3583.中島岳志著「ヒンドゥー・ナショナリズム」



中島岳志著「ヒンドゥー・ナショナリズム」
From得丸公明

皆様、

今月のテキストである「ヒンドゥー・ナショナリズム」読みました。
読みやすく、面白い本だと思いました。


この本が描いているのは、まだ20代後半の著者が、インドに出か
けて、旅の途中でたまたま出会った人々との交流を通じて、自分の
中でインドというものが現実の存在として意識されるようになった
ということではないでしょうか。

旅に出るまでは、新聞の記事を鵜呑みにするしかなかったけど、
実際に行ってみると、思っていたこととは違う、インドの日常があ
り、ひとつひとつの出会いが著者の中で、記憶となって、著者にと
ってのインド像がつくられていく。

だから、この本に描かれていることには、インドの真実もあれば、
著者がたまたま経験したこともあり、玉石混交だという印象をもち
ました。

若い著者だから、未熟な自分がたまたま体験したことを正直に言葉
にするしかなかったのだと思います。それはそれで微笑ましいし、
真摯な態度です。

しかし、読む側は、この本に描かれていることは、偶然著者が出会
って記憶したことがランダムに並べられているだけだということを
肝に銘じないといけないのではないでしょうか。

言葉を変えれば、彼は自分が見たこと、聞いたことを書いたけど、
自分が何を見ていないか、何を聞いていないかを知らない。
プロではなく、アマチュアな物書きが描いたインドではないでしょ
うか。

だからこの本には、ナショナリズムの定義もないし、彼が描いたRSS
が、どこまでRSSの実像に迫っているのかも、さっぱりわかりません。

食中毒や悪徳タクシーの話などは、RSSとは無縁な話のはずなのに、
さらりと同列に論じられている。

だから、この本は、日本人の若者がインドで自分を広げる作業をし
ていることを学ぶにはいい本でしょうが、インドの実像を学ぶため
には、著者が書いていることを、ひとつひとつ、どこまで当たって
いるかクールに判断できる目利きの専門家が必要だと思いました。

そのあたりで、小川さんの実感したインドとの比較を楽しみにして
います。

とくまる
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皆様

−1− 中島氏にとってのインド
中島岳志がはじめてインドで流血事件のあった町にいったときに、
あまりに平和なので、拍子抜けしたという話がありますが、僕も学
生時代にはじめて南アフリカにいったとき、訪問の数か月前に朝日
新聞にデカデカと掲載された発電所のテロの写真が生々しい記憶に
なっていて、あまりに平和な雰囲気に拍子抜けした記憶があります。

マスメディアが知らない国の話を紹介するのは、事件のときだけだ
から、その国について新聞から得られる知識は、異常な事件に関す
るものだけになるから、こんな間違った思い込みを抱くのだと思い
ます。その点で中島岳志は、正直に「がっかり」感を書いていると
思いました。

だから、この本から読み取れるのは、そういう若い人が外国につい
て「百聞は一見に如かず」ということわざ通りに、自分の見聞を通
じて、現実の記憶を獲得しはじめる導入部分なのだと思います。

この「拍子抜け」自体、はじめて外国の社会が等身大でリアルなも
のとして自分の中で成長を始めるという点で、とても大切な通過儀
礼かもしれないですね。

きっと中島氏の脳の中で、もっと多様で奥深いインドが育っていっ
ていることでしょう。と、そこまで考えてから、

もしかして、中島岳志氏も、若いときの未熟な記述であったと反省
して、新しい知見や補うべき知見を披露しておられないかと、中島
氏のブログを見に行ったところ、そこにあるのは、なんだかムゴい
コメントばかりで、ちょっと辛くなり、コミュニケーションするこ
ともあきらめました。

中島氏の意識の中で、インドはどう育っているのかということは依
然として、興味深いですが、確認できませんでした。

http://www.indo.to/log/nakajima/


−2− 僕にとってのインド:食人禁忌の実践のための菜食主義
僕は1997年に、インドの観光地ばかり旅して、興味を失ってい
たのですが、仏教塾のご縁で、3年前に南インドのティフパティと
、佐々井上人のおられるナグプールに行きましたが、このときは、
非常に面白い国だと感じました。

