3469.プロの仕事について考える



プロの仕事について考える



                           日比野
1.プロの気概

プロの仕事について考えてみたい。

『作家は誰しも納得づくの作品を発表しているワケではありません。
無限に時間がかけられるなら誰でも傑作が描けますが、我々は限ら
れた期限に完成度をあげなければなりません。

気に入らない線や描き直したい構図もありますっ。もっといいセリ
フやオチも浮かびますっ。しかし〆切を守るために、それらを時に
切り捨ててゆくのがプロの仕事です。

それはとても辛い決断ですが、今回の不満や心残りは次回で解消す
ればいいっ。そうしてプロとしてのレベルを上げてゆくのですっ。
次回に繋げるためにも、今っ、間に合わせるコトが大事ですっ。』

          「キャノン先生トばしすぎ 第七話」より


仕事の質と〆切の兼ね合い。難しいテーマ。

確かに、記事を書くのに無限に時間が掛けられるわけでもないし、
書いたあとで、もっといい考えが浮かんだりもする。

だけど、〆切がある限り、どこかで記事を上げなくてはならない。
そのギリギリの局面で、それでも記事の質を高めたいという意識は
、それこそプロフェッショナルというべきもの。自らの作品に妥協
しない、ということ。

プロであるためには、一定以上の技術や経験もさることながら、自
分は「プロであるのだ」という職人魂というか、これで生きてゆく
のだ、という覚悟が要る。

つまりプロの「気概」とでもいうべきものが、とても大きな要素の
ように思われる。

勿論、世の中には、「巨大な才能」を生まれながら持っていて、そ
の「才能」だけで、十二分以上の作品を残せる人も居る。

その才能は才能として、当然活かしていくべきなのだけれど、それ
は「天才」というべきものであって、万人が目指せるものでもない
し、時代がいつもその「才能」を受け入れてくれるとも限らない。
プロとは少し意味が違う。

プロとは、いついかなる環境においても、一定以上の実力を安定し
て発揮できる者のことを云うのであって、時代が必要とするとかし
ないとか、自分が好調だとか不調だとか、とはあまり関係しない。

なぜならプロとは、その道の専門家であって、素人が安心して「仕
事を任せられる」存在でなければならないから。

だから、自らがイメージする実力が発揮できなくなると、プロ根性
を持つ人ほど引退を考えるようになる。

よくプロ野球選手が引退するときに、イメージどおりの球が投げら
れなくなった、とか、ファンにお見せするだけのパフォーマンスを
発揮できなくなった、とコメントすることがあるけれど、そういう
ことなのだと思う。

マサカリ投法で一斉を風靡し、今もマスターズリーグで活躍する、
村田兆治氏は、1990年の引退の年に9勝を上げ、引退試合では
MAX145キロのストレートを投げていた。それでも彼は、「納
得のいくストレートが投げられなくなったんです」と言って現役引
退した。

その後、村田氏は、還暦になりなんとする今でも、マスターズリー
グで、140キロのストレートを投げているけれど、今度は140
キロが出なくなったら、マスターズリーグを止めるという。プロの
鏡と言っていい。

自分や作品に妥協しない、プロとしての最低限のことは何が何でも
やりきる、という姿勢は、実のところかなり万能な能力であって、
それがある限り、どの分野でもある程度の成功を治めることが期待
できる。

なぜかというと、その気概が自らの「意思」を引っ張り、更なる向
上を約束するから。


 
2.たった一度のヘマで路頭に迷うんだよ俺達はっ

『いいかよ貧太くんっ。キミ等がバツわるそうに電話切ったアトで、
 俺達は脂まみれになって駆けずり回るんだ。アチコチに頭下げて
 回るんだっ。

 作家が原稿オトしても、俺達が本オトすわけにはいかねえんだよ。
 そんなコトが一度でもあれば、俺達のクビなんざ簡単に飛ぶんだ。
 たった一度のヘマで路頭に迷うんだよ俺達はっ。

