3627.1999年『エンデの遺言』を観て



1999年『エンデの遺言』を観て
                    今井
◆1999年『エンデの遺言』を観て、
始まった地域通貨が約800程だったそうです。その中の一つに、
『まちだ大福帳』というグループがあります。
ここで、私は友人知人らと一緒に立ち上げ、「地域通貨“花”」普
及活動が約 10年になります。
(「地域通貨“花”」は、エンデの『モモ』の中に出てくる「時間
の花」からとっています)

この10年間を振り返って、この経験の中で一番感じたのは、(私自
身も含めて)、日本人は市民として一番大切な市民意識(シチズン
・シップ)があまりにも未熟なのではないかという事でした。

◆「地域通貨“花”」は、初めての試みなのですから、
私たち自身がよほど自発的に使うわないと回っていきません。しか
し、だんだんに会員の方々から「まちだ大福帳事務局」への問い合
わせが少なくなり、使うことに、積極的でなくなってきたことを感
じ始めた時、「みんなの最初のあの情熱はどこに行ったのだろうか
?」と疑問に思っていました。

現実に、経済不安が襲ってきた時でも、みんなの疑問は「何故、地
域通貨は、失敗したのか?」とか「何故、地域通貨は、普及しなか
ったのか?」なので、驚きました。
【失敗したのは、法定通貨のほうではありませんか?】と、私は言
いました。私たちが自ら発行できる「地域通貨」を熱心に取り組ま
なかったのは、私たち自身なのではないだろうか? それは、私た
ちが、自分たちで自分の世界を作っているんだという認識がないの
ではないだろうか? これは、 「シチズンシップが育っていない
」 という事ではないだろうか?

そんなことを、「時間の花(グループ名)」の他のメンバーに話し
たら、「私もそう思っていたよ〜」と共感してくれたのでした。
そこで、今回、シチズンシップを自ら体現し未来につながる優れた
市民運動をしておられる田中優さんに『シチズンシップ』というテ
ーマでお話をお願いしたのです。田中優さんに『シチズンシップと
いうテーマでお願いできませんでしょうか』と相談したところ、
「僕もちょうど同じ事を考えていました。」
という有難い返事をいただき、この共時性に嬉しく思わず小躍りさ
えしました。

◆日本の歴史が示しているように、
日本人はお上にお任せする姿勢が強く明治維新も市民革命という形
は取りませんでした。市民意識が未成熟で政府によるトップダウン
の政策を受動的に受け入れる姿勢がいまだに続いているのです。自
分の地域、自分の国を自分たちで作り上げるという市民意識がなけ
ればこれからさきも時流に流されていくほか何もすることが出来な
いのではないか。これでは文句ばかり言ってるだけになってしまう
のではないか。
これでは未来の世代にあまりにも申し訳ない。

そこで、わたしたちは、同じ想いの人たちと、市民として、次の一
歩二歩と踏み出して歩んでいけるように、『市民意識(シチズンシ
ップ)』を高めていきたいということになりました。 
また、想いをあきらめずに継続して歩んでいくにはどうしたらいい
か!ということも、一緒に考えていきたいねと話しています。

◆田中優さんのブログのタイトルは「持続する志」なのですが、
この言葉が胸に響きます。「シチズンシップ」をお互いに高めあう
関係を作りながら、さまざまな問題を解決していこうとする志を持
続する仲間作りが大事なんだと思います。普段の暮らしの中での
「シチズンシップ」から始まり、政治に関わっていく「シチズンシ
ップ」まで幅広いですが、一つ一つ前向きに能動的に関わっていこ
うとする態度を育てていきたい、
そのことを伝えて広げてつなげていきたいと思います。

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                    今井
「しちずん しっぷ」ってなあに?
〜リーダーズ英和辞典ですと、
1、市民権、公民権、公民の身分(資格)
  <大学などの>共同社会の一員であること
2、<個人の>市民性、市民的行動 共同社会性
〜とあるそうです。(友人のよっしーが調べてくれました)

今のところ私は、「しちずん しっぷ」というのは、公共性とか市
民性とか道徳心とかいうことを含んだ言葉なんだと理解しています。

子どもの頃(昭和の真ん中の時代)、
学校の「道徳の時間」に「公共性」「公共心」「道徳心」という言
葉を聞いた記憶があります。
(「道徳の時間」が、今の学校にはないと聞きましたが!
 昭和の真ん中の時代、小学生から中学生までは、
 一週間に1時間の「道徳の時間」がありました。)

道徳の教科書に出ていたと思うのですけど、「欧米に比べると日本
人は公共性が足りない」という話でした。 
それは、道路につばをやたらに吐いたり、ゴミやタバコの吸殻を捨
てたりすることを指していました。また、年を召した方が、道路を
渡ろうとしているときに、手を取って一緒に道路を渡る人のことを、
「道徳心がある人」だと習いました。
今、思いますに、「道徳心」がある人は「公共性」がある人につな
がっているのですよね。

もしかしたらなのですけどね、学校で「道徳の時間」がなくなった
ころに、「シチズンシップ教育」という言葉で(主にイギリスから
らしいけど)日本に入ったのではないかしら?