そのときに思ったことを、ひとつだけ。

南インドでは、三日間、三食すべて野菜カレーでした。ナグプール
でも、三日間、ずっと菜食でした。

すると、ニューデリーに戻ったとき、ランチで、なんでもいいから
肉を食べたいという思いがこみ上げてきて、食堂のランチで鶏肉と
羊肉を食べました。こんなに肉を食べたいと思ったことは、生まれ
てから一度もないというくらい、テーブルについたときに、肉を食
べたいと思ったのでした。

おそらくその思いは、南インドの人たちにも、いくぶんか共有され
ているのではないかと思います。というのは、菜食主義であります
が、とにかくたくさん食べるのです。

サリーという民族衣装はウェストを気にしないでよいせいか、明ら
かに太りすぎな体系なのです。これは肉食しない欲求不満を、大食
でごまかしているのではないでしょうか。(インド人に確認したわ
けではないですが)

すべての肉食は、人肉食の代償行為であるとみなされると、たしか
レヴィ=ストロースも書いていました。
インド人は、食人のタブーをなんとかして避けるために菜食主義を
実践しているのかもしれません。

とくまる
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皆様、小川さん、

インドに詳しい友人に、RSSのカースト否定とこの本についてのコメ
ントをもらいました。
どこまで当たっているかわかりませんが、ご参考まで。

以下、インド研究者のコメント:

この本は、(当然でもありますが)日本人の視点、また、日本人に受ける視点で
書かれていますね。存在論的意義とか。日本の若者とインドの若者が共通に感じ
るであろう悩みとか。そういう面は確かにあるとは思いますが、インドの文脈は
少し違うところもあると思います。

ヒンドゥー・ナショナリズムをやや好意的に描いていますね。もう少し問題点も
強調したほうがよいと思います。

コンパクトにまとめているのは、評価できます。


(カースト否定というのは本当ですか?という私の質問に答えて)
カースト否定は建前ですよ。RSSは上層ヒンドゥーや中層ヒンドゥーに支持が多
いです。下層ヒンドゥーはさほど支持していません。ヒンドゥーはカーストなど
によって分断されていなくて一体感があるということを強調したいのでしょう。

(ヒンディー語とヒンドゥー教の区別をすることは必要です。)ヒンディーは北
インドを中心に話されている言語でインドで最も話者人口が多いです。しかし、
中国における北京語のような圧倒的な地位はなく、各地方には、ベンガル語、タ
ミル語などのように有力言語があります。
ヒンドゥー教は、インドの約8割の人が信じています。北インドだけではなく、
インド全域にわたって満遍なく信じられています。

以上

とくまる
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皆様、小川さん、

「ヒンドゥー・ナショナリズム」、ややけなしすぎたかと反省して
います。後半の分析的なところ、文明論的なところは、かなり駆け
足で読み飛ばしていたのですが、今朝あらためて読んでみて第4章
、第5章は結構おもしろいと思いました。

イギリスによる植民地支配下で、ヒンドゥー教が分断統治のための
記号として使われたり、いろいろな改革運動がすべて失敗したりと
いうあたり、最初は、「宗教にとっては負の歴史だ」、「改革運動
の意味はないではないか」と思って軽く受け流していたのです、実
は。

しかし、もともとアーリア人が持ち込んだ宗教自体が、侵略民族の
階級差別を正当化するためのものであったということを思い出して
、インドはアーリア人とイギリス人との二重の植民地支配のもとで
苦しむようになったのかと、ちょっと考えてみました。

ムスリム支配であったムガール帝国の時代に、ヒンドゥー(教徒?
)あるいは庶民はどのように暮らしていたのだろうか。イスラム教
徒の間には、階級の問題はまったくないのだろうか。カーストめい
たものがあるのでしょうか、疑問がわいてきました。小川さん、何
か聞いておられますか。


それからさらに、カーストによる階級差別や、植民地支配の分断統
治の戦略のもとでも、それでもインド的な生き方というものが綿々
と続いてきたこと、むしろそのことに意味があるのではないかと思
い始めました。第5章でビジネスマンが、引退して、サドゥーにな
る話が出てきます。これはその一例です。インドの本覚というので
しょうか。聖地インドの生き方というのでしょうか。誰がどのよう
に支配をしても、変わらない部分として、インドの霊力をもつ土地
(ゴンドワナランドの一部)に根差した、地霊が生む思想が脈々と続
いているのでしょうか。

