神話学から見た、破壊と維持と創造 虚風老 インド神学では、ヴィシュヌ派とシヴァ派というものがある。 (もちろんこれはそれを信奉する基盤の人々の経緯が違うからじゃ けど) かなり単純化された見方ではあるが、シヴァが「破壊と創造」とい うことに重きをおいた神であるとすれば、ヴィシュヌは「維持」 (変容)の神ともいえるじゃろう。 維持(存続)といっても、それは単純な維持ではなく、ヴィシュヌ が十態に変容するように、存在の変容を通しての世界観が投影され ておる。 それを極度に原理化すると創造と破壊に行き着くともいえる。 世界が創造−維持−破壊−再創造という<円環>として考えられて いた時代は長いし広くの場所にあった神秘思想の中核でもあった。 キリスト教以降では創造−維持−最終末という直線になってしまっ た。これは近代においては「進歩」という概念に結びつく。 シュンペーターが資本主義に必要のものとして創造的破壊をあげて いるが、社会的にもこの創造−維持−破壊−再創造というのが必要 であるといえる。 (また、いのちもこの再循環過程を踏んでいるといえるじゃろう) しかし旧体制(体制とは維持しようとする力に他ならない)が強い とそれを破壊しようとする力との間に莫大な闘争とエネルギーが必 要になる。 西洋ではルネッサンスから近代化までに多くの破壊−創造が行われた。 日本では、この近代化は西洋から結果だけを「仮借」してくればよ かったので、明治維新は短時間での破壊と創造(実は西洋の文物制 度の仮借)を、すみやかな変革としてとりいれることができた、 これは「維持しようという勢力」が「破壊−創造しようとする勢力 」に対して合同での協力という形をなしたからである。 現在世界はパラダイムシフトと呼ばれる、破壊と創造の過程にある といえるじゃろう。 しかし、不足しておるのは、<創造するための力>である。 <維持しようとする力>はいつも働くし強い。しかしそれらは常に 内部矛盾が故に自己崩壊過程にあるのじゃ。それらがグズグズにな ってどろどろの状態から新しい体制に立ち直るか、意思的に「創造 」の方向へ脱皮していくのかが問われている。 世の賢者達は以前から、「環境」をキーワードにして、その方向を 示してはいる。しかしそれをするためには現状の構造(権力や産業 の仕組み、制度や金の流れ)を破壊することにもなる。誰も自分達 の存立基盤が壊れることを望まないし。また、ありもしないものに 懸けることは不安であるのはあたりまえじゃろう。 しかし、確実に自己の基盤が崩壊していく足音だけは気がついてい るという状態なのじゃ。 それゆえに塞がりと不安を覚えている。 できることなら、今のままを維持し、しかも未来も大丈夫だと言っ て欲しいんじゃろう。 しかし、もう誰の目にも行き詰まりが見え、落下する滝の音が近づ いてきているのが聞こえてきた。 必要なのは<創造>である。 そしてそれに至るためには、旧体制の破壊は避けられず、それを最 小限の破壊ですますには、維持派の人々が<創造>に協力し、自ら 立ち向かうしかないのである。 それ、人々よ、創造へ飛べ。 虚風老