3635.『動物の魂を認める・認めない』とは



『動物の魂を認める・認めない』とは、どういうことでしょうか

皆様、

鈴木孝夫先生の『ことばと文化』に、キリスト教は動物の魂を認め
ないという表現がありますが、これは一体何を意味しているのでし
ょうか

魂とは何か
動物の魂を認めないと、どういうことになるのか
日本人は動物の魂を認めるのか
動物の魂を認めると認めないとでは、何が違うのか

動物の魂を認めるのと認めないのとでは、どちらが正しいのか
正しいとか正しくないとかの問題ではないのか
ともに正しいのか。あるいはともに間違っているのか
ことばにできないことなのか

なぜキリスト教は動物の魂を認めないのか
魂を認めないとは、何を認めないことなのか
非常に気になっています

どなたでも、思うところをおっしゃってみていただけませんか
所詮メールのやりとりです。通じにくいことは仕方ありません。心
に浮かんだことで結構ですから

得丸
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創世記には2系統あり、先(紀元前10世紀ごろ)に書かれたヤハウィ
ストによる記述では、神は最初にアダムを創り、アダムの鼻の穴か
ら「精霊」を吹き込んだとされます。

アダムと一緒に暮らすようにと創った他の動物にはそういうことを
していません。イブはアダムの肋骨から創られたので「精霊」が内
在します。つまり、人間にしか霊魂はない、というのがユダヤ−キ
リスト教(おそらくイスラム教も)の考えです。

霊魂(精霊)がない動物は、神とつながるすべがなく、神の救いの
対象にはなりません。

これは人間の自然な感情にとって、無理のある考え方です。一神教
を緩和するためにたくさんの聖人を作るのと同様、動物に対しても
魂を持っているように接するのは、正当な教義からすると逸脱して
いるのですが、そうしないと人間は生きていけないからだと思いま
す。

南
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創世記の第1章と第2章では、記述者の思想が異なります。
第1章では、神は第5日に水に棲む生き物と鳥を創ります。
そして第6日は、先に地に棲む生き物を創ったのち、人を(男と女を
同時に)創ったのです。

この思想より前(紀元前10世紀ごろ)に、神をハヤウェという名称
付きで信仰する思想があり、第2章は、彼らヤハウィストによって書
かれています。
ここでは、アダムを先に創り、しかも神の息吹き(精霊、霊魂)を
吹き込みます。
その後で、さまざまな生き物を創りますが、ともに生活させるので
はなく、アダムに支配させます。
結局アダムとともに暮らすのは、アダムの肋骨から創られたイブで
す。ですからイブにも霊魂があります。
つまり人間にのみ霊魂(精霊)があり、それゆえに神とつながりを
もち、神の救済の対象になりうるのです。

これがユダヤ教−キリスト教の正統的な考え方です。
ただ、こうした唯一絶対神思想には、多くの人間は耐えられません。
たとえば、唯一神の緩和策として、聖人をたくさん設けます。
動物についても、とりわけ動物を飼っている人々は、動物にも魂が
あると信じており、教会もそれを許容している(少なくとも禁じて
はいない)のではないでしょうか。

南
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南さん、

> 創世記の第1章と第2章では、記述者の思想が異なります。

そうですか。みんなそのミックスしたものを読んでいるわけ
ですね。

> 動物についても、とりわけ動物を飼っている人々は、
> 動物にも魂があると信じており、教会もそれを許容している
> (少なくとも禁じてはいない)のではないでしょうか。

動物に魂がないという考えが、一神教徒の意識の中で意外と
根強いのかもしれないと、パブロフを読んで思っています。

パブロフの頭の中には、動物の主観や感情という発想が欠落
しており、そのために、本来は「適応行動」あるいは「刺激
と記憶の結合」(「アナログな概念」といえるでしょう)とし
て捉えるべきであったものを、「条件反射」という「反射」
と名付けたのだと思います。

動物に魂(この定義があやふや・あいまいなところが、議論
を成り立ちにくくしていますが)がないという発想が、根底
にあると、目の前にいる動物が心を開いても、それを認識で
きないのではないかという気がするのです。

人類文明が地球環境問題を引き起こした最大の思想的バグは
ここにあったのではないかと思うのです。

得丸
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得丸さん

「動物に魂はあるか」
どうも理系の人間としては、物事を分析的に考えたがる癖がついて
います。まず「魂」とは何か、目に見える存在ではなさそうだ。量
子力学の次元までレベルをあげて分析しても見つかるものではなさ
そうである。「動物」と「ひと」と称しているが「ひと」も「動物
」の一部ではないか。この場合の「動物」とは「ひと以外の動物」
のことであろうというところまでは、安心して考えられる。さて、
「魂」を広辞苑で引くと「動物の肉体に宿って心の働きをつかさど
ると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした。霊
魂。精霊。たま。」とある。まさに循環論法的な定義になっていま
す。
 
この場合の「魂」というのは、物理的な肉体の器官とか細胞分子で
もなく、どんなに分子生物学が発達したとしてもDNAやゲノムの
解析のようなもので解ける物体ではなさそうです。最近似たような
事例で合気道の先生から「丹田を意識して稽古をやれ。丹田は、ヘ
ソ下三寸のところにあるというが別に内臓の一部とか器官として存
在しているものではない。」と教えられた。確かにこの丹田という
ものも物ではなさそうである。しかし完全に空想的抽象的な存在で
はなく場所は決まっていて、人は意識することができる存在である。
猫や犬に丹田が意識できているかと聞く訳にもいかないので分らな
い。
 
キリスト教では、「動物には魂は存在しない」ようであるが、イン
ドのヒンドゥ教では、「ひと」も「動物」も輪廻転生する存在であ
るからどちらにも「魂」は、存在するように考えられるのではない
かと思う。日本人でも仏教を深く信仰している人には「動物の魂を
認める」でしょうし、キリスト教を信仰している人には「動物の魂
を認めない」ということになるのでしょうか。
 
この「魂」の存在については、まさに「ことばと文化」のような関
係でその人が生きている世界や文化、信じている宗教などで同じ言
葉でも違って解釈されるものではないかと思う。

小川眞一



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