1999年『エンデの遺言』の番組は、私たちが本来持っている「道徳
心」を生かせない形にしている原因である『法定通貨』のシステム
の問題が見えにくいので、説明するよ。
説明したから、わかったよね。
みんなで意識して考えて変えていきましょう〜と言っているんでし
ょう。

エンデさんは、
『法定通貨のしくみ』は人間が作ったことなのだから、必ず変えら
れますよ。だから、あきらめないで、変えていきましょう。って。
そして、今こそ、すべてを一度に変えるときが来ていますよ〜ってね。
〜と、私は理解したのです。
(拙い文でごめんなさい。お許し下さい。)
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                  森野
地域通貨は取引や交換です。これが作り上げる人々のかかわりや独
特な性格をもった関わりの仕組みを作っていますね。私たちはそれ
を個性と人格をもった人間として作っています。

それは自分で自分のことを決め、合意し合うことで行われています。
その意味で地域通貨は社会の経済活動という産業的な働きの一部で
、そうしてさらにその特色として自分たちで自分たちを治める、
つまり自治(ひとりおさめる;おのずからおさまる)という各人に
よる各人の統治という性格さえ帯びています。

あっ、貴姉のような市民という政治的高みにいらっしゃる方には英
国のコトバで言わねばなりませんでしたね。
その、あだし国ではセルフ・ガーバメントとおっしゃっているよう
ですね。

地域通貨をしている人々は、具体的な関わりのなかで、共にするお
おやけを作り上げています。それは私たちが昔からこの国で公同と
かさまざまに呼んできたものです。それは人格がある人々が作り
あげる秩序で、欧州の英国ではない仏国の社会主義者もずいぶん以
前に、それを明らかにしたといいます。

「各人による各人の統治」(P.J.プルードン)です。

この考えは同じ仏の思想家、ルソーの考えに明確に対峙する考え方
です。

「ルソーとフランス革命は我々に民主的な統治がいかにして生まれ
るか教えている。・・・契約によってである。ここでは生理学は
もはや何の価値ももたない。
国家は有機的な本性の、つまり肉のではなく精神そのもの・・・
の産物とみなされる。この制度のもとでは・・・市民たちが皆契約
に署名したとみなされる・・・」
(『所有に関する第一覚書』)

ここで生理学と表現しているのは、具体的な血肉をもち社会的人格
をもった人間をさしているわけです。しかし市民とは社会契約とい
う単なる精神上の虚構に基づいて成立しています。そうしてかたえ
(一方)に共同体や国家をおき、こちらでは、そこで定められる権
利を付与された抽象的な個として位置づけられるのでしょうね。
(私は生まれてこのかた、そうした社会契約を結んだ記憶がありま
せん(笑))

そのような「各人による全員の統治」のなかで市民が成立していま
すね。それは欧州古代の民主制においても今日の代表民主制におい
ても代わりはしませんでしょう。

そこに生活も産業も交換も消費も無関係で人格もなき選挙で一票を
投ずることができる抽象的で個性のない人間がいるわけです。

そうして貴姉は、そうした存在にとっての「道徳」を下げ渡す高み
にいらっしゃるせんせーのご案内を我等になさっているわけです。

私たちは、公共も道徳も、そうした政治社会や国家との関係で定め
られるものではなく、じぶんたちで作り出していくものと考えてお
ります。

貴姉のおっしゃる公共とはなんですか?道徳とはなんですか、お話
で下げ渡されるようなものなのですか。

それはさぞかし立派な道徳であることでしょう。さぞやそこに我が
身を置けば快適な公共なのでしょう。

さて、それでは、それらはいったいなんなのですか。
お時間があれば、いたらない大衆のためにお教えいただければ、
学校の道徳の事業を受けなかった身には、なにかの参考になるかも
しれません。

ちなみに、ゲゼルのいう自由人はルソーの一般意志(国家)との関
連で定義されるような市民ではありません。主著の初版をプルード
ンへの献辞で始めているように、各人による各人の統治に向かい漸
化する血肉あり名を持つ具体的な我々ひとりひとりであり、そうし
た人間たちが共にするおおやけを公共とするものです。

