3481.きまぐれ劇評 ラビア・ムルエ、リナ・サーナー



きまぐれ劇評 ラビア・ムルエ、リナ・サーナー作・
演出・出演 「フォト・ロマンス」
From: 得丸公明

皆様
レバノンからやってきた劇団の劇評です。

とくまる


進化したリアルに濡れ場はいらない −

ラビア・ムルエ、リナ・サーナー「フォト・ロマンス」の描く純愛

・劇と現実の接点である幕切れと幕開け

 今は亡き寺山修司にとって、劇が終わった後で役者がステージに並んで観客の
拍手喝采を浴びるなんて許されないこと、トンデモナイ、アリエナイことだっ
た。劇場の内と外とは同じひとつの現実だ。観客は、劇が問題提起したことをそ
のまま家庭や社会に持ち帰り、自分を主人公にしてすぐさま劇を始めなければな
らない。観客席で安穏と芝居を楽しむことは許されないのだ。

 レバノンの演劇、ラビア・ムルエとリナ・サーネーの構成・作・演出による
「フォト・ロマンス」のエンディングも、暗転の一瞬に役者の姿が消えて戻って
こず、カーテンコールのない演出だったから、久々に寺山の演出を思い出した。
劇作品と現実の緊張関係にカーテンコールは水を差す。この作品の現実へのこだ
わりを感じた。

 幕開きは、開演10分ほど前から舞台奥でラビアと音楽のシャルベルが客席を見
つめながら話をしている。俳優と観客の反転を客はほとんど気にとめていなかっ
たようだが、これは「君たちも役者だ、しっかりと演じるのだよ」というメッ
セージだろうか。

 開幕時間を少し過ぎてから、ラビアが舞台左手に登場し、パソコンのボタンを
押して、テレビニュースのデモシーン映像を流し始める。

・ リアルはシンプルな白黒の静止画にあり

 視聴覚(AV)刺激は、有無を言わせぬ現実感覚(リアリティー)をもつ。実映像と
実録音を突きつけられると、それは本当の世界としか思えない。しかし実際に
は、映像配信の背景に必ず編集や制作(ヤラセを含む)の作業があるので、安易に
信じることは危険である。ファシズム、コミュニズムに限らず、およそ20世紀の
すべての政治体制がAV刺激による大衆操作を利用したことは間違いない。

 仮想現実とは、「現実には存在しないが、脳が現実と受け取るもの」である。
つまり我々の脳は、実在と仮想、本当と嘘の区別がつかないのだ。だから仮想現
実というカテゴリーが存在することになる。AV刺激は全身を包み込みリアルだ
が、それが本当かどうかは他人任せ、作った人、流した人任せであるところに危
険が潜む。

 AV刺激でない他の感覚刺激の場合はどうだろう。我々の脳は、感覚器官からと
りこまれる外部世界の知覚(A)を、自分のもっている記憶(B)と照らし合わせて、
A=Bなら現実、A≠Bなら非現実だと論理演算をして真か偽かの旗(フラッグ)を立て
ているようだ。

 かつて美術館で尾形光琳の絵を見て、雁が本当に飛んでいると感じたことがあ
る。絵に近づくと、驚いたことに、雁はひらがなの「へ」の字を逆さまにした形
で一筆書きされているだけだった。写実性の高いコンピューターグラフィックの
動画より、単純な白黒の静止画のほうを脳はリアルだと受けとめる傾向がある。
記憶はかなり単純化して保存されているようだ。

・レバノン風にアレンジした「特別な一日」

「フォト・ロマンス」は、映画監督のリナが、検閲官のラビアに、新たに制作す
る映画の説明を行なって、作品の検閲と独創性についての意見を求めるというス
トーリーだ。これはイタリア映画「特別な一日」を順番や歴史や政治状況を変え
て2007年のレバノンを舞台にしたものだ。

