3444.給付つき税額控除とベーシック・インカム



給付つき税額控除とベーシック・インカム

この給付つき税額控除を民主党政権が検討していると聞いて、ベー
シック・インカム論(ダグラス論)が復活したような印象を受けた。
                   Fより

このベーシックインカム論は、ゲゼル研究会のMLで知ったが、そ
の後、いろいろな議論が起きている。一部をコラムで紹介しておき
たい。

まずは、ベーシック・インカムについて、関さんの講演会議事録を
転載したい。
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「生きるための経済」:ベーシック・インカム
― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―
http://bijp.net/transcript/article/27

メルトダウンに向かう経済

 話し手:関 曠野さん1944年生まれ。評論家(思想史)。

共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活
動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向け
てアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義
』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイ
エ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、
『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(
講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・
べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャッ
クのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも、関です。寒い中を私の話を聴きにお集まりいただきまして
、ありがとうございます。

私はかねてから日本の世論に訴えたいことがありました。それがこ
のように話す機会を与えられまして、しかもこれほどの方々に集ま
っていただいた。これはやはり日本という国が変わる徴候ではなか
ろうか、そういう感じがしております。それで、今日はみなさま方
にはお聴き慣れない話も出てきますので、あらかじめポイントを少
し話しておきたいと思います。

まず第一に、私たちの置かれている状況は不況ではなくて恐慌だと
いうことです。不況と恐慌はどう違うかということでは経済学者の
間でもいろいろ意見があるようですが、私の見方では、不況という
のは資本主義のシャックリやくしゃみのようなもので、企業の在庫
調整で片が付く。これに対し、恐慌は資本主義の原理的な矛盾や欠
陥に起因するもので、その矛盾や欠陥にラディカルに取り組むこと
なしにはどうにも解決しないものである。これが第一ですね。

第二にそのような資本主義の矛盾や欠陥を正せる方策は、私の考え
では今日のお話ですけれど、ただひとつしかない。ベーシック・イ
ンカム。すべての国民に一律無条件に生涯にわたり一定の基本所得
を保証すること。そしてもう一つは信用を社会化すること。

この信用の社会化というのはどういうことかはおいおい話させて頂
きます。

ただ私がこう言ってもですね、世界の政府はどこでも今の事態は不
況だといっている。恐慌と言いません。相変わらず recession だと
言っている。

これには誤魔化している、現実から逃げているという面もあるんで
しょうが、それだけじゃなくて政策能力に問題があると思うんです。
つまり不況だと言っている限りはパターンの不況対策をやって、
それを政策に見せかける。公共事業とか利下げとか。これが恐慌だ
ということになれば、何をしていいか分からない。それでこれは不
況だ不況だと言い張って、その結果としてオバマ政権であろうがど
この政府であろうが、やっている政策は何の効果もないどころか、
むしろ事態を悪化させている。

はっきり言って世界経済はどん底に向かっている。恐慌と言うより
はむしろメルトダウンと言っていい状況だと思います。しかし目下
の事態が恐慌である証拠に、かつて1930年代に恐慌の見事な分析を
行ったジョン・メイナード・ケインズの名が復活してきております。
ところがどうも私から見ますと、ケインズの一番つまらない側面、
景気刺激策として一次的に赤字公共事業をやって……というような
ケインズの一番つまらない面だけが評価されていて、ケインズのラ
ディカルで面白い面は相変わらず忘れ去られたままであると思って
います。

ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」と
リッチマン革命
 ジョン・メイナード・ケインズ1883-1946
このケインズのことを話の皮きりにしたいんですが、1930年代の大
恐慌のさなか、ケインズはスペインのマドリードで珍しく一般人相
手の講演を行いました。「我々の孫たちの経済的諸可能性」という
講演です。その中で彼はどういうことを言っているかと言うと、
まず人間のニーズ、欲求を2種類に分けます。一つは絶対的欲求、
つまり衣食住などの基本的な要求です。もう一つは相対的欲求。
これは基本的に人に差を付けたい欲求。お前はカローラだけれど俺
はベンツだみたいな、そういう他人に差を付けたい見栄とか見せび
らかしに関係した欲求です。そして1930年代においては、未だに産
業革命は完了していないと彼は考えていた。ですから彼は今しばら
く貪欲というものはそれなりの役目を果たすであろうと言っていま
す。しかし我々の孫たちの時代においては、人間は経済というもの
に関心がなくなるだろう、基本的欲求の充足はもう何ら問題でなく
なって、おそらく我々の孫たちは経済には関心がなくなり、芸術や
学問など文化的な活動に忙しいだろうと言っています。