お釈迦様が悟りを開いてから45年間、転々と場所を移動しながら
托鉢を続けて活動したこと、ガンディーの姿や言動、要するに貧し
く生きるのが人間の生き方として正しい、動物に近づいて無一物で
暮らすことが正しい、そういう人生観が21世紀のインドにも続い
ているのでしょうね。

環境破壊で世界経済が奈落の底に落ちようとしている今、もしかす
ると、それはもっとも進んだ生き方かもしれません。

そのあたりのところ、小川さんがご覧になってどう思われたかを、
ぜひとも聞かせてください。いろいろと思いつきを発信して失礼し
ました。

得丸
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得丸さん

私もこの本の第4章が一番面白かったです。
私の知るところを書いてみました。

1.”イスラムに階級のようなものがあるか”: イスラムではア
ッラー全知全能で天地万物の創造者、支配者であり超越者です。
「アッラー以外に神なし」と信じます。アッラーの前では万人平等
です。 キリスト教の「神の子」のような存在も認められません。
マホメットも神の使徒です。 すべてが、コーランにおける神の啓
示によって決まり法律=規範からはじまって、何から何まで、社会
のすみずみにいたるまで行動を規制しています。現実の社会で貧富
の差はあっても神の前では皆平等です。従って富める者が貧しい人
に喜捨を与える社会(原理主義のもとめるとこる)となっているの
です。

2.私が知ったインドのヒンドゥー人たちの考えが、根本的に私と
違うと感じられたのは、いつも「ダルマ」を果たすという日常生活
があるからだと思いました。この本のP12に”「ダルマ」とは社会秩
序を保つ規範、宇宙の秩序を保つ真理、全宇宙の根底にあるものを
意味し、さらには宗教、宗教的義務・行為、人倫を保つ善、徳など
の意味をも包みこんだ概念である。”と説明しています。この当り
は植民支配したイギリス人にも手に負えない部分なのでいわゆる
「ウチ」の概念として干渉しなかった部分ではないかと思います。

3.サドゥー:私は、未だ出会っていませんが、インドの国内線で
サドゥーらしき聖者がファーストクラスに乗っているのを見かけた
ことがあります。インドでは特別扱いされているのだと思います。

小川
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小川 さん、

宗教について、いくつか、思いついたことを書きます。

−1−
橋本治の「宗教なんてこわくない」という本には、「宗教はイズムである」、つ
まり、自分でものを考えて生きていくことができない人たちのために、生き方を
提供するのが宗教であるといったことが書かれていました。

しかし、すべての人類にとって、生まれながらにして、自分だけで考えて生きて
いくことは難しいというか、不可能ですから、家族や共同体の価値観、生き方を
宗教の形で、自己の行動規準として取り込んで生きていくしかない。宗教は、
「タブラロサ」(白紙)状態で生まれる人間にとって、過ちを犯さないで生きて
いくための、基本ソフトウエアのようなものかもしれません。

とくに近代までは、どこの国においても、宗教は国家的な制度の一部だった、今
よりもずっと重要な役割を果たしていたのかなと思います。

−2−
ヒンドゥー教をウィキペディアでみると、仏教より後になって生まれたことに
なっていますね。バラモン教が、土着的な考えを取り込んで、仏教に支配された
インドを宗教的に失地回復するために、ヒンドゥー教に生まれ変わったというこ
とでしょうか。仏教とヒンドゥー教の違いは、カーストの有無くらいなのかな?
 ヒンドゥー教の歴史と実態は興味深いですね。

−3−
一方のイスラム教ですが、一神教であり、教義がある。

イスラム教は偶像を否定する。インドの彫刻には、顔を削がれたものがいくつも
ありますが、ムスリムが破壊したのだということを聞いたことがあります。

たとえ自分の宗教が偶像を否定しているからといって、他の宗教の像を壊すとい
うのは、どういう心境だったのでしょう。もっと鷹揚にかまえてもよいようなも
のを。 教義をたてにとった集団ヒステリーみたいなものだったのでしょうか。

