3655.ドキュメンタリーの近代性を乗り越えて



ドキュメンタリーの近代性を乗り越えて

−1− ドキュメンタリーの物足りなさ

映画を芸術というには、観る者に対する要求が低すぎるのではないか。
これは表現者にとって表現手段としての有効性の問題として跳ね返
ってくる問題ですが、あまり議論されていないのでは。

昨日の映写室では、カウチポテトとはいかないまでも、各自お酒を
飲みながら呆然と映画を観ていました。上映室が暗いのもよくない
ですね。寝ててもわからないのだから。僕自身、映画にやや飽き飽
きしながらも、ダラリンと椅子に座って、ひたすら時間がたつのを
待つという、とっても受け身な態度で最後を迎えました。

『台湾人生』と『緑の水平線』という2本のドキュメンタリー映画。
『台湾人生』の途中から観たのですが、人間の住むところは結局ど
こも同じだ。ちょっとばかりきれいか、汚いか、匂うか、匂わない
か、程度の差があるだけで、街も家の中もどこもだいたいおんなじ
だと思った。こんなことを感じるのなら、旅をする意味っていった
いどこにあるのだろう。

一本目『台湾人生』は日本語のインタビュー、二本目『緑の水平線
』は台湾語のインタヴュー、そのせいでフレーバーがちょっとだけ
違っていたけど、所詮どちらも人間の言葉でしかないというのが私
の結論。人間はどうしてこうも世俗的なことばかり考えるのでしょ
う。

「これが私の人生なんだ」というドキュメンタリーの素材は、たし
かにリアルだけど、それをつないだら作品になると考えるのはちょ
っと安易ではないか。話題にのぼることが、人間と人間の間のこと
ばかりで、とても世俗的、あるいは雑多で瑣末(ミスレニアス、
miscellaneous)。みんな自分が知っていることを口にするけど、
それは誰かがその人に吹き込んだことで、なんらオリジナリティー
もないし、心の奥底からの叫びという力強さも感じられない。

監督やプロデューサもドキュメンタリーだと浮世離れした話題にも
っていきにくいのでしょうね。庶民の、庶民による、庶民のための
作品。だけど庶民の声をいくら集めても、烏合の衆の声でしかなく
、美しいものを感じない、飽き飽きしながら映画を観た。この砂を
かむような辟易とした気分は、社会主義の労働者芸術にも相通じる
ものがある。判で押したようなステレオタイプが綿々と続いていて
、心が感じられない。文明の中で心が塩漬けされている。 

現代という時代にあって、ドキュメンタリーには手法的な限界があ
るのではないか。これは上映後トークで寺脇研さんがチラリと、「
台湾における日本の教育というのは近代の問題。しかし近代の文脈
で世界を理解しようとしてももう駄目。ポスト近代という視点が必
要」てなこと、ドキュメント礼賛に水を差す発言をしておられたの
で、私だけの意見というわけでもないようだ。

さらにドキュメンタリー映画というのは、登場するものを、徹底的
に対象化するところに特徴があると思った。要するに人ごと。この
手の映画を観て自殺する人は絶対にいない。なんだろうこの距離感
は。娯楽なら娯楽に徹底してもらったほうが、映画は生きるのかも
しれない。映画監督は、この人たちのことを知ってもらいたいとい
っていたけど、知ってどうなる、知ってどうするのだろう。

とはいえ、2本の映画の後、監督、プロデューサー、NHKのディレク
ター、映画評論家寺脇研さんによるトーク、質疑応答が40分以上あ
り、さらにその後、会場で懇親会があったことには驚かされました。
映画人って、サービス満点というか、人がいい。僕と盛さんはは12
時前には退出しましたが、寺脇さんや監督たちは、まだまだ議論を
続けておられました。映画人の生き方には、近代をともに生きてき
た戦友たちを思いやる温かさが残っているのかもしれません。



−2− 自分自身の人生を野生に戻すべく身体と認識枠組みを組み替える

アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』を扱った長田弘のエッセイが
、近代性とは何かをうまく表現していたように思って、検索をかけ
てみたら、藤沢烈という方が引用しておられたのでそのブログから
引用する。

「一冊の本はみずから語るものを語って、みずから負う同時代を語
る。いや、語ってしまう。二十世紀にはいって書かれた本の世界か
らは、本来の意味での主人公ははじめはゆっくりと、やがて急速に
姿を消した。物語の主人公は、もはや特定の運命を背負った特定の
誰かではなくなった。かわって二十世紀の物語のふつうの主人公と
なったのは、無名の同時代だ。たとえそれが一人の物語として語ら
れることがあっても、その一人はあなたではないかもしれないが、
あなたであるかもしれない一人であり、物語は彼もしくは彼女の物
語ではなくて、たまたまその名でよばれたにすぎないような1人の
生きた同時代の物語なのだ」p8
長田弘『私の二十世紀書店』(みすず書房, 1999)
http://retz.seesaa.net/article/91035460.html

この無名の同時代の作品化がドキュメンタリー映画であったのだと
思う。

21世紀の文明崩壊の時代にあって、ドキュメンタリーはノスタルジ
ーか時代錯誤を表現することしかできない。もう映画なんかみてい
る場合じゃないのだ。

私たちに求められているのは、無名の誰かの人生をのぞき見するこ
とではなく、身体や認識枠組みを組み替えることによって、自分の
人生をいかにして、野生に、天然自然の法理に近づけるかというこ
とではないだろうか。これが「天命反転」の目指すところかもしれ
ない。


得丸公明

−PS−(おまけ)脱北映画『クロッシング』トークイベントのご紹介

台湾の1947年2月28日事件のことも出ていたけど、朝鮮戦争に比べた
ら4ケタも5ケタも桁が小さい話じゃないかな。比べ物にならないと思
いました。(違っていたらゴメンなさい)

本日(2日)、三浦小太郎氏×荒木博和氏のトークイベント@銀座
シネパトス・映画『クロッシング』19:20の回上映後。僕は行かな
いけど、昨年の合宿とも関連するので紹介します。こちらはフィク
ションだけど、現実を踏まえたフィクション。こっちのほうが身に
つまされるのかもしれない。

http://www.crossing-movie.jp/



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