ノスタルジーの言語学的な批判(試論) From得丸 ノスタルジーについて、考えてみました。 「考える」とは「記憶の組み換え操作」であるとすれば、ノスタル ジーに思考はない。 −1− 政治が環境に優先されてしまう http://www.nowpap.org/map.htm 富山の海洋環境のプロジェクトは、日本、韓国、中国、ロシアの4 カ国が参加していましたが、これはたまたま政治的に参加可能な国 々が集まったというもので、北朝鮮の存在や台湾の存在については 、触れないようにしていました。環境は政治を超える問題であるの に、人間がそれを国際プロジェクトとして扱おうとすると、どうし ても政治が環境に優先されてしまうというわけです。それで何年間 か、台湾島を地図に書きいれていない時期がありました。 ところが、あるとき中国から会議のためにやってきた代表団が、「 我々の領土である台湾が地図上に書き込まれていない」と騒いだの です。 「書くも地獄、書かぬも地獄」ということわざはありませんが、中 国に気を使って地図上から消していたら、逆に中国に「自国の領土 が書き込まれていない」と問題にされて、結局、台湾があるのかな いのかわからないような切り取りをして誤魔化しているようです。 こんなことでは環境問題を正しく認識することすらできないですよ ね。環境問題への取り組みが本気でないことの現れともいえるでし ょう。あるいは人間がいかに自分の都合を優先させるかの証拠とも。 でもこの騒ぎも、南北朝鮮の拉致問題や哨戒艇撃沈事件などの生々 しい現代国際政治の闇の部分に比べたら、微笑ましい笑い話にすぎ ないように思います。 −2− ノスタルジーとは、懐かしい記憶による思考停止 もし、ことばの意味が、記憶であるならば、ことばには意味がない 、ということになる。 意味はことばにはない、のであり、 ことばは意味でない。 意味はあくまで記憶そのものなのである。 そうすると、「ことばで考えること」、「思考すること」は、 記憶を操作することであり、記憶を組み替えること、記憶を演算す ること、それが考えること、思考することになる。 そして、ノスタルジーとは、古い思い出の記憶、セピア色した写真 のように温かみをもった懐かしい記憶を思い出すことになる。 そこには思考は生まれない。 そこでは思考は停止している。 現代芸術にとって、ノスタルジーほどよくないものはありません。 現代芸術は、禅と同じで、今だけを見つめなさいといいます。 今の関係性の中で、意味を生み出す、記憶を作り出す、それが求め られている。 だけど、ノスタルジーは、新しいものを生み出さない。 古い思い出に浸ることは、たしかに心が安らぐ、なごむことですが 、そればかりではダメではないでしょうか。 ということにならないでしょうか。 とくまる