タテマエとホンネのような使い分けは、イスラム教にもあるのでしょうか? あ
るいは、キリスト教の懺悔のようなものは、あるのでしょうか。

とくまる
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小川さん、

仏教はヒンドゥー教の一部という扱いになっているのですね。

「ブッダは、ヒンドゥー教で世界を維持する神様ヴィシュヌ神の9
番目の化身として、ヒンドゥー教に取り込まれています。」
ということを教えてもらいました。

しかし、カースト制度を否定する部分は、認めてないのでしょう。

後からできた宗教の強みですね。

得丸
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・イスラムの偶像破壊について:

イスラム教の特徴の一つに偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。
ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているが、イスラム
教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は、当然破壊
するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くことは、もっ
てのほかです。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外の
ものを拝むことになるため、一神教の教義に反するのです。
 
 ムハメッドがメッカ征服のおり、カーバ神殿に祭られていたアラブ
の多神教の神像を全て破壊した。ムスレム達は空っぽになったカー
バ神殿に向って唯一神アッラーに礼拝していることになるのです。
 
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-44.html
 
現実にはスフィンクスの鼻も兵士たちのヒステリーで破壊されてい
るようですが、自責の念は全くなく、どこかの国のようにすぐ謝罪
することもないようです。
 
・イスラムに懺悔はあるか?:
 
懺悔はタウバといってスーフィーの聖者の六信五業のお勤めの一つ
になっています。
聖者は神に近い人間であり,神と人間の仲介者として,ウラマーの
なし得なかった罪の赦(ゆる)し,救い,現世的利益などを神にとり
なす。
聖者は神から特別の恩寵を与えられるが,それがスーフィーの行う
カラーマート(奇蹟)である。
聖者にとっては他人の心の痛みや喜びが自己の痛みや喜びであり,
彼らの活動は利他的,すなわち悩める民衆の精神的物質的救済に対
する無償の奉仕となる。
聖者は人々の苦しみや悩みを取り除き,願いごとをかなえてやるた
めに最善をつくし,そのためにさまざまな奇蹟を行う人
人々は神を知る聖者は奇蹟によって自分たちの願いをかなえてくれ
ると信じた。
 
スーフィー志願者は、まず神に対して従来の世俗的欲望に満ちた生
活習慣や今まで犯した罪に対する全面的な悔い改め(改俊)を行わ
なければならない。と同時に、今後スーフィーとしての禁欲的な生
活を送り続けることを誓う。いわばスーフィーとしての新生のスタ
ートである。自らの意志でスーフィーを志願する場合もあるが、今
までまったくスーフィーと関係のなかった者が、霊夢やある種のヴ
ィジョンを体験することによって回心し、入門することもあるとい
う。また、入門後、もし誓いを守れなかった場合は神に許しを請い
、再度スーフィーとして生きるべく決意表明する。有名なスーフィ
ーの中には70回悔い改めたのち、やっと永続的な回心を遂げた者も
いるという。
 
 http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sufi_kaitei.html
 
 昔、イランプロジェクトをやっているときにイランのミッションが
20名ほど東京に滞在して歓迎パーティをしたことがありましたが、
建前上オレンジ・ジュースで乾杯しました。その後ホテルへ送ると
、自分たち同士で部屋に集まりリーダーがウィスキーを飲み始める
と皆安心して飲み始めたとのことです。
外国でのできごとと懺悔したのでしょうか?どうやって神に説明し
たのか分りません。
 
唯一神と多神教の神々について少し述べたいことがありますので後刻。
 
小川眞一
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皆さん、

RSS(民族奉仕団)、 VHP(世界ヒンドゥー協会)とBJP(インド人民党)の関係は、
創価学会と公明党みたいなもんですね、と何度か繰り返されたのが、妙に説得力
のある説明でした。(VHPは創価学会インターナショナルにあたるのでしょう)

また、インドには武道がなく、日本には武道が生まれたのは、いったいどうして
なのかということも話題になりました。武道は世界でも日本にしかないもので、
日本もなかなかの聖地なのかもしれません。