 学生気分の抜けないお前らと違って…そういう責任を背負ってる
 んだ社会人ってのはっ。

 それでも、お前等みてェのとサシで仕事してんのは、お前等の情
 熱が伝わってくるからだろうがっ。

 その情熱を、キミにはもう感じないと言ってるんだっ。』

           「キャノン先生トばしすぎ 第八話」より


プロがプロとして扱われるのは、決められた制約のなかで、期待さ
れた、または期待以上のモノをきちんを出すことができるから。

何日にこれを依頼すれば、いついつまでに、これだけのものが出て
くる、と明確に予定できるからこそ、計画を立てることが可能にな
る。

この「計画が立つ」というのは、世の中を支えるためにはとても大
事なことであって、これがあって始めて一つ一つの仕事が連結して
世の中全体が回ってゆくようになる。

今のように複雑で高度な社会になると、一人で全てのことを行うな
んて出来ないから、どうしたって職の分業が起こってくる。キャベ
ツ一つとっても、つくる人あり、運ぶ人あり、店先で売る人あり、
料理を作る人あり。ひとつひとつが間違いない仕事を積み重ねてい
った果てに、キャベツのみじん切りや、ロールキャベツが食卓に並
ぶ。

確かに、一人の「天才」は世界を変えることがある。だけど、その
「変えた世界」を支えているのは、各分野のプロ達の力。凡人が「
天才」を真似することは簡単ではないけれど、プロなら真似ること
はできる。少なくとも目指すことは万人が可能な道。

だから、今のような近代国家において、国の生産性なり、国力なん
かは、小さなひとつひとつの分野でどれだけプロが居て、時計の針
がいつも同じ時を刻むように、地味だけれど確かな仕事を、彼らが
し続けてくれるかどうかが、鍵を握っていたりする。

これは、政治の世界でも同じ。

なんだかんだいって、官僚がその道のプロとして間違いのない仕事
を続けていたからこそ、これまでの日本があった。それは認めなく
ちゃいけない。

たとえ、天下りとかなんかが、あったとしても、大枠では、大きな
齟齬は来たしていなかった。戦後60年、日本は戦火に陥ることも
なく、世界有数の経済大国となった。それは紛れもない事実。

だから、「脱・官僚」というのもいいけれど、それならば、官僚が
やってきた仕事を、今度は政治家が「プロ」として、彼らと同等以
上のことができなくちゃいけない。

でないと、日本の世の中が回っていかないし、実際、回っていって
いない部分も出てきている。

前麻生政権が景気対策として、準備を進めていた補正予算の一部を
執行停止して、3兆円も無駄を省いたと鼻高々となっている陰で、
多くのプロ達がその後始末をしているであろうことを、政治家は慮
れなくちゃいけない。


 
3.「金」か「矜持」か

『ごく売れているジャンプ系の作家で、連載の最後のころは鉛筆で
 書いたような作品が掲載されているものがありましたよね。あれ
 って何で許すんですか?俺が編集者だったら切りますよ。』

                      漫画家・弘兼憲史


漫画誌に、絵が下描きのまま掲載される、なんて聞くと「そんな馬
鹿な」と思う人も多いだろう。ところがいくつかの雑誌では、そう
としか思えない作品があると報告されている。

最近話題になったのは、『コミックガム』で連載している『ファイ
ト一発! 充電ちゃん!!』という作品で、コマのいたるところに下描
きの絵がちりばめられている。その理由として、全ページのなかの
描きやすいコマからペン入れをしていったためだろうとも言われて
いる。

それらを見ると、まるで映画の絵コンテかなにかを見ているようで
、どうひいき目に見ても、「下書き」だとしか表現しようのないも
の。

100歩譲って、表現効果の一種だとしても、それならそうと、殆
どの人に分かるように描かなければ意味はない。コマのいたるとこ
ろに下描きの絵をちりばめておいて「表現効果だ」と言われても、
そのとおりだと賛同できる人がそれほどいるとも思えない。

