなりました。鈴木先生の「日本人は所詮二
流のアメリカ人の英語しか話せない」という言葉を思い浮かべます。
英語を主流とする企業では、アメリカ人やイギリス人の発言力が強
くなって、主導権を奪われるようになるのではないかと思います。
外資系の企業で働いている方は、以前から英語が社内公用語である
ようなので違和感はないかと思いますが、日本人同士の会話では、
どうだったでしょうか?

英語を公用語にすることは、国際化のためには良いということかも
しれませんが、日本人の雇用機会が少なくなることにもつながるの
かもしれません。
ヨーロッパ各国は、小国であっても自国語を大事に維持して独立国
として多様な文化と歴史が維持されています。国際化でビジネスで
は、英語を話す国が増えているものの、あくまでも、道具としての
英語を話すのであり自国語を不要として捨てることはしていません。
自分たち同士の会話は英語でなく自国語で話している。
小学校から英語義務教育させようとする最近の政府の動きを見る一
方で、ヨーロッパの言語戦争や台湾の言語問題の歴史などみると、
戦後簡単に自ら日本語不要論を言い出した人間の思慮の浅さを痛感
します。鈴木孝夫先生が国立国語研究所の評議員でご苦労された日
本語不要論の話(「私の言語論」P108)が同様に根付いているのか
と憂いを感じました。

外国をより理解するための道具としてあるいは国際社会を生き抜く
ための武器としての英語を使用することはあるとしても、国語を捨
てる日本語不要論になってはならないと思う。
 
次回の研究会あるいはMLでは、鈴木先生はじめ皆様からこの身近な
現代日本の言語問題についてのご意見を伺いたいと思います。
 

小川
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「私の言語学」p74 ひとりごとの言語学
From得丸公明皆様、

鈴木先生が「テキストを何度も読み返してみて、『こんなに面白いことを語って
いる人物が、この世の中にはいるものなのか』と改めて感じ入っていた」とおっ
しゃられるだけのことはあって、たしかに、面白くかつ深淵さを感じる本ですね。

p74「ひとりごとの言語学」は、「おそらく世界でもはじめて」というだけのこ
とはあって、じつにユニークな分析ではないでしょうか。

頭の中で、自分を1人称で語るときと2人称で語るときがあるというところと、
相手も3人称で表現するときと2人称で表現するときがあるというところ、これ
も、そんなことがあるのかと驚きました。

外国の小説をたくさん読みこなして、なおかつ言語学のネタ探しをしていない
と、発見できないことではないでしょうか。


心理学の短期記憶に関する理論では、「リハーサル説」というのがあって、頭の
中のことばは、実際に発声する言葉をリハーサルしているという説明をします
が、3人称で考えて2人称で発声するのだとしたら、リハーサル説はちょっと弱
いことになります。

ヴィゴツキーは、内言は、極端な省略が行われ、不完全で断片的であるというこ
とをいっています。基本的に、ヴィゴツキーは頭の中の言葉は、省略された話し
言葉だと考えているようです。


鈴木先生の読まれた小説の場合には、小説として言語化する必要性から書き言葉
になっただけで、実際には登場人物の頭の中では話し言葉であり、不完全で断片
的な省略が行われているのでしょうか。

そのあたり興味があります。

つまり、話すときにかぎって「空の記号」を使って、はっきりと、離散的に発音
するのですが、聞き取りや頭の中での処理は、省略された不完全で断片的な言葉
が使われているのかということを確かめてみたいのです。

得丸


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