3470.フォン・ノイマン、ガモフも理解されなかったデジタル論議



フォン・ノイマン、ガモフも理解されなかったデジタル論議
From:得丸公明

皆様

大学を卒業して以来、キャンパスを訪れたのは実質はじめてでした。
しかし自動車学校なんかは、免許取り消しにでもならない限り絶対
に用がないのですが、自動車学校と違って、大学には再びそこを訪
れる巨大な価値があることを最近発見しました。

昨年夏、言語のデジタル性ということに気づいて、工学部(電子、
情報)、理学部(地球科学、人類学、物理)、農学部、文学部、医
学部、地震研究所、情報学環(旧・新聞研究所)、教育学部、そし
て総合図書館と、たくさんの図書館を訪れさせていただき、古く珍
しい文献、海外のジャーナル(論文誌)で関係するところを読み漁
ってきました。
インターネットで蔵書検索ができるので、昼休みに急いで図書館に
いって、コピーして帰ってくるなんてことをずいぶんやりました。

医学部に時実文庫というのがあって、そこに1950年3月にニューヨー
クで行なわれたCYBERNETICSのシンポジウムの記録が蔵書されていま
した。
ひとつのテーマは、「中枢神経回路のデジタル概念について」とい
うもので、そこに登場するのは、マーガレット・ミード、グレゴリ
ー・ベイトソン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノン、
ウォーレン・マカロック、ウォルター・ピットという文化人類学者
、数学者、脳神経生理学者たちです。
驚いたのは、そこでジョン・フォン・ノイマンが、脳がデジタル原
理で動いているということをいくら説明しても、誰も理解できなか
ったということです。
あげくのはてには、周囲の圧力によって、ノイマンは「現代科学に
おいて、アナログとデジタルという言葉は、完全には定義が統一さ
れていない」ということをみんなの前で言わされて、実質上デジタ
ル論議を封じられ、後半じっと沈黙するという興味深いやりとりが
記録されていました。

別の本には、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造について
Nature誌で発表したあと、ジョージ・ガモフが、アミノ酸が4元塩
基の重複順列として決定されているという仮説を、自らが会員であ
ったアメリカ国家科学院(National Academy of Science)の論文誌に
投稿したら、突っ返されたという話も紹介されていました。

フォン・ノイマンや、ガモフですら、周囲の第一線の科学者を説得
できないほど、デジタルというのは理解しづらい概念なのだという
ことです。

今年僕は情報処理学会の学会誌で2回「不採択」になりましたが、
それくらいでめげてはいけないと、あらためて思いました。

僕は今、今年になって13・14本目の論文を書いています。締め切り
は来週木曜日と金曜日。
(これまでに書いた12本のうち2本は情報処理学会誌で「不採択」に
なりましたが、残り10本のうち1本は国内学会で査読中、1本は国際
学会で査読中、残りは研究会や学術講演会なので、印刷・発表の場
は保証されました。)

13本目と14本目は、12月の18日、22日にそれぞれ電気通信大学と東
大で開かれる情報処理学会の研究会用(バイオ情報学、音声言語処
理)のものです。

ピアジェ、ヴィゴツキー、コンディヤックを使って、我々の脳内の
デジタル神経回路、論理回路について整理しているところです。

来年の春を楽しみにしております。

得丸公明
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認識と実体(存在)について     虚風老

今日は酔っ払っておるので。。。(〜〜9)
いい加減じゃが(^^) 

 得丸氏が、言語のデジタル性について、いっておることに反論があ
るわけではない。
認識と実体(存在)については長い間の哲学論争の主敵であったこ
とでもある。(観念論なのか存在論なのか)
それは様々なヴァリエーションで語られる。イデアから、機械論的
唯物主義から、ポスト構造主義、脳科学まで。

現象学ではこれを人間がそれを認識する(できる)のは、情報性の
上だけであるとして、実体を(  )の中に入れて、その中は<あ
るかの知れない、無いかもしれないが、本当のこと(実体は)は知
る(認識)ことはできないが、人間存在としてはその一部でしかな
い>が、「ある」という結果付けの上としか、人間の認識として取
り扱えない。とする態度しかとりえないとしている。

その上で、人間がどうするのか、どういう影響を受け、選択をする
のかということであろう。

実体と認識が別の「系」であるというのがワシの考えるところであ
る。
実体というのは、時に「延長」空間性を保持しているものと考えら
れている。その究極が原子的なモノ(それはどんどん化学の精密度
で、核とか素粒子とか小さくなっていくが)であり、最終的には
「分割不可能のモノ」という概念の要請によってその存在の単位を
与えられていく。