これでは、大御所や、その他多数の真面目に原稿を書いている漫画
家諸氏は心中穏やかではないだろう。中には自分達の仕事を穢され
ているように感じている人だっているかもしれない。

全盛期の手塚治虫が、『来るべき世界』を千ページ描いた後で、そ
のうち六百ページを削ってしまった、という有名な話を、原稿を下
書きで出した彼らはどう思っているのだろうか。

だけど、こうした「下書き」な作品が世に出るということは、それ
を許した人達がいた、ということも同時に意味してる。

こうした下書き作品について取材された、件の編集部は、「先生の
体調不良と編集部のスケジュール管理ミスで、あのようになってし
まいました。しかし…よくあることですよ」とコメントしたという
から、編集部の段階から、プロであることを放棄している。

作りかけのものをそのまま世に出すということは、例えば、建物で
言えば、骨組みだけのマンションを完成品として売り出すようなも
の。

もちろん、そんな骨組みマンションを買う人なんかは誰一人として
いない。それは「住む」という用途に耐えるものではないから。

だけど、漫画や小説などのような文化に属する作品となると、その
あたりの基準は曖昧になる。

なぜかというと、娯楽作品は、客にとっての用途は「楽しむ」とい
う主観的価値に依存しているから。

事実、どう見ても手抜きにしか見えないのに、それでも「売れて」
しまう作品が存在することが、この話をよりややこしくしている。

漫画を例にとれば、一枚の原稿用紙に費やす時間は作家によって物
凄く差がある。それは描くスピードに差があることは勿論、緻密に
書き込んだり、話のプロットを作るのにもの凄く時間を使ったり色
々な要因がある。

だから、絵は下手だけど、話は物凄く面白い作家や、その逆のケー
スも当然ある。中には、話を担当する原作者と絵を担当する作画の
人に分かれて分業するケースもある。

仮に、「下書き」作品であっても、爆発的に売れてしまう「天才」
作家を抱える編集部があったとしたら、それをそのまま出版してし
まうか否かを考えてみると、この問題の難しさが見えてくる。

つまり、この問題は、人気があって、面白くて売れてさえいれば、
完成度はどうでもよくて、何をしても許されるのか、という命題を
提示している。

それは、究極のところ、「金」か「プロの矜持」のどちらを優先す
るか、という問題に帰着する。

一般的に、完成度と人気は正比例の関係にあるのは当然なのだけれ
ど、始めのうちは完成度が高くて、人気が上がっていくにつれて、
それに胡坐をかいて手を抜き出して、やがて人気もなくなっていく
というケースも多い。

また、作家自身が、当初の段階から、この展開で終わらせよう考え
て話を進めていても、人気があって売れるがあまり、編集部の意向
で、無理矢理連載を継続させられてしまうケースもあれば、逆に人
気が落ちてくると有無を言わさず打ち切りになる場合もある。

今の漫画雑誌は基本的に赤字。雑誌は人気を取るためのもので、単
行本にして売ることでようやく採算を取っているのが現実だという。

もちろん商売だから、儲かる部門に時間と金を投入して、そうでな
い部門は縮小するか、徹底的なコストダウンを図るのは当然だとい
える。

だから、純粋に「商売」という面からみれば、出しても赤字になる
ものに対して、品質を高くしても仕方無いと思ってしまうのも人情
としては分からなくもない。

ただ、だからといって、売れるからOKなんだとばかり、下書きを
載せてしまうような行為は、どこか超えてはいけないラインを踏み
越えているように思えてならない。



4.勝利の女神は「気概」に微笑む
 
巨大な才能を持った「天才」と、どんな状況であっても、間違いの
ない仕事をやってのける「プロ」。彼らをどう評価するべきなのか。

文化事業において、その目的は、大きく二つの軸がある。

ひとつは、その文化事業を通じて、その文化を広く普及し、その振
興をはかるという軸。もうひとつは、文化事業そのものの市場を広
げ、収益を上げる、ぶっちゃけていえば「儲ける」という軸。