公共が成り立ち、地域通貨というように地域が語られるとき、それ
らはなにかといえば、私が好みのコトバはロシア革命で活躍した革
命家であり後にフランスに亡命したプルードン主義者アレクサンド
ル・マルクのコトバです。

http://d.hatena.ne.jp/a1ma1m/searchdiary?word=%B6%BF%C5%DA

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                     白崎
たとえば、公ということをいうなら、横井小楠や田中正造もふりか
える必要があります。

某教科書のように、公とは「国家や社会の秩序」とお教えくださる
「文部科学省」の検定おすみつき「道徳」のご託宣などもあるわけ
ですから、要注意ですね。(だいたいモラルを「道徳」と翻訳する
のもどうかと思います)

そもそも徳っていうのは「そのひとの持って発揮しているよさ」で
すからねえ。そうして、豊かであること、富ってのは、五行大義の
昔から

 富トハ徳ノ化シテ及ブ所、豊穣闕(か)クル無シ

で、徳(ひとの持っているよさ、取り柄)が化して(人との付き合
いを通して社会的になり)及ぶと富になるわけで、地域通貨は道徳
の授業でとりあげろ〜、と。

人の持っているそれぞれのよさをいちばんに発揮させるように「人
にその所を得さしむる」のが日本の場合は古代からの為政のキホン
であったわけで、為政を判断する基準も地域通貨が教えてくれてい
る(笑

しゃれたカタカナ語でひとを煙に巻くような人が多いですが、本を
読んで勉強などせずに、ふだんの生活のなかでひとつひとつ納得で
きるかどうか考えてみるのがよいですね。

講釈でメシ喰ってるようなエライ人はいつも目新しそうにみえるも
のを持ち出し、意識の落差を強調して人を導くふりをしますが、ま
あ商売にすぎませんし、タネは昔からあるものの焼き直し。

そうして同じものは欧州にもアジアにもありましたし、その意味で
、ふつうの民衆の日本語ででも理解できるもんですよ。

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市民、国民、世間、世代と言う言い方もありましたか。確かに何か
の意見表明を私が思う以上に言上げしたい時によくこういう言い回
しが使われます。他に社会とか市場とかグローバルスタンダードと
か
勿論、批判もできます。でも批判する方も思わず使ってしまいます
。民意とか                     徳永
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                森野
そうですね。結局、人はいろんな原理(考え方)をもちうるし、
実際それをもって現実に関わるわけですけど、そうなると、現実の
動きは、そうした諸原理の働く混交した実際になるわけで、そのな
かで、また、イデーを取り合い、交換し合い、闘い合うということ
になりましょうから、プルードンがいうようにそれぞれが政治秩序
についての先験的な原理(彼の場合は権威と自由という拮抗するそ
れですが)で議論し己が考えを表明し、現実を分析しようとしなが
ら、同時に政治秩序の多様な歴史的諸発現の詳細な分析に進むほか
ないのでしょうね。

彼が政治思想が最後に、折衷論と懐疑論に終わってしまう歴史の推
移を確認して、さてそのうえで、じぶんの原理を主張しようとする
、そうなると、多様な諸職能が調斉される彼の考えるアソシアシオ
ンの理解の仕方とよく似た位置にいたピエール・ルルーの多様性に
おける統一論としてのアソシアシオンの強調が全体論に映り激烈な
論争関係にたってしまうわけです。

そうなるとそれぞれの政治における神々の争いを続けながら、それ
ぞれに己が原理を実現しようとしながら現実に取り組むほかないこ
とになる。

そして現実の統治のなかで、それぞれが己が原理を適用し、推し進
めようとするとき、「そうした事実は不可能と思われるし、滑稽に
も思える。しかしそこではその言葉を用いるほかないのである」
(プルードン、第一覚書)ということになる。

そうなると、多義的な日常の言葉のなかに身を置く不確かさに耐え
るか、言葉を自分たちなりに神秘化し自分たち流のニュー・スピー
クに立てこもり、それを他に強制する行き方をとるかということに
なってしまう。

そうして後者の方々ほど、市民だの民意だのといい、権威の原理に
頼っていく。それが虚構にしかすぎない単なる情報であるにもかか
わらず、恣意的なその振る舞いの正当性の根拠としていく。そして
最後は思い上がった教皇の全知全能ominipapaleまで突き進む。

まったくかなわんなあということになるが、そう感じる者たちは政
治秩序に関する懐疑論、あるいは数々の折衷主義に耐えながら、
じぶんたちの出口を探すほかない。そのためにはやはり社会経済の
現実のなかに出ていくのほかないかなあ。

時代は変われど、人間の状況は変わらんということかもしれません。



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