3622.護園学派の経世論



荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日)
 - 享保13年1月19日(1728年2月28日)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm
元禄・享保時代の社会的変動を思想面に於て最も痛切に受容して、
その時代的社会的な問題性と真正面から取り組まんとしたのは、徂
徠学である。それはまさしく時代の子であった。さればこそ、成立
と共にたちまちにして思想界を風靡し、他派を圧倒するの勢を示し
たのである。また同時に、時代の子たるが故に、この時代の含む矛
盾を自らの中に刻印しており、やがては没落すべき運命をも有して
いたといえよう。 

徂徠がその名声を獲得したのは、未だ朱子学者としての立場から古
文辞学を打ち樹てたときのことであるが、徂徠学としてのオリジナ
リティを確立したのは、享保二年の『弁道』及び『弁名』の二書を
以てであった。(中略)徂徠学は、一面彼のパ−ソナリティと密接
に結びついており、彼のパ−ソナリティは元禄精神の象徴であった
とも考えられる。とりわけ、その不羈奔放な豪快さが見られること
である。彼は、「熊沢(蕃山)の知、伊藤(仁斎)の行、之に加ふ
るに我の学を以てせば、則ち東海始めて一聖人を出さん」(先哲叢
談)と自負した。故に権門に服するを潔しとせぬ初期からの気風が
見られる。 

徂徠学はなによりもまず政治学たることを本質とする。一面からい
えばそれは、徂徠学が修身斉家治国平天下を標語とする儒教思想に
属することの当然の結果とも見られるが、他の一切の儒教に於ては
政治的なるものは最後的な帰結として現われ、出発点となるのは個
人道徳であるに反し、徂徠学では逆に「出発点」をなす。すなわち
、政治的価値は常に先行者の地位を占め、個人ないし家族の倫理的
な義務の履行という回路を経ないで、端的にその実現が求められた。 

彼は問題を二つに分けた。一は、機構の面、他は、これを具体的に
運営している人間の面である。そして彼は、この両面から社会病理
を追求した。前者について指摘した矛盾は、何よりも第一に、彼が
「旅宿の境界」と呼ぶところの武士生活の矛盾であった。(中略)
第一には、「旅宿ノ境界」からの武士の脱却をはかること − その
ために、武士は領地に帰り、土着して大規模に再生産に従事するこ
と、また戸籍を作成し「旅引」(旅行証明書)を発行して人々の移
動を統制することである。第二は、「礼法」を確立して、身分制度
を樹立すること。このことは「礼楽」に「道」を求めた徂徠の基本
哲学の具体化であり、徂徠学の本来的な思惟方法の発現であって、
しばしば誤解されるような「法家」的立場の現われでは決してない。 

徂徠によれば、朱子学がかかる観念的思弁に陥った論理的要因は、
「大極」を「理」としてこれに究極的価値をおくところの儒教的自
然法思想に胚胎する。理がいかなる時代にも、またいかなる社会制
度にも常にその根底に在って無時間的に妥当しているという考え方
、そかもその理は決して現実の社会規範ないし制度を超越せるもの
ではなく、それと必然的な牽連関係を以て、そのような規範に内在
するものである以上、かかる理の優位の破壊なくしては、制度的変
革を論理的に基礎づけることはできない。つまり「制度ノ立替」と
彼がいう場合、その担い手となるのは従来の制度のなかにある人格
ではなく、むしろ従来の制度ないし規範から超越した人格である。
つまり制度の客体でなくて、それに対し、主体性を有するような人
格の予想の下に始めて可能なのである。換言すれば、理の優位でな
く、いかなるイデ−をも前提しない現実的具体的な人格を基礎にお
くことにより、始めて無時間的な理の妥当性が破られうるのである。 

(『日本政治思想史講義録』1948 169-180頁 第七章 儒教思想の革
命的転回=徂徠学の形成) 

これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進
める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的
に生まれてくる。

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太宰 春台 
1680−1747 
延宝8年−延享4年    
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/shundai.htm

 信濃国飯田に生まれる。名は純、字は徳夫、号は春台・紫芝園。初
め但馬国出石の松平忠徳に仕え、辞して京都で朱子学を学び、のち
江戸に出て荻生徂徠の門に入る。私塾芝園を開いて教授。徂徠学の
経学の方面の代表的継承者。

