3483.経済理論や政策への、いくつかの疑問



経済理論や政策への、いくつかの疑問。というより、問題は何か、
と、それを解くということは何かということ。 
                                               虚風老 

経済理論を理論と捉えるならば、グローバル化が進み、世界が完全
なワンワールド化するならば、すべての物価と、賃金は平準化=フ
ラット化するであるはずじゃ。

つまりアメリカ人労働者も、西ヨーロッパの人も、日本人も中国や
東南アジア、インドや東欧と賃金が同じになる圧力がある。同様に
購買力平価(とくに基本的なエネルギー・食料という分野で)物価
も高水準の国は下がり、低水準の国は上がると見られる。

デフレ、インフレと好況不況という言葉が乖離してきていることは
後で述べよう。

物理学を援用する考え方ならば、「マクスウェルの悪魔」がいない
熱力学に相当するじゃろう。
しかし、社会には、「マクスウェルの悪魔」に相当するものがある。
関税とか、各国の法律(主権)とか、文化とかである。
金融のみは一部でワンワールドに近いシステムを導入したが、その
他の世界はそうはならないじゃろうし、金融にしても実は、そのボ
ーダーの差というものを利用して儲けている。実際コンピユーター
の中ではデータは{名}の区分だけを往復させることによって、そ
れぞれのボーダーの差を利用している。

アメリカで、ニューエコノミーとはやしられたのも、好況=インフ
レ(結果的に好況を自律的に押えるという経済理論)にならなかっ
たことによるのじゃが、なんのことはない、商品が低賃金国から流
れ込んだのと、「過剰与信」を与えて、購買力(有効需要)を創出
していただけである。
「過剰与信」とはその人間が、生産のよって、生み出すことの価値
が、投入された資本より過小であるのにそれより多く与える
「信用=クレジット=ローン」のことである。

基本に戻れば、資本主義というのは、投入された「資本=資金」が
「投入量を越えて」、どれだけのリターンを生むかという経済シス
テムである。

普通の産業ではこれを「利潤」と呼ぶ。
もちろんマルクスはこの利潤の淵源がすべて、労働によるものであ
って、それを資本家が掠め取るのは搾取であるという定式を立てた。

しかし、わしは、そうはとらない。

また、昔の経済読本では、資金と土地と労働が三つの富を生み出す
源泉であるとしていた。
アメリカの高校の教科書ではこれにアントレプレナー(日本では起
業家と訳されることが多い)が加わっておる。

アントレプレナーについて様々な意見もあろうが、わしは、これを
「様々な要素を組織化し、最適な配分によって、生産(物的・サー
ビス的に)」を行うことによって産業をしていく人とみている。
ものごとは、例えば、ここに時計の部品が全部揃っていたとしよう。
しかしそれを組み合わせるこてができなかれば、「時計」という機
能は発揮できない。というより、「時計」という「存在」そのもの
か存在できない。

話しはずいぶんそれたが、(今日も酔っておるので、千鳥足じゃ(^^))

金融緩和が実は(国内的にすぐに)好況を招かないという話しじゃ。
マネーの増大は、いろんな影響をもたらすじゃろううが、それが、
雇用にはすぐに結びつかないであろう。
まず、今の経済は昔の「国民経済」という枠組みがあった時代とは
違うということじゃ。
比喩的ながら、「国民経済」というものがあった時代ならば「蓋を
した鍋」に喩えられる。
その時は、金融緩和や財政出動は(マネーの増大は火力の増大で、
消費の増大を促し、インフレ化し、国内の生産の増大とつながり、
国民経済を沸騰させる力になったかもしれない。

しかし、今は二つの方向にこの金は流れる。
資本主義が、「投入された資本のリターンの増大」というだけなら
ば、別に実物の生産をする必要がない。そう、金融市場のほうが、
リターンが確実であるならば(あるいは、そのほうが大きなリター
ンが見込めるならば)金融市場(虚構空間)に流れるだけである。
アメリカの場合はこれによる金融の仮バブルを作って、
(会計的=会社的にも個人的のもなクラッシュを免れようとしてい
る)しかし、実体からやはりかけ離れておる。