ところがこのケインズの死後、1960年代に先進国では若者の反乱が
ありました。あの若者たちは丁度ケインズの孫の世代に当たります。
彼ら60年代の反乱する若者はゲバラや毛沢東を引用しましたけれど
も、彼らの思想と行動はむしろケインズによって説明できる。つま
りは当時の若者たちのメッセージは、もうこんな豊かさはたくさん
だ! この管理社会、この抑圧、この差別、この競争を代償とした
皮相な豊かさはもうたくさんだ! 人間らしい感性豊かな生活をし
たい。それが60年代の若者たちのメッセージであったように思いま
す。その点ではケインズの予測は的中したと言っていいのではなか
ろうか。

そして60年代の反乱の後の1970年代、この時代はいろいろな意味で
巨大な転機の時代でありました。

ケインズは、自分たちの孫の代には資本主義は老衰で安楽死するだ
ろうと考えていたわけですが、実際資本主義の安楽死を予感させる
ような状況が生まれてきました。

つまり市場の飽和、技術革新の停滞、資源と環境の危機と言う形で
、資本主義の成長の限界がはっきり表面化してきた。そして思想家
としてもイリッチやシューマッハーのような人の著作が熱心に読ま
れました。さらに70年代から全世界的に先進国の企業の収益が低下
し始め、今なおこの収益低下が続いております。かつての活力を企
業は二度と取り戻せないように見えます。それが現在の恐慌まで行
き着いてしまったと言える。しかし資本主義がこのまま安楽死する
かと思ったらあにはからんや、1980年以降、レーガンとサッチャー
によってこの資本主義の停滞と混迷に対する悪あがき的な富裕層の
反撃が始まりました。

この反撃については、新自由主義とか市場原理主義とか、サプライ
サイド経済とか、いろんな言葉が使われていますが、一番わかりや
すい言い方はリッチマン革命でしょう。

金持ちの贅沢と安楽への要求を突破口、経済の刺激剤にし、それで
経済を活性化する。庶民にはいわゆるトリクルダウンで少しは富裕
層のおこぼれが滴り落ちるはずだというレトリックで富裕層や大企
業に対する優遇を正当化した。ところがこのリッチマン革命は見事
に挫折しました。ケインズ自身は良き古き英国紳士だったので、人
に差を付けたいという欲求だけで動く経済がありうるとは夢にも思
わなかった。だが1980年代以降の先進国の経済はまさにケインズの
いう相対的欲求、人に差をつけたいという欲求で動く経済でした。
しかしそんなことではやはり経済は回って行かなかった。そしてレ
ーガン時代にアメリカは世界最大の債務国に転落し、貧富の差が拡
大し、さらにグローバル化によってアメリカ国内の産業は空洞化す
るという状況になりました。といってその後のクリントンにせよブ
ッシュにせよ、レーガンからの方針転換をやったわけではない。結
局レーガン革命の延長線上であれこれバブルを起こして何とかレー
ガン路線を復活させようとしてきた。そこでバブルをあれこれ起こ
した挙句、3度目の正直で今度の住宅バブルでこけたということだと
思います。

現代は過剰資本の時代
してみると1970年代に資本主義はやはり安楽死を迎えていたのでは
ないだろうか。それを変な悪あがきをしたものだから、この恐慌と
言う形で悶死状態に陥るという……その悶死状態に我々は巻き込ま
れちゃってる、そうみた方がいいんじゃないか。それではケインズ
はなぜ資本主義が安楽死すると予想したのか。