 彼女は場面の特徴について口頭で簡単に説明したあと、舞台中央に吊り下げら
れたスクリーン上に、映画のスケッチとして撮影されたスチル写真を次々に映し
出していく。

 まず「ヒロインは原作と違って、離婚して両親のいる実家に戻った女というこ
とにしました。」そして、「レバノンにおいて家族全員が家を離れて、女が一人
で留守番するということはほとんどありえません。だから、二つの大きなデモが
同じ日に催されるという設定にしました。」スクリーンを左右に二分して、冒頭
と同じデモの光景が両方に映し出される。ラビアは「どちらかの派閥の肩をもつ
わけではないので、これは政治的に正しい」とコメントする。

「家族がいる間は、女は自分を生きてないので、家族の姿も彼女の姿も写しませ
ん。」女を残して家族全員がデモに出かける朝、人影のないベッドや洗面台の写
真が次々と映しだされる。家族の会話をリナが一人で読み上げていくが、誰が誰
にしゃべっているのかさっぱりわからない。

 ラビアがそれをクレームすると、リナは「幼い姪が描いた家族全員の絵が居間
の壁に張ってあるので、話し手が変わるたびにその人に色を塗ってみることにし
ます」といって台詞の読み上げをやり直す。スクリーン上に幼児が描いた絵が映
し出され、リナが読み上げる台詞の主に色が塗られる。すると不思議なほどに
はっきりと誰と誰の会話かがよくわかるようになった。脳は言語処理に関しては
意外と器用で、それが誰の声かがわかれば声が同じであっても会話に聞こえるよ
うだ。「いってきま〜す」という台詞とともに、ヒロイン以外全員に色がつい
て、いよいよ一人の時間となる。

 すぐにヒロインが姿を見せるかと思いきや、「原作と順番を入れ替えて、最後
の場面を映します。」朝出て行ったままの食卓の写真を背景に、夕食の用意が出
来てないことで戸惑う家族と女の会話が聞こえる。昼に何かあったことを匂わせ
てから、女と男の特別な一日が始まる。

・ 検閲も内戦もどうでもいい、男と女の人生の一日が大切である

 国民を二分する大規模なデモで家族みんなが出払うという設定や、台詞が政治
や宗教に及ぶとすかさず「その台詞は外してください」という検閲官のひと言が
入るところなどは、現代レバノンがおかれた政治状況を表している。だけど、た
くさんの血が無駄に流れた内戦の傷跡や情容赦ない政治弾圧の糾弾といったもの
は一切ない。

 ストーリーは、猫が窓から飛び出して男の家にいったので、女は猫を引き取る
ため庭を隔てて向かいの家を訪ねるところから始まる。

 女は男の部屋にあった踊りの教本に興味を示す。健康法として医者に勧められ
たのだと言って、男は踊ってみせる。

 スチル写真なのに、まるで動画を見ている気分になったのは、脳が動きを補正
して、動画のように感じさせるからだろう。これは、後で出てくる屋上で洗濯物
を取り込むシーン(二人はそこでキスをする)や階段を駆け下りながら追いかけっ
こするシーン(階段での追いかけっこの無限ループで映画を終らせようという案
もあった)でもそうだった。
 クライマックスでは完全にのめりこんで、スチル写真であることを忘れて、本
物の映画を観ている気分になっていた。

・生演奏が心を掻き立てるクライマックス

 フォト・ロマンスは様々な魅力をもつが、音楽が生演奏であることも特筆すべ
きだ。レバノンでロック・グループ「スクランブルエッグ」のリーダーをしてい
るシャルベル・ハーベルが舞台の中央奥でギターの生演奏をしていて、それが観
る者の心の琴線を掻き立て、弁士が台詞を語るだけのスライド・ショーをよりリ
アルな世界へと引き上げていく。

 リナが最後の場面の説明をすると、ラビアは台本のその頁をくしゃくしゃに丸
めて捨て、「僕の仕事はもうないから、シャルベルの演奏を手伝うことにする
よ」と言って、照明のあたらないシャルベルの側にいく。ラビアは男として、検
閲官として、原作にはあった情交場面がこの映画にはないと知ってがっかりした
のだろうか。こうしてピアノやピアニカの生演奏も加わって、映画は一気にクラ
イマックスへと向かう。