誰かが、これから離脱するとそれはまた崩壊っする。(実体で、
生産=消費というサイクルの中で、利潤がなければなりたたない)
今はやはり、ドルの幻想の上になりたっておる。
まあ、人類社会そのものが幻想=虚構の上に成り立っておるのなら
ば、それもありじゃろう。
まあ、生命現象や暴力は実体であるがね。最終的に暴力しか信じて
いないのは、当のアメリカかもしれんがの。

もうひとつは生産物についても、「国内」のモノ(サービス)を買
う必要がない。
同じ使用価値ならば、安いほうをつかった方が、投下資本の効率が
ええ。(百円ショップとか、ユニクロとか、使い出にも暖かさにも
変わりはないとすれば、投下資本(お金の割に安くで効用を得られ
るのである。デパートは効用を売るのではなく表象をうっているの
である。)

だから、アメリカでも、日本でも「ジョブレス」の経済が生まれる。
好況を「市場=特に株式とかの金融市場を指している」のは不健全
でもある。
アメリカの場合は個人の金融資産そのものが、株式などにかたよっ
ているので、それで左右されるのはわかる。
しかし、日本の個人資産は預貯金にかたよっておる。

同時に、金融機関(銀行や保険や年金機構も含む)はそれを運用す
るのに「金融市場」によっておるから、金融市場の混乱は間接的に
大きな影響を持つ。(個人的に通帳の金額が増減するわけではない
ので、銀行がデフォルトでもしない限りは実態が現れないじゃろう
がの。まあ。管理通貨制度の下では、それは未来へ付け回されるだ
けじゃろうけど。)

しかし、未来というはなんなんじゃろう?(ちょっと哲学的に考え
てみたくなってきた)

また、とんでしもうたが許してたも。

つまり経済政策というのが、「国民経済」とか、金融の現況のよう
なグローバル化、あるいは生産−消費(市場)なでのグローバル化
の世界では、まったく新しい発想をしなければならないということ
じゃ。

経済「理論」ではもちろんそれらの国の差はない。ここでの需要の
増大はどこかの国の生産と雇用を生み出しているであろう。そして
それは廻り回っって、我が国の生産と雇用の増大を生むかもしれな
い。(例えば、日本が東南アジアや、中国や、インドを経済支援あ
るいは産業資本を移したことが、これらを確かに市場(有効需要の
国)としてテイクオフさせてきた。)

だが、今は直近(足元=身近な兄ちゃんネエチャンに)の雇用
(人々の生活と消費)という需要、それに対応する生産(価値の増
大)が「日本の経済政策」に必要である。

我々は、マクロで生きているわけではない。諸個人という「ミクロ
の問題」に 対応するために、マクロ(制度的)政策を利用するので
あるわけじゃ。

                    虚風老

インフレ・デフレ論はこの次じゃ、わしの酔いが覚めてきたからの。。。
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もっとも大事なことは、<恐れない>ことである。  虚風老
 
利得を失うこと、評判や、優位性、あるいは他者からの強圧を巡っ
て、人は迷うじゃろう。
もっとも、大切なことは、<恐れない>ことである。
人は恐怖によって、動かされ、自由を失う。そして後悔するのじゃ。

武の道や禅の重要な教えの一つは、何事も<恐れない>ことである。
恐れは、自分自身の怯えた影を増大させ、自分を縛る。

芯の<まこと>に戻って、快の誘惑や、恐怖を脱する。
ただ、自身の「中なる心」にしたがって、進み、その結果に右顧左
眄しないことである。「死をも恐れぬ」とか、「大死一番」とはそ
ういうことである。
その果てに討ち破られようが、恐れさえ抱かねば、道は拓けるのじゃ。

真の誠とは、肚を据えるということの内にしか見つけることはでき
ない。人をまことに自由にするのは、<恐れ>を克服した時である。

恐れは、自分自身の利得のためではなく、
自身を無心に置き、他者の苦を取り除こうと決意したときに、もっ
とも良く退けることができる。
自分を自由にするのが、自己を忘れたときであるというのはそうい
う意味じゃ。

行為というのはは、ただ「ある」だけである。
矛盾というのは、行為をいろんな角度や立場から観じ、評するとき
にいう言語=論理=観念が生むのである。
自己の根底がしっかりしているモノは、ただ進む。(犀の角のよう
に)

          虚風老


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