資本主義とは要するに資本が貴重なものである経済システムのこと
です。資本がありふれたいくらでもあるものだったら、それは資本
主義ではなくなってしまう。資本が貴重ということは、それが常に
不足気味だということですね。どんどん拡大する市場があり斬新な
技術革新があって一攫千金の素晴らしい投資のチャンスがあるのに
、それに比して資本が乏しい。経済学用語風にいえば、資本の希少
性(scarcity)ということになりますが、それが資本主義を成立させ
ている。産業革命期には資本家はやたらに儲かった。儲かる以上は
誰でも資本が欲しいので、資本の希少性、不足が生じていた。とこ
ろがケインズの孫たちの時代になると経済は完全投資(fullinvestment)
の状態になる。投資すべきものはすべて投資されてしまい人間の基
本的欲望はほとんど満たされてしまって、資本には価値がなくなる。
言ってみれば資本は空気や水のようなありふれたものになってしま
う。そういう状況を彼は想定していたんです。そして今の恐慌は資
本の過剰から生じています。

もう人間の必要はほとんど充たされてしまった経済状況の中で使い
途のない資本をどうするか。今の経済は過剰資本の処理で困ってい
る。かつてマルクスが描いた産業革命の時代には資本が不足してい
て、そのせいで資本家による労働者の搾取ということが起きました。
だが現代は反対で、資本の過剰が恐慌の原因になっている。その点
では、資本の不足がえげつない資本家を生んでいた時代の「蟹工船
」と言った小説、今読んでもあまり意味ないと思います。時代錯誤
じゃないですかね(会場笑い)。

むしろ現代社会を考える上での重要な視角は完全投資ということで
しょう。新規の大規模な投資のチャンスが消滅してしまった。こう
いう完全投資と過剰資本の時代を分析した点ではケインズは正しか
ったと思いますが、他方で私はケインズに対して異論があります。
今しばらくは産業革命を推進しなければいけないという彼の議論に
は大変疑問があるのです。私の本来の分野は金融論・経済ではなく
て歴史学ですので、歴史と言う観点からみますと疑問がある。

産業革命が人類をそれまでの衣食住にも事欠くような貧困から救い
だしたことは否定できない。しかしそういう destitution というか
、人々が衣食住にも事欠き、しかも不衛生な生活をしている窮乏状
態を解消するという産業革命の使命は20世紀初頭ぐらいまでに達成
されていたのではないか。というのも人間の基本的な欲求というも
のははたかが知れたものだからです。多分20世紀初めくらいまでに
人間の基本的欲求はほぼ満たされる状況が成立していたのではない
か。それならそれ以降資本主義は何をやってきたか。産業革命の使
命が果たされてしまったので以後は、無駄なものを作る、がらくた
、贅沢品を作る、危険な兵器などを作る。こういう状態の資本主義
になったんですね。これが20世紀が戦争と環境破壊の世紀になった
根本原因であります。

そういう意味でケインズの見方は間違っている、すでに20世紀の初
頭に産業革命がほぼ完了し、資本が過剰になる時代が始まっていた
と私は考えます。

クリフォード・ヒュー・ダグラスという人物
そして今日の問題は資本が過剰になっているのに、資本が不足だっ
た時代の制度が恐竜のように生き残っていることなんです。それが
現代の根本問題で、その最も典型的な例が銀行なんです。資本がも
う不足じゃない時代に、ことさら資本を貴重なもの、不足している
ものとして演出しているのが銀行です。そういう銀行のパワーをど
のようにして解体するか。それを考えた人が今日お話しするスコッ
トランド出身の始めはエンジニアだったクリフォード・ヒュー・ダ
グラスという人であります。

彼の思想は、社会信用論(Social credit)と呼ばれています。その社
会信用論の一環をなすものとして彼はベーシック・インカムを提唱
し、それを今日のベーシック・インカムをめぐる論議には見られな
い徹底した理論的・経済的根拠を持って基礎づけています。この人
は1890年(※他の資料では1879年とのこと)くらいに生まれて、1952
年に死んでいます。世代的にはアメリカの制度派経済学者のソース
タイン・ヴェブレンとほぼ同世代で、ヴェブレンに大変共感を持っ
ていた。この二人は時代を批判する視点を共有していたのです。
ただヴェブレンは当時のアメリカ資本主義の大変辛辣な批評をした
だけですけれども、ダグラスは金融資本のパワーを解体するための
思想と運動を作り出した。