中島岳志のテキストは、ナショナリズムの定義もなく、やや物足りないものでし
たが、報告者と参加者が2時間以上の議論をして、十分に楽しめるものでした。
本だけ上っ面を読んでも、なかなかたどりつけないインド社会、インド宗教の現
実に、少しだけ近づいた気がします。

岩村さんが朝日コムから、インド大使の講演録をおもちくださりました。片付け
の時間になってしまったので、会場では目を通す時間がありませんでしたが、今
朝読みましたが、なかなかおもしろいことが書かれています。それにしても、こ
の大使は、詩人ですね。

8年前の講演ですが、地球環境危機とインドの経済発展とが、別々の現象として
語られているところは、8年間の時差を感じます。

この8年間で若者の無関心や無気力はますます高まっており、自殺も欝も増えて
いる。(若者かどうかはわかりませんが、昨日は田園都市線と東海道線で飛び込
み自殺がありました) 一方で環境破壊はどんどん深刻化し、世界経済もなにや
ら破局の局面をみせている。

こんなときこそ、ゴンドワナランドとユーラシア大陸の接点であるインドの大地
が生み出した思想の役割が重要なのかもしれません。

得丸公明

以下は、岩村さんがお持ちくださった朝日コムのHPです。(切り抜いたのは、僕
が面白いと思ったところです。全体面白いので、時間のあるかたは全体をお読み
ください)

http://www.asahi.com/international/aan/hatsu/hatsu021031.html

約2400年前、仏陀の時代とその前に現れたインドの思想家は、潜在意識の神秘を
解明することに積極的に取り組みました。結果は、命を持つものも持たないもの
も同じ命の力に溢れ、故に全ての自然、山や川、石、動物、植物、そして人間が
お互いに調和し共存していかなければならないというものです。このコンセプト
は古代日本の神道の信仰とも共通です。
また、ヒンズー教の伝統と神道の伝統は、どちらも多元的であり、教義、教理、
そして絶対的な真実の主張の余地がないのです。古代の日本では、物質と精神と
存在は切り離す事ができませんでした。インドでも、全ての現象と世界中の人間
に対する普遍的なアプローチがあります。

現職の大統領も、貧しい漁師の一家の出で、その家族は、イスラムに転向してい
るような、そういう出身の人です。だからこそ、ヒンズー教もわかる、イスラム
教もわかる、そして傑出した科学者であるということでもあります。2代連続
カーストの一番低いところから大統領が生まれる時代ですから、カーストという
のは現実の問題ではないと思っております。

5000年の長い歴史の中で他国を攻撃したことは一度もない。そういった歴史
を誇れる国は世界でもなかなかないと思います。
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http://www.ohyamato.jp/ohmotomiya/pdf/oymt201003.pdf

今日、松本さんが訪問しておられる大倭紫陽花邑の機関紙である
「おおやまと」の今月号に、法主さんが仏教のことについてお話しに
なられた法話(昭和39年3月23日)が紹介されています。

インドの仏教も日本の神道も、結局全部一つのものだ、だから
日本ではそれらがひとつにとけあったのだということが語られて
います。

そして、企業経営のように利益をめざしている現在の日本の宗教
団体は、完全に間違っているということも。

法主さんのお話は、どれもすばらしいと感じますが、今回のものは
日本とインドのことについて議論した翌朝にはもってこいの記事だ
と思いますので、ご紹介します。

とくに、「霊界には民族も国境もない。

地球そのものが元々は霊魂だったんです。物質ではない無形の
ものなんですね。そこから有形の物質というものに変化してきた
のであって、その根本はすべて霊魂なんです。人間でも、心が
先で肉体が後なんです」というあたり、

DNA/RNAなどの分子レベルの生命活動の不思議さともつながる
お話だと思いました。

得丸公明
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アフーブセット駐日大使の話は、2年ほど前に明治神宮での講演
を聴いたことがあります。その時どういう関係か頭山満の孫という
人が同席していました。
母国語はヒンドゥー語なるも英語、日本語のほかベトナム語、ドイ
ツ語、インドネシア語、フランス語にも精通すると紹介あった人で
す。 交換留学中に慶応大学で日本語と日本史を学んだようで日本
文化にも憧憬深い話があって驚きました。おそらく鈴木先生にもお
会いされているのではと思います。

小川眞一


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