3623.村邑



権藤成卿、『農村自救論』、公同の概念  森野
第七講 村邑

一、八種の天罪

 日本人は農業の民で有つた、故に太古に於て最も罪悪視せられた
るものは、農業を妨害することであつた、左記八種(やくさ)の天
罪(あまつみ)といふものは、古事記にも日本書紀にも、延喜式の
「大祓の詞」にも、古語拾遺にも、すべて古書といふ古書には必ず
記して伝へられて居るのである。
 第一 毀畔(あなはち)(阿那波知)とは、耕田の畔(くろ)を
        毀つこと
 第二 溝埋(みぞうめ)(美曾宇女)とは、灌漑の溝を埋むること
 第三 放樋(ひはなち)(斐波那知)とは、溝洫(こうきょく)
        の樋を放開して、耕田に溢れしむること
 第四 重播(しきまき)(志伎麻伎)とは、他人の耕種せる田に
        、重ねて種を播くこと
 第五 串刺(くしさし)(久志作志)とは、他人の耕田を冒認し
        て、自己の耕田の如くに標識すること
 第六 生剥(いきはぎ)とは、耕田に用ひる牛馬の類を虐待する
        こと
 第七 逆剥(さかはぎ)[六に同じ]
 第八 屎戸(くそへ)とは、新穀の祝典たる新嘗の祭日を汚すこと

 此八種の天つ罪が、日本人の最も初めに罪として認めたもので、
後に仏教の感化に依りて高唱せられたる殺生、愉盗、妄語、邪淫、
飲酒の五戒よりも、深く厳しく戒飭せられた所のものであつた。

 古神話に驚天の大変として伝へられたる、天照大神の「岩戸隠れ
」は、素盞嗚尊が此の八種の天つ罪を、悉くその一身に犯したるこ
とが原因で有つたといふことである。而して当時日本の政体は、
八百萬神の合議を用ひたので有つた。謂ゆる「八百萬神、天安之河
原(あめやすのかわら)に神集(かんずまりましま)して」といふ
は、是れである。

 是れは誠に自然である。人の生命、自由、財産、名誉に対する福
利は、奴隷の境遇にあるものゝ外、其人の得心なくして、他より侵
さるべき者でない。人は固より群居するものであるから、共存の必
要上、個人と個人との関係、並に集団と集団との関係に依り、規律
ある行動に出るのであるが、是れは各人の福利を犠牲にするのでな
く、その福利を保護するのである。各人の発言権を停止するのでな
く、その発言権を障碍なからしめるのである。日本国民の総員、即
ち八百萬の神には、貧の神も福の神も、凡べて、平等の発言権を以
て「天安の河原」に集まつたといふ神話は、純朴なる日本の古俗を
想像せば、如何にも斯くありしならんと首肯せらるるのである。

 農業的の国民(八百萬神)が、農業侵害者(素盞嗚尊)に対する
処置を決するために集会を開いた。是れは恰も自治の運用である、
自治を推し広めた協和制、一層適切にいへば国民投票であつた。

 我が神世の洪謨(こうも)は、全く此の如き自然の民性に?(さか
ら)はざる方針であつた神武天皇東征の詔に「蒙以て正を養ふ」と
あるのはそれである。此の詔の語は、周易蒙卦(しゅうえきもうけ
い)の衆伝を引いて、日本書紀の作者たる舎人親王(とねりしんの
う)の文飾せられたものではあるが、其意味は正しき神武天皇の詔
旨で有つたに相違ないのである。蒙以て正を養ふとは、蒙は童蒙で
ある、民性自然の発達を以て、童蒙の次第に智恵づくに譬へ、其の
啓発すべき時機には之を啓発し、其時機に至らざれば其儘に差し置
き、たゞ成るべく邪悪に陥らぬ様に、成るべく正しき心を養ふやう
に、之を指導して行くといふことを云ふのである。此詔を以て、我
が太古の皇謨を察すれば、決して或国の王者の如く、国民を以て私
有財産と同視し、生殺与奪たゞ王者の意欲に任ずるといふのではな
い。国民自体の機能をして、成るべく智恵と徳義の方面に進ましむ
べく、無干渉の間に静かに摂理せられたのである。

 けれども人民は、智巧の進むに従つて、太古の純撲をいつまでも
維持しては居らなかつた。既にして強者が弱者を併呑して、其福利
を?(うば)ひ去つたのである。是れ其詔の末文に「邑に君あり、村
に長あり、各自ら彊を分ち用て相凌轢す」とある所以である。天皇
には深く之を歎息せられて、竟に東征の御決行となつた。

2010年5月5日0:39 Eiichi Morino 


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