 女が男の部屋を訪ねる。男は女を招き入れ、食事を用意し、二人は食卓で向か
い合って食べはじめる。食事を口に運ぶ、見つめあう(語り合っているのかもし
れない)、食卓の上でお互い手を伸ばして相手の手に触れんばかりとなる、この3
つの光景が繰り返し繰り返し映しだされる。それ以上のことは描かれていないか
ら、情交があったかどうかはわからない。

 女は、恋愛結婚して学校を中退したあと、湾岸で9年間夫の家庭内暴力に苦し
められ、離婚して実家に戻ったものの7年間も自分の子どもに会わせてもらって
いないと打ち明ける。

 男も妻に逃げられたことを告げる。男は新聞記者なのだが、イスラエルによる
空爆の意味を問う記事を書いたことによって、新聞社をクビになったのだ。この
国では何かに疑問をもつことは許されない。彼は国を二分する大きなデモの日で
ありながら、どちらの側にもつくことができずに、一人で家にいたのだった。

 やがて家族が帰ってきて、女は自分の家に戻る。女が帰った後、男は荷物をま
とめて、長期に留守にするために家具にシーツをかける。おそらくアメリカに行
くのだろう。迎えの車がきて、運転手に案内されて家を出る。女は台所に灯りを
つけて、外から見える位置に立ち続ける。そして男が立ち去ったことを確認し
て、灯りを消した。

 そして、映画のエンディングのようにテロップが流れる中、ギターとピアニカ
がむせび泣くような音楽を奏で、劇は終わる。

・ 食卓の上で寄り添う手が心を通わせたのか

 観終わったとき、なんだかよくわからないけれども胸に迫るものがあって涙が
流れてきた。この涙の原因はなんだろう。

 別に悲しいとか寂しいというわけじゃない。むしろ美しいものを観たことによ
るポジティブな涙だった。では何を美しいと思ったのか。男と女がセックスもせ
ずに、お互いに心を開いて、自らのおかれた孤独で息詰る状況を告白しあったこ
と、お互いの心と心が結びついたことだ。そして、心を通わせた相手のことを思
いやる優しさである。

 仮に体を重ねたとしても、身の上話を打ち明けあうほどの心の解放は得られな
いだろう。どうして心が通いあったのかと考えてみたところ、食事中の手の動き
が気になってきた。もしかすると、食事のときに手を近づけあいながら、相手の
心の温かさや思いやりを感じ、やすらぎを得ていたのかもしれないと思う。

 フォト・ロマンスは、肉体的な交わりによって得られる共感を超えた、もっと
高い次元にある心のエクスタシー、純愛中の純愛を描いた作品である。

・ヒトの本性は絶対的な善である

 芝居を観る前は、内戦の悲惨さや検閲を糾弾するメッセージが送られてきたら
どうしようかと少し身構えていたのだが、完全に裏をかかれてしまった。内戦で
多くの尊い命が失われ、街並みが瓦礫に化して、おそらく多くの人々の心が傷つ
き荒んだであろうレバノンで、このように繊細で美しく心温まる芸術作品が生ま
れたということは驚きであり、賞賛に値する。

 人類は、人間同士を殺しあう戦争や、自然を敵視した環境破壊といった過ちを
たくさん犯してきて、地球文明は今まさに滅びつつある。その文脈においてレバ
ノンはレバノン杉の森林の破壊の物語であるギルガメシュ神話においても、近隣
国家を巻き込みながら展開された内戦においても、人類文明の滅びの前衛にい
る。そこで美しい芸術作品が求められ、生まれていることは、人間精神の美しさ
と可能性の証明であり、人間本性が善であることの確かめである。

 私は人類の一員として、この作品を誇りに思う。この作品を招待しただけで
も、今回のフェスティバル・トーキョーを実施した意義があると思う。この作品
を招いたFT関係者の卓越した見識に心より敬意を表し、ご苦労をねぎらいたい。

(終わり)



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