 クリフォード・ヒュー・ダグラス社会信用論を提唱。1879年マンチ
ェスター郊外の町ストックポートに生まれた。ケンブリッジ大学で
数学の名誉学位取得後、優秀なエンジニアとしてインド、南米で活
躍。イギリスの地下鉄建設に携わった後、第一次大戦中に王立航空
機工場の工場長補佐を務める。これらのプロジェクト管理の経験か
ら生産資本の流れにおける矛盾に気づき、「A+B理論」を着想。論
壇誌に次々に論文を発表し、社会信用論へと結実した。世界恐慌時
代に一躍注目を集め、世界各地で講演活動や政策提言を行った。
1952年9月29日スコットランドの自宅にて没する。

このダグラスという人がベーシック・インカムを史上はじめて提唱
した人です。昨今はドイツのヴェルナーなどの本が訳されて、日本
でもベーシック・インカムという言葉がだいぶ人口に膾炙してきま
した。しかし忘れられているダグラスこそが最初にそれを提唱し、
それも単なる人道的発想からではなくて、資本主義の原理的分析に
基づいて提唱した人です。

まずどういう人かと言うことを紹介しますと、彼はケンブリッジ大
学に行きましたが大学がつくづく嫌になって中退してしまった。
しかし優秀なエンジニアになりインドやアメリカのウェスティング
ハウス社などで働き英国の地下鉄の自動化装置とか様々なプロジェ
クトに携わりました。この人が第一次世界大戦中に空軍の大佐とし
てファーンボローの航空機生産工場の会計監査の仕事をやって、
その時に企業の会計にはいろいろおかしな点があることに気づいた
んです。最初に彼が発見したことは、労働者は企業から賃金給与配
当を貰うけれどもそれでは絶対に企業が生産したものを総体として
買い取れないということでした。労働者が生産したものの価格は労
働者の所得をはるかに上回るということを発見した。これはどうも
おかしいというので、100以上の工場の会計を調査しましたが、どこ
へ行っても同じで、労働者の所得の総体は決して消費にまわって商
品の総体を買い取ることができない。価格と所得の間、生産と消費
の間にとんでもないギャップがある。なぜそんなギャップが発生す
るのかを研究して彼は社会信用論に行き着いたのです。

しかしダグラスはですね、エンジニア出身で学会などにいた人では
ありませんので経済学者などからは変人奇人扱いで相手にされなか
ったんです。一部の社会主義の雑誌が彼のエッセイを載せてくれる
ぐらいだった。

ところがそこへ1929年の大恐慌が発生して、ダグラスの言うことは
すべてあたっていたということになった。

それで出し抜けに世界的な脚光を浴びまして、ダグラスは「経済思
想におけるアインシュタイン」と言われ、カナダや英国の議会で証
言したり報告書を提出したり、ニュージーランドの財政改革案を作
ったりしています。日本にも国際会議で来ています。戦前には彼の
著書も邦訳が出ています。英国以外でもアメリカ・カナダ・ニュー
ジーランド・オーストラリアなど英語圏で彼の支持者は非常に多く
て、そこから彼の社会信用論は社会信用運動に発展していきました。
また彼の社会信用論は文学者にも共感をもって迎えられ、T.S.エリ
オットやエズラ・バウンドなどが信奉者でした。それからチャップ
リンがダグラスの本を読んであわてて手持ちの株と債券を全部処分
し、おかげで大恐慌による被害を免れたという話もあります。

先ほどお話したケインズのラディカルで面白いところは、ほとんど
このダグラスの剽窃と言っていいんですね。ただエリート経済学者
なのに堂々とダグラスを剽窃し、変人奇人扱いしないでダグラスの
言っていることの正しさを認めたという点ではケインズという人は
やっぱり偉かったんでしょうね。ケインズは友人にあてた私信でも
「文明の未来はダグラスかマルクスかによって決定されるだろう。
そして自分はマルクスは嫌いだ」と書いているそうです。