前者に重きをおけば、天才は天才として大事にするけれど、その文
化を支える足腰としてのプロの存在は必要不可欠になるから、プロ
の育成にも力を入れることになる。

だけど、後者を重視すると、最終的には、売れれば勝ちの世界に行
きつく。つまり、売れる作品を生み出す人であれば、誰でもOK、
売れる作品なら何でもOKになる。

だけど、前者と後者とでは、同じ文化事業の範疇にありながら、そ
の主体は、決定的に異なる。

前者は、その文化事業を支え、推進する側の考えやモラルが、それ
をコントロールする。

たとえば、何がしかの文化には長い伝統が刻まれているのだ、それ
を大切にしなければいけないのだ、と思えば、伝統の型や作法を守
り、本来の精神を残そうとする。茶道とか禅とか、古くからの伝統
文化などには、比較的そうした傾向が強い。

それに対して、後者は「売れるものが正しい」世界だから、お客さ
んの欲しがるものが絶対。つまり客の好みや、意識が決定的に重要
な役目を果たす。要は「御客様は神様です」の儲け至上主義。

勿論、前者の、文化の推進側が守り、かつ広げたいものが、そのま
ま後者的な儲けに繋がることが理想ではあるのだけれど、そうそう
いつもそうしたことが出来るとは限らない。

それは、作家が作りたいものと、お客が欲しがるものが、いつも一
致するとは限らない事に起因する。ここに文化事業の難しさがある。

文化事業は、理想を追えば追うほど、それらの普及を考えれば考え
るほど、その脆弱さが浮き彫りになる。

その文化事業を行う為の最低限の資金と、それを支えるプロやファ
ン層の厚み、そして富を生み出す天才の存在が必要になるから。こ
れらが渾然一体となって、文化事業は支えられている。

文化は、木の根っこの傍で昼寝でもしていれば、勝手に転がり込ん
でくるものじゃない。それが育つための環境と土壌がないといけな
い。

今や、日本の漫画やアニメが世界中で受け入れられているけれど、
それらも長い年月の中で生み出された巨匠やプロ達、そしてそれら
を支えていったファン層、そうしたものを日本がじっくりと育んで
きたからこそ。

そうした文化は、一代限りのものではなかなか作り上げられない。

一時期の流行、ブームは文化事業にはならない。ブームそのものを
否定するわけではないけれど、ブームは、その場限りの小遣い稼ぎ
にはなるとしても、それだけのものであることが殆ど。

昔、流行って、今見かけなくなった、玩具やスポーツなんて掃いて
捨てるほどある。

だから、文化事業は、ただ一人の「天才」だけでは作り上げること
は出来なくて、その「天才」がいなくなれば終ってしまうようなも
のは、文化として世の中に定着しない。

文化の興隆は、「天才」がいてもいなくても、後に続く人が連綿と
出続けることがなければ望めないもの。

世の中にある程度認知され、定着して、文化にまで成熟したものは
、たとえその時代に「天才」がいなくても、文化そのものが消える
ことはない。

だけど、その文化に身を捧げるプロが居なくなったら、その文化は
終焉の危機を迎える。

プロには、プロとして通用するだけの技術と経験は必要だけれど、
それに加えて、プロであるという「気概」がなくては大成は望めな
いし、その文化に対する情熱がないと、後に続く人が出てこない。

だから、文化事業を大切に思うなら、文化に対する情熱や、その道
に生きるというプロ意識を持つことが大事。

その為には、その道を仕事に選んだ人たちが「プロ」としての仕事
を果たして、後に続く人たちの目標や憧れ、すなわち手本にならな
くちゃいけない。

ゆえに、自らが憧れの存在に近づきたいと願う人は、たとえば、大
きな「才能」と比類なき「気概」があったとして、どちらかを選ば
なければならないのなら、迷わず「気概」を選ぶべきだと思う。

それこそが文化を育て、世の中を支える力となるから。

勝利の女神は、最後は「気概」に微笑む。
 
(了)


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