3536.甦る賀川豊彦の平和と協同



伴さんの講演会が1/31にあり、賀川豊彦の生涯を講和いただい
たが、疑問符は、日本人として始めてノーベル平和賞、ノーベル文
学賞候補になった賀川さんが、なぜ、日本では忘れられているのか
とうことである。

賀川は牧師として、神戸の貧民街で布教と支援をした。米国の宣教
師に認められたが、戦後、賀川の名声は日本ではなくなっている。

労働運動や協同組合でもキリスト教として活動したが、戦後共産主
義・社会主義がこの分野に出て、賀川とは違う方向に向いてしまい
、このため、リベラル派は無視し、保守からは、労働運動として見
られて、こちらからも無視されたことで、賀川は忘れ去られたよう
である。

しかし、キリスト教精神として、米国・欧州では賀川の評価が高い。
それがノーベル平和賞や文学賞候補になった理由であろう。

「彼の生涯はアッシジのフランシスのように数奇をきわめ、聖パウ
ロのように波乱に富んだもの」として紹介されている。

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世界人・賀川豊彦の秘密 『文藝春秋 増刊』昭和26年4月25日号

不肖の弟子二人
今から三十何年か前のことである。
教会―といっても、ただ貧民窟の中のあばら屋に少し手を加えた程
度で、見すぼらしい姿をした人々が三、四〇人、木のベンチに腰か
けているだけだ。
その中から学生服をきた二人の若者が前に出て、牧師―といっても
、よれよれの服をきた貧相な青年の手によって、型通りの洗礼をう
けた。その学生の一人で丸まっちい赤ら顔をしたのが、後の商工大
臣水谷長三郎で、もう一人の紅顔にして純真な美少年が、ありし日
の私自身である。そしてその青年牧師は、最近の「リーダーズ・ダ
イジェスト」で「彼の生涯はアッシジのフランシスのように数奇を
きわめ、聖パウロのように波乱に富んだもの」として紹介されてい
る賀川豊彦である。
現在の水谷にしても私にしても、およそイエス・キリストとは縁の
ない存在で、いわばイエスでなくてノー・キリストの典型である。
恐らく主イエスさまの眼からみれば「迷える羊」どころか、実際は
その羊を喰う狼で、救いがたい異端者かもしれない。しかし私たち
の過去には、殊勝な心がけで神の御前にひざまずいた時代があった、
というよりも日本の思想運動、社会運動の或る時期には、私たちの
ようなものでさえも、その中にまきこまずにはおかなかった、強い
大きな流れがあった。そしてその流れの中で主役を演じ、最大の影
響力をもっていたのが賀川豊彦である。その後時代の移り変わりと
共に、かれの演ずる役割の質も変わってきているが、戦後かれはま
た「時の主役」として世人の前に大きくクローズ・アップされてき
た。
先だって私は水谷に会ったとき、どちらからともなく、「どうだ二
人でバケツに水を入れて賀川先生のところへ返しに行こうじゃない
か」ということに話はまとまったのであるが、それはまだ実現して
いない。水谷も私も神に背いてすでに久しい。せっかく頂いたお水
ではあるが、この際お返しをするようなつもりで、かつての恩師で
ある賀川豊彦をあげつらうための筆をとった次第である。

 アメリカにあるカガワ・ストリート
 
アメリカのどこかの新聞で、日本人の人気投票をしたとすれば、戦
前においても戦後においても、トップはもちろん賀川豊彦であるば
かりでなく、二位との間にたいへんな開きが生じるのではあるまい
か。その点で吉田ワンマン首相などは問題にならぬだろうと消息通
はいっている。アメリカにおける対日感情の変化にともなって多少
の変動はあるにしても、アメリカにおけるかれの人気は、内地にい
てはちょっと想像もつかないものらしい。ガンジーなどと共に東洋
の代表的聖者の中に数えられ、かれの生涯や事業を紹介した著書は
、何十種といって出ているということだ。賀川豊彦という一日本人
の存在が、アメリカ人の眼にどう映じているか、私が直接間接耳に
して覚えていることだけをひろってみても、ざっとつぎの通りであ
る。
賀川はすでに何回となくアメリカに行っているが、かれがアメリカ
でもっとも歓迎され、また最大の影響を与えたのは、昭和十年の第
四回目の渡米であろう。
それはアメリカで基督教と社会運動を結びつけた先駆者といわれる
ラウゼンブッシュ[注記ラウシェンブッシュ]博士の記念講座から
の招待という事になっていたが、アメリカの国務省、各州知事、そ
の他公共団体が、賀川の協同組合運動の理論と経験について学ぼう
というのだから、全く国賓待遇であった。その前に賀川の「死線を
越えて」「一粒の麦」等が訳されて広く読まれていた。

まず桑港について上陸の際、かれのトラホームが検疫医に引っかか
って危く上陸禁止になりそうになった。サンフランシスコ市長は狼
狽して、直ちにワシントンの労働長官に打電するやら、大統領の特
別許可をえるために特使が飛行機で派遣されるやらで、大騒ぎの結
果、人に会ったら握手の代りに自分の両手を握りあわせるというこ
とで許された。
かくてかれは全米各地を講演して歩いたが、ボストンでは、新聞は
「小さいけれど大物の賀川が来た」という大見出しをかかげた。オ
ハイオ州のクリーブランドでは、賀川が入場すると全聴衆が起立し
てかれを迎えた。こんなことは、国旗掲揚の場合を除いては、あま
り前例のないことだという。
昭和六年の第三回渡米の際は、まずカナダのトロントで講演したが
、その聴衆の中にはカナダの総理大臣までが加わり、翌日の新聞は
「トロント始まって以来のセンセーションを起こした」と報じた。
ロスアンゼルスの近くには、カガワ・ストリートというものができ
ていた。
戦後湯川博士を教授に迎えているプリンストン大学は、昔賀川の学
んだところであるが、教室にも寄宿舎にも「賀川の室」が記念とし
て保存されている。
バークレーの賀川豊彦後援会長をしているハンター博士は、プリン
ストン時代の賀川の同級生であるが、晩餐に招待された賀川がその
家に行くと、夫人は眠っている愛嬢をゆり起こしていった。「この
方と今日握手して頂いたことを一生忘れるのではありませんよ。」
戦前アメリカの大学では「賀川研究」という講座がいくつかあって
、これを卒業論文のテーマに選ぶものも、一時は毎年何十人も出た。
そして中にはそのために日本へ留学して、直接賀川の教えを乞い、
かれの事業を研究するものも何人かいた。A・C・クヌーテンの
「日本社会史より見たる賀川豊彦」[邦訳『解放の預言者』]という
のは邦訳も出ているが、この論文はカリフォルニア大学[注記 南
カリフォルニア大学]に提出して博士号を授けられたものである。
戦時中アメリカの日本向け放送で「連合軍が勝利の暁には、賀川は
総理大臣となってアメリカに協力するであろう」といったのは、日
本人にはあまりピンと来なかったが、アメリカにおけるかれの人気
というものをたいていの日本人は知らないからである。かように賀
川の認識において、賀川を生んだ日本と、かれを大きく評価してい
るアメリカとの間には、大きな喰いちがいがあるのである。
この喰いちがいは、いったいどこから生れたのであろうか。それを
追求することは、日本人自身と日本文明そのものを、アメリカとの
比較においてもっとよく理解する道でもあるわけだ。


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