3513.難波宮と斑鳩



12月29日から1月1日まで難波宮と斑鳩、奈良に行きました。
                 Fより

今回は、4世紀の応神天皇が開いた河内王朝の仁徳天皇と、後の継
体天皇が開いた飛鳥王朝で645年、難波に遷都した孝徳天皇の宮を調
査するためと、飛鳥王朝の聖徳太子を調査するために、大阪と奈良
に青春18切符で行った。

1.背景
継体天皇の居た越前は、冠などから伽耶文化が色濃いことが知られ
ている。皇極天皇時代に蘇我氏を乙巳の変で滅ぼして、百済との同
盟関係を否定して、新羅との関係を構築するのが孝徳天皇である。

伽耶は562年に新羅に併合されるが、新羅は伽耶の1国である安羅が
慶州に起したので、新羅としたとある。というように倭に近い。百
済は扶余であり、騎馬民族である。倭人とは違うが、中国との交易
や仏教文化の習得のために、百済に近づいている。攻撃的な神武天
皇は百済系であり、三輪を地盤とした卑弥呼を中心とした宗教的首
長国連合の倭は伽耶系である。

237年崇神天皇が百済系の葛城王朝から神道という新しい信仰の力で
天皇を奪い返して、伽耶系の三輪王朝を築く。神道は中国の道教と
縄文人たちの太陽信仰を合体した宗教として確立した。この時代は
新羅と伽耶は同族と言う意識があり、新羅から秦氏が渡来している。
この秦氏が神道の稲荷神社と八幡神社を作る。

応神天皇は百済との関係を取り戻すべく、葛城系(百済系)の王朝
にする。仁徳天皇はこの河内王朝の中興の祖であり、世界最大級の
前方後円墳を作られるし、非常に仁政であったと書かれている。
この仁徳天皇陵を暴けば、日本人がどこから来たかが分かると小沢
さんは言うが、宮内庁は反対している。

2.仁徳天皇陵と難波宮
その仁徳天皇陵に行ってきた。JR阪和線の堺駅より先の百舌鳥駅
で降りて、徒歩5分で着く。しかし、陵は小高い山としか見えない。
三重の堀があるというが、二重の堀しか確認できない。当時は湿地
帯であり堀を作ると自然に水が出たようであるが、堀の土を盛り上
げて古墳を作ったが、今は水がない近くの仁徳天皇の陪臣陵の堀も
ある。近くに履中天皇陵もあるが、大きさが全然違う。

仁徳天皇と孝徳天皇の宮である難波宮は大阪城から近い所にある。
今は公園として整備されているが、あまり広くない。難波宮は難波
津の近くにあって、そこで三輪桜井や飛鳥に行くために外洋の船か
ら大和川を上る船に乗り換えた。昔から難波宮は副宮として外交団
を出迎えた場所である。難波津の場所はまだ確認されていないが、
この宮の近くである。船場も近く、大阪が昔から海運の中心である
ことが分かる。京都も淀川で行けるので、ここ大阪が積替え場所で
あったのだ。

7世紀孝徳天皇は新羅との関係を構築したが、新羅使者の格好が中
国的であり伽耶文化を捨てていたことで、同族と言う感じを失い、
短命な政権となり、再度、皇極天皇が斉明天皇になり百済との関係
が復活する。そして、天智天皇が権力を把握する時間を作り、日本
は百済応援で白村江で新羅唐連合軍に大敗北を喫する。

4世紀仁徳天皇は百済との関係を構築するために難波津と整備する
目的で難波宮を作ったのである。交易は膨大な富を生むことも知っ
ていたように感じる。いつの時代も庶民の生活が豊かにするのは経
済の発展である。この経済発展を百済との交易に求めたことで大和
を豊かにして仁徳天皇は仁政であるとなったのだ。

難波に泊まったので、夜通天閣に行ったが、昔の賑わいがない。ビ
リケン通りだけが流行っているが、30年前に行った通天閣の安い
汚い飲み屋と言う印象ではない。時間の隔たりを感じた。
難波の街もに賑わっていたが、韓国人・中国人観光客が多かった。

3.斑鳩の里
聖徳太子は摂政であり外交を担っていたのに、なぜ斑鳩に居を構え
たのかが知りたく、行ってみた。それは百済に傾注する蘇我氏とは
違う外交を行うためで、伽耶は562年新羅に併合されるが、中国や新
羅とも外交関係を構築するために、飛鳥を離れたように感じる。

中宮寺の菩薩半跏像が有名であるが、この半跏像は新羅特有の仏像
である。新羅は同じような像を聖徳太子に贈呈している。もう1つ
が、遣隋使を送り百済経由での中国文化吸収から直接中国からの吸
収しようとしている。しかし、これが聖徳太子を天皇にしなかった
理由でもあると見る。蘇我氏とは違う外交方針である。百済が滅亡
することを聖徳太子はある程度見通したために、百済から新羅・隋
に近寄ったように感じる。

将来を見通せるということは、いろいろな摩擦を現時点の為政者や
受益者と起すことになり、非常な抵抗を呼ぶことになる。そこが見
通せる者の悲劇になるように感じる。薬師寺や唐招提寺などと違い
法隆寺が暗い印象を受けるが、どうも先入観があるためであろうか
、それとも仏像が暗いためにあろうか、私はJR法隆寺駅から歩い
たが、雪が猛烈に降り、暗さが倍化していた。

どうも飛鳥時代までの日本は朝鮮半島の情勢を色濃く映していた時
代のように見えてくる。今回の旅行で、再度、朝鮮半島の歴史をも
見ないと日本が見えないように感じた。


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