3528.『沈黙』の序曲としてのナガサキ原爆投下



『沈黙』の序曲としてのナガサキ原爆投下

きまぐれ読書会案内    高瀬毅著「ナガサキ 消えたもう一つ
の『原爆ドーム』」     平凡社2009年1600円

皆様、昨日の東京は暖かかったですね。

今週の土曜日の午後、日比谷で別の勉強会「おつなの会」というの
があって、そこで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」
を書いた高瀬毅さんのお話を伺うことになっています。(興味のある
方おられますか?)

この本は、浦上天主堂の廃墟が、戦後13年目に取り壊された事件の
背景を取材したノンフィクションです。

長崎市は1955年12月7日(真珠湾攻撃の日)にミネソタ州のセント
・ポール市と姉妹都市になり、その関係で田川市長が単身アメリカ
を訪問したところ、それまで浦上天主堂を保存するという意見だっ
た市長が、何故か取り壊しすべきという意見に変わって帰ってきた。
そのため、ヒロシマには原爆ドームがあるのに、長崎には原爆の遺
跡が残っていない。

著者はそのあたりの事実を追いかけていますが、なぜ田川市長の意
見がコロリと変わったのかというところは、解明しきれていません。
鬼塚英昭さんの「原爆の秘密」を読むと、長崎には県知事や役人用
の立山防空壕というものが昭和20年3月にすでに出来上がっていて、
原爆投下時、知事以下の役人がみんなここにこもって難を逃れたと
いうことが書いています。(これは高瀬さんは触れていない)
広島同様に、長崎もあらかじめ決まっていたのだということでしょ
う。

しかし、なぜナガサキだったのでしょうか。なぜ、田川市長が浦上
天主堂取り壊しへと意見を翻したのでしょうか。
これはあくまで思いつきで推測というより邪推といわれてもしかた
ないくらいの考えですが、昭和天皇はキリスト教の霊力を試したの
ではないでしょうか。つまり、遠藤周作の『沈黙』のように、敬虔
なクリスチャンが苦しむときに神は沈黙しつづけるのか、それとも
奇跡を起こして信徒を救うのかを、プルトニウム型原爆を使って実
験したかったのではないでしょうか。結果は、残念なことに奇跡は
起きず、神は沈黙を守った。「俺と大差ないわい」と思ったかどう
か。
アメリカで田川市長は、ナガサキ原爆投下が昭和天皇の大御心であ
ったということを知らされて、浦上天主堂取り壊しに同意したので
はないでしょうか。実はこれも昭和天皇の実験の中に含まれていて
、十字軍として世界を民主化するとのたまっているキリスト教国ア
メリカが、日本のカトリックの本山の上で大量破壊兵器を使用して
罪のない人々を何万人も殺戮したとき、いったいどのような態度に
出るのかということを観察しておられたのではないでしょうか。つ
まり、素直に過ちを認めて謝罪するのか、それとも証拠を隠滅して
歴史を隠蔽して頬かむりするのか。結果的にアメリカは後者を選ん
だわけで、それをお知りになられた天皇は、キリスト教徒はこの程
度かとほくそえまれたかもしれない。

原爆は重たいテーマです。我々がこの手の話題をできるのは、一昨
年の合宿で鬼塚さんの本を読んだからです。そうでないかぎり、話
がまったく続かないくらい、日本人の概念体系から逸脱している話
だと思います。

とくまる

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