3519.古代史の整理



天智天皇までの時代は朝鮮半島での戦いに大和朝廷も大いにかかわ
ったことが、朝鮮半島の古墳や遺跡から判明しだしている。そして、
「古事記」や「日本書紀」の記述が朝鮮半島との関係では大和朝廷
の見方としては正しいことが分かる始めている。この視点は今まで
の古代史ではなかった。

このため、古代史をもう一度、整理する必要がある。なぜ、日本人
は、日本的に考え、日本にもっとも近い韓国の人たちとも違う考え
方をするのかの不思議が解けると見る。

基本的に、最初に日本に来た縄文人たちは、台湾の高砂族に属する
人たちで、この人たちは小船で海流に乗ってきた。その後、弥生人
が朝鮮から来たが、この人たちは農耕文化の人たちである。呉服を
来ていたことから、揚子江流域に住んでいた人たちが、北から農作
物を奪いに来る騎馬民族の攻撃で、騎馬が泥濘で入れない黄河の低
地帯に逃れて、その後、山東半島から朝鮮に渡ったことが分かって
きた。

しかし、この朝鮮に扶余が北で滅亡して、その貴族が百済を起こし
朝鮮半島に南下してくる。この騎馬民族に追われて、騎馬が通りに
くい山の中に逃げたのが伽耶である。伽耶の遺跡では名前が非常に
日本的であり、倭の集団がいたことが認められている。

しかし、この伽耶も百済と後に出来た新羅の圧迫を受けて、移民が
日本に大量に出てくる。最初に領地化したのが出雲である。出雲は
伽耶系である。伽耶は首長国連合であり、首長国ごとに日本各地に
入植してきた。伽耶の一派は三輪山に来たのであろう。三輪の卑弥
呼は、伽耶系の首長国連合の長であったように感じる。鬼道の道教
であったと記述されている。

百済も遅れて日本に来る。このため、九州北部は伽耶系のために、
百済は葛城に来る。百済は騎馬民族であり、平地では強いために、
奈良・大和全体を平定する。この偉業を神武天皇は成し遂げる。

三輪は出雲と伽耶系同士であり、連帯して、この百済系の王朝を倒
す。それが崇神天皇である。ここに三輪王朝ができる。伽耶系の道
教と縄文人や百済系の太陽信仰をミックスした信仰の神道を作る。
伽耶の鉄を出雲、日本海経由で大和に運んだ。

葛城系の応神天皇、仁徳天皇が再度王朝を奪い返して、百済と結び
貿易で日本を活性化させようとして、瀬戸内海航路を開き、河内王
朝を開くことになる。その後、新羅が半島で強くなり、伽耶系と百
済系が連合しないと新羅に対抗できなくなってきた。

継体天皇は、葛城系の応神天皇5世の孫であると同時に、母が伽耶
系の越前国出である。百済系と伽耶系の融和が必要になり、継体天
皇が即位したのであろう。ここからは現代まで繋がる継体王朝であ
る。このため、伽耶系の三輪と百済系の葛城の中間である飛鳥に都
を置くことになる。

伽耶は滅亡するために、大和朝廷に蘇我氏が出て、百済、一辺倒に
なるが、飛鳥の蘇我氏の方針とは違うために斑鳩に移り、聖徳太子
は先を見通して新羅とも外交を通じて、日本を百済と新羅の中間に
置こうとした。直接、隋に遣隋使を送る。

その後、孝徳天皇は、百済より新羅に寄り、百済系が多い飛鳥から
難波に都を移す。しかし、新羅の使者が唐風の姿をしていたことで、
再度、皇極天皇が重祚して斉明天皇になり、百済重視政策に戻り、
白村江で唐・新羅連合軍に大敗する。

ここで、天智天皇は豪族連合体の日本から、中国風の律令体制に日
本を変えようとするが、豪族との軋轢を大きくしないことで、中途
半端な改革になっている。これが平安時代に貴族文化を生むことに
なる。

また、新羅が朝鮮半島を統一して、日本は朝鮮情勢に国内政治が左
右されなくなる。


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