ところで認識というのは、いわば現代風にいうと「情報」である。
ここで単純化した疑問をていすれば、すべての物理実体は万有引力
に従う。しかし、<言語=情報>は「万有引力」の影響を受けない
といえるじゃろう。

しかし、すべての<情報>は<実体>の上に展開される。つまり依
存しておる。

つまり<実体>が生まれると同時に<情報>も生まれる。
で、<情報>基本性というのは、なんなのかといえば<関係性>に
あるからじゃ。
孤立というのも一つの特殊な関係性である。で、関係性に排他的空
間性はあるのじゃろうか?
小学生に、一列直線に並べと指示する。彼等が並んでできた関係性
を一列の直線と見ることはできよう。しかし実体的には、空間を占
めているのは、そこの肉体だけである。
もちろん彼等がバラバラに走りでしてもそれなりの関係性はある。
しかしそれをあらわす言葉がないから混沌というのである。

つまり、言語はある「関係性」を標示するためにある。数学は論理
という厳密な制約かにある言語の一種にすぎない。ところで、言語
の特性は「ウソ」をつけることでもある。つまり実体にはウソが無
い(実体というのは事実でしかない)が根源的に言語=情報系は
「虚構性」にある。

言語は、実体とはかかわりなしに、「関係性」だけを写し取ること
ができるのである。(であるから、関係性を記述するのに別の実体
上に現わすことができる、三角形は土に書いても天空に書いても紙
に書いても現わされる)
もう一度、現象学的な解釈にもどるが、我々が事実ちか客観とか言
ってるものは共同幻想か共同認識(それでも我々はタンパク質的限
界とか人類種的な共同構造によって共同であることからのがれられ
ない。機械をつかうことによって、その制約から違う世界の見方に
踏み込むが、昆虫や植物とは、いつまでたっても、違う世界観であ
ろう。。逆に自身の心理を彼等に投影して理解しようとすることは
あろうが)

少し脱線気味じゃが、酔っ払いの繰り言として許してたも。。(^^)
わしが、認識というのは何かというふうに考えたとき、
その根幹は「パターン認識」とそれから派生する<連想・連環>に
よってできたのではないかと考えておる。それは言語の「語源」か
らの展開を考えたり、新秘学の基本がそうであるからじゃけど、
そのパターン性によって、人間は認識や概念を構築してきたなでは
ないじゃろうか。(得丸氏に語源学は面白いよという伝言じゃけど
^^)筒井俊彦=意識と本質とか読んだことあったっけかな)

連想連環というのは特に「詩言語=象徴言語」を利用する時積極的
に使用する。
詩人は言葉の「匂い」を使って、他者の論理言語中枢をかいくぐっ
たり、想起さしめるからのう。

で、<認識>の話しに戻ると
生命が有機体反応レベルから、単細胞レベル(つまり、自己保存と
それを複製することによって)生命とするレベルには、
<情報=RNA/DNA>レベルでの違いが生じたということであろう。

つまり、情報にパターンが生じた=そのパターンが複製子になって
おるということじゃ。

もうひとつ酔った勢いでいうが、秘学的にいえば、「易」というの
は、運動の位相に関した記述をデジタル処理したモノであるという
ことじゃ。
運動は、発散運動と収束運動と周期=回帰運動に分けられる。
このうち永続をするパターンというのは、回帰運動その典型的なも
のが円運動でありその特殊的なモノが振動運動にな。

円運動を時間的に広げるとサインカーブ(正弦)になるそれを三次
元に立体化すれば、螺旋になる。

運動は回帰運動を基本とする。その回帰周期・その強弱それは様々
である。

しかし、回帰運動と見た場合(季節とか1日の朝昼夜とか)、運動
には位相がある。つまり、サインカーブの基準の中線を引いたとき
、上の領域の上昇中・上の頂上のいっぱいで反対への変化を含むと
か、上の領域だが下降しているとか、マイナスの領域でマイナスの
頂上へむかっているとか、下限の頂点での変化中とか、下の領域だ
が上昇にあるとか、これらは、運動としての位相が違っている。
(今上げたのか易の6相に対応している)

これらは、波動理論でもある。それぞれな位相といろんな(強弱・
周期の)波で、あらゆる、波動てき性格は記述できる。(これは波
だからアナログ)

つまりデジタルはアナログを認識するためのパターン認識の(圧縮
化)のために必要な生体技術だったというわけじゃ。

まあ、よっぱらいの話しじゃ。得丸氏がどのように考えるかな?(^^)

                    虚風老




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