主著は『経済録』『聖学問答』『弁道書』『春台文集』 

規範の客観化を説いた徂徠の主観的な意図は、聖人の道の現実的政
治的な意味を強調することにより、その社会的遊離を救済するにあ
ったといえる。ところが、このような規範を人間性から全く疎外す
ることにより、あらたな問題をもたらした。すなわち公的なものと
私的なものと、さらには、内的なものと外的なものとが分離され、
かつ無連関に併存するという事態が生まれたことがそれである。朱
子学的思惟批判の第三の帰結ともいうべき、この公と私の分離併存
は、春台において最も露骨に現れている。 

「凡聖人ノ道ニハ、人ノ心底ノ害悪ヲ論ズルコト、決シテ無キ事ナ
リ。聖人ノ教ハ、外ヨリ入ル術ナリ。身ヲ行フニ先王ノ礼ヲ守リ、
事ヲ処スルニ先王ノ義ヲ用ヒ、外面ニ君子ノ容儀ヲ具タル者ヲ、君
子トス。其ノ人ノ内心ハ如何ト問ハズ」(聖学問答、巻上)。
その主張は、例えば、「妻女を見て一念動く、未発の悪なり」とす
る佐藤直方の立場と完全に逆のものとなる。 

儒教の再建と徳川封建制の頑強な再建を心がけた徂徠学は、かく自
らの意図と相反する思惟傾向を帰結することになった。そこに徂徠
学の悲劇性がある。(中略)それは公的なものと私的なものとの分
裂からである。(中略)治国平天下の面を承継したのは、主に太宰
春台、山県周南であり、文学、歴史、詩歌の方を継いだのは、安藤
東野、服部南郭らである。しかも彼らは自らの継承した側面を徂徠
学それ自体として絶対化することにより相互に反目ぬするに至った。
そして春台の慨嘆にもかかわらず、優位を占めたのは後者、文人墨
客的方向であった。かくて危機意識は忘れ去られ、逃避的な文人気
質が支配的となり、さしも隆盛を誇った護園学派も急速に思想界に
おけるヘゲモニ−を失った。 

(『日本政治思想史講義録』1948年 110-111頁 第四章 初期朱子学
者の政治思想)  
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春台の『経済録』
http://www.geocities.jp/goromaru134/goromaru/seitoku11b.html
 春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼
の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「
経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、
第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、
第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻から
なっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項
、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。
 春台は「学政」で次のようにいう。

「学政というは、学術の政令なり。天下国家を治むるには、人才を
得るを先とす。人才は学問より出るなれば、天下の人に学問をなさ
しめて、人才の出る様にする政を学政という。‥‥およそ学政はた
だ人才を多く得るを要とす。人才は国家を治むる道具なる故なり」

では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それ
は、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台に
よれば、このような人物は学問をすることによって育成されるので
ある。だからこそ、学校という組織が必要なのである。

「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠
き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして
、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑う
ことあり。‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のこ
とをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教
えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたが
う、これ学問の益なり」

続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。

「今の世に、七八才以上の童子を師の所に集めて、物書くことを教
え、小謳を教え、今川状、庭訓、式目などを読まして、九九八算な
どを教える如くなり。‥‥さて十五にして大学に入りて、先王の礼
楽を学び、士大夫となりて朝廷に立つべき礼義を習う。‥‥総じて
中華の風は、古より今の世に至るまで、学問才芸によりて立身して
、庶民の子も爵禄を得て、富貴にも進むが故に、人々競って学問を
励むなり」

徹底した学問中心の人材論である。しかし、ただ学問だけではない。
「徳行才芸ある者」でなければならない。

 春台が学校教育によって養成する人材とは、学問と徳行才芸を兼
ね備えたものであったのである。そのような人物こそが、天下国家
を治めるにふさわしいことは、言うまでもない。
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http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%98%A5%E5%8F%B0

彼は,徂徠の農業を中心とした自給自足的な自然経済機構に立脚した
経世論を原則論としては認めながらも,商品経済原理によって動いて
いる現実を直視して,これに即応した藩専売制を採用し富国強兵を積
極的に図るべきだと説き,その理論的裏づけとして法家思想に同調し
た。この考えは海保青陵に発展的に継承される。倫理思想の面にお
いては,朱子学の心の修養をめざす心法論を否定し,外的規範として
の「礼」を極度に重視した。彼の異常なまでの「礼」へのこだわり
は、儒学を単に学問の次元に留まらず習俗の次元において受容しよ
うとすることの表れである。

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