ところが大恐慌時代にこれほど脚光を浴び注目されたダグラスは大
戦後には全く忘れられた人になってしまった。喉もと過ぎればって
いうことなんでしょうね。恐慌がうやむやな形で大戦によって終わ
ったものですから、ダグラスは一気に忘れられた人になってしまっ
た。私自身もダグラスの名前を知ったのは、ケインズの「雇用、利
子および貨幣の一般理論」の最後のところで彼の名前が出てくるか
らです。それで初めてこういう人がいたのかと思った。

過剰資本を視野においたダグラスの社会信用論
そこでこれからダグラスの思想と理論について話していきたいと思
いますが、所得保証論は彼の信用社会化論、ないし社会信用論、そ
の一環として出てくるものです。

先に申したように人間の基本的で強烈な衣食住の欲求が満たされて
しまうと資本は過剰になってしまう。この資本の過剰を作り出した
ひとつの要因は市場の飽和ですが、もうひとつは19世紀末以来産業
のオートメ化が進んだということがあります。オートメ化が人間の
基本的な欲求を効率的にどんどん満たしてしまう。その意味ではオ
ートメ化は基本的には結構なことです。ダグラスも「オートメの製
品は味気ないと言うけれど歯ブラシや鉛筆とかそんなものを手仕事
で作ってどんな意味があるのか」と言っています。オートメ化でき
るものはどんどんオートメ化すべきだ。オートメ化が進むことによ
って、人間はつらい、単調な労働から解放されるのであると。問題
はむしろオートメーションがちっともそれに見合う恩恵を庶民にも
たらしていない、豊かさをもたらしていないことです。逆に人々を
機械による失業などで苦しめる形になってしまっている。こうして
豊かさの中の貧困というべき現実が生じている。

ダグラスがこういう議論をしていた20世紀の初頭でさえオートメ化
が相当進行していたわけですが、いろいろな研究によると現代では
オートメ技術をフルに活用するなら全労働人口の四分の一程度です
べての生産ができてしまうようですね。ですから大半の現代人は潜
在的失業者であるわけです。この事実を見据えないと、「雇用を守
れ」とか言ったって、どうしようもないですね。そしてダグラスは
、現代においてはオートメーションと市場の飽和、基本的欲求の充
足により生産の問題はすでに解決した、現在の問題は分配であると
主張します。

ところが相変わらず生産の時代を演出して分配の問題の解決を妨げ
るパワーが存在する。資本が過剰な時代に、ことさら資本を貴重な
ものにしたがるパワーが存在する。それが金融資本なんです。その
金融資本が企業には資本が足りない、労働者には所得が足りないと
いう状況を演出していることを彼は徹底的に問題にするわけです。
ですからなぜ豊富の中の貧困という事態が発生するのかは、金融機
関、銀行が何をしているのかという問題を抜きにしては説明できな
いのです。このように銀行というものを徹底的に問題にしたことが
彼が忘れられ黙殺された一因でもあります。経済学者はダグラスの
名前を知っていても口にしない。そういう状況は今でも続いていま
す。

経済学者というのは間接的に銀行に雇われているんですね。マルク
ス系の人は別にして。そう思わざるを得ません。それならば、まず
銀行と、銀行を可能にしているマネーの在り方、それを変革しなけ
ればならない。

しかしダグラスの場合、マルクスとはまったく違って彼は個人の自
由を思想の根本に置き、市場も企業も否定しません。しかも全体と
して見ると、富が効率よく最も望ましい形で社会的に分配される、
そういうシステムを彼は考えたわけです。ですから、まず金融資本
、資本過剰の時代に資本不足を演出している銀行と言うものについ
て議論をしたいと思います。先ほど申し上げたように、銀行はジュ
ラシックパークの恐竜みたいなものです。つまり資本が不足だった
産業革命初期の時代とか、その前の英国が植民帝国になってイング
ランド銀行が出来た17世紀、そういう過去の遺産を時代錯誤的に背
負っている恐竜です。

銀行制度の歴史
そこで銀行制度の歴史ですが、1694年に英国でイングランド銀行が
創設され、その後できた世界の銀行は大方このイングランド銀行が
モデルになっております。

イングランド銀行創設のきっかけは、英国とフランスの戦争です。
この当時から国家間戦争の戦費は巨額なものになってきて、王の税
金徴収能力だけではもうそれを調達することができなくなった。そ
こで英国王はロンドンの金貸しから借金することにした。金貸しと
は金細工師のことです。彼らは金を人から預かっていて、その預か
り証を紙幣として流通させて金融業をやっていた。そして国王は彼
らから金を借りて、その代りに彼ら民間金融業者に公認の通貨を発
行する権利を授けた。王と金貸しが一種の癒着をやったのです。

こうして銀行なるものは国家が金貸しに借金するという形で始まっ
た。銀行は銀行券を発行する特権を王から与えられたのですが名前
がイングランド銀行なので、それはあたかも国家の紙幣であるかの
ように見えます。けれども、実際は銀行の、銀行による、銀行のた
めのマネーなんですね、これは。今の日本銀行でも、アメリカ連邦
準備銀行でもどこでも、銀行にはそういうカラクリがあるんです。

これは大変不思議なことと言えます。たとえば、ローマのコインを
見てください。皇帝の肖像が刻んでありますよ。どこでも通貨とい
うものは為政者が発行するのが決まりだった。日本だってそうです。
世界中そうでした。なぜ、イングランドに限って国家が銀行から金
を借りて見返りに銀行に通貨発行の特権を与えるという妙なことが
起きたのか。それは当時の英国の歴史的事情に起因していると思い
ます。宗教戦争の後、英国王は税金を集める能力を失ってきた。近
代戦の戦費を調達できるような税金調達能力がなくなっていた。
一方ではロンドンの金融業者は王とは比較にならないほどリッチに
なってきて、事実上イングランド王国の陰の支配者になっていた。
その結果、私利私欲で動いている銀行がまるで公的機関のような顔
をするようになり、しかもそれが全世界の銀行のモデルになってし
まった。それに加えて17世紀以降の英国経済は巨額の長期的投資を
必要としていました。

例えば英国の場合は、カリブ海地域に植民地をつくりプランテーシ
ョンで黒人奴隷を使って砂糖やタバコを栽培してそれをヨーロッパ
に運んで売ればぼろ儲けができました。しかしこういうことは大事
業ですから、長期的な膨大な投資が必要であって銀行のレベルでな
いとその資本は調達できないということがあったでしょう。さらに
産業革命期になると企業はどんどん製造過程を機械化し設備投資す
る。これには大変金がかかって、やっぱり銀行から融資を受けない
とやっていけない。

幻のマネーが経済を動かしている(信用創造)
そこで銀行は何をしているのかを改めて考えてみたいんですが、ま
ず、銀行の特徴は fractional banking 、部分準備制度にあります。
つまり銀行は預かっている預金の何倍ものお金を貸し出していると
いうことです。だいたい8倍から10倍は普通ですからね。これが今の
金融危機の焦点になっているデリバティブだとベースの50倍から80
倍という例もあるようです。

そんなの一旦不良債権になってしまうとメガバンクでも返せません。
それからもう一つの特徴は、信用の創造、無からの幻のマネーので
っちあげです。例えばAさんが銀行に100万円預金したとする。そこ
にBさんがやってきて銀行から企業の運転資金を100万円借りたとす
る。しかし銀行の帳簿をみると、Bさんに100万円を貸したからと言
って、Aさんの預金を帳簿から削ったりしていない。それは相変わら
ず帳簿上に残っているんです。そしてBさんに100万円貸したことが
銀行の資産として帳簿に載っている。そういうことで、預金を右か
ら左に動かすような事をしないで無から新しい金を創り出している。

つまりBさんに貸した金は銀行が帳簿の上で無からつくり出した金な
のです。Aさんの預金とは実は関係ないわけです。しかもBさんに貸
した金は、Bさんには気の重い負債でも銀行にとっては期限内に利子
付きで戻ってくる資産になる。そういうかたちで銀行は信用を創造
する、クリエーションする。無から信用というものを作り出す。

してみると銀行は、有りもしないものを売って丸儲けしているとも
言える。言ってみれば空気を売って儲けているみたいなもので、こ
れは詐欺の一種じゃないか。実際銀行業には詐欺の要素がありまし
て、アメリカのテキサス州は20世紀の初めまで銀行業を不道徳なビ
ジネスとして禁止しておりました。不動産屋は家を買いたい人と売
りたい人を仲介して、その手数料で食っている。不動産屋が有りも
しない物件を売ったら直ちに詐欺で御用でしょう。ところが銀行は
有りもしないマネーを売って、しかもその影響力で影の政府にまで
なってしまっている。こんなおかしなことはありません。

部分準備制度ということは、銀行マネーははじめから幻のマネー、
不良債権だということです。しかもそれが経済を動かしている。な
ぜこういう無からの信用の創造という詐欺まがいのことが可能なの
か。

銀行信用の功罪とは
そこで考えてください。人々が協力してアソシエイトし結合して何
かを始めると個人個人ではできない新しい富が生まれてくるもので
す。ひとりではせいぜい何か小さな木工品しか作れない。1,000人が
一緒になれば自動車でも飛行機でも何でも作れる。そうした協力と
結合から生まれる富というものがある。銀行は言わばそういう富を
くすねている。人々の協力と結合から新規の富が生まれる過程を私
的に横領している。寄生虫的に横領している。

だから「無からの創造」が怪しからんのではなく、私的横領が怪し
からんのです。そして銀行は負債の網の目で社会を覆いつくす。し
かもこの銀行信用こそ社会を組織するもっとも強力な力であります。
銀行こそ隠れた政府であります。というのも、我々がスーパーのレ
ジで支払いに使っているような紙幣や硬貨は実際は経済を動かして
いるマネーの数パーセントを構成しているにすぎません。実際の経
済を動かしているお金は、ほとんど銀行信用であって、お金の90パ
ーセント以上は銀行マネーです。現代経済は銀行から借りたお金、
負債で動いている。もっと正確に言うと負債を返済する義務で動い
ている。もしもですが、国家も企業も個人も銀行からの負債を100パ
ーセント返しちゃったとします。すると経済は一瞬の間に全面的に
ストップしてしまう。そういう経済です。現代経済というのは。

そして人間は誰でも借金というものは嫌なんですけど、銀行にとっ
てはこれは逆なので、銀行にとっては他人の負債が資産である。だ
から日本国家に800兆の負債があるということは銀行にとっては大変
な資産なわけで、これは返してもらっては困るんですね。永遠に国
を借金漬けのままにしておいて利子を払ってほしいわけです。千円
札や一万円札など日本銀行券というのがありますが、日銀の帳簿で
みるとあれは負債等なんです。負の帳簿につけているんですよ。日
銀券が負の帳簿というのはおかしいように見えますが、銀行にとっ
ては紙幣・カレンシー・通貨の本質は負債であるということを日銀
券は象徴しているのだ思います。

しかも実際の日銀券を裏付けているのは、日銀の持っている日本国
の国債です。それ以外にも日銀は金とかいろいろ持っていますが。
国債というのが最大の財産です。国債というのは要するに納税者を
人質に取った借金証書ですから。納税者を人質に取った国家の借金
、それが日銀券の価値を裏付けているとも言えるわけです。

しかもそれに利子がついているわけですね。利子をつけて返さない
といけない負債。しかも場合によっては複利でとんでもない額にど
んどん増えていく。そういう利子つきの負債。

利子の性質は現実にそぐわない
この利子とは大変不思議なものです。利子というものは一旦決まっ
たらもう変わらない。

企業は利潤追求でよく批判されるけれども、利潤は市場の動向で増
えたり減ったりします。ところが利子にはそんなことは無い。絶対
に変わりません。何があろうと。自然界に似たようなもの、物理法
則で似たようなものは全くありません。ですから「阪神大震災で俺
のマンションつぶれちゃったから利子を負けてくれ、住宅ローンの
利子を負けてくれ」と言っても銀行は認めません。この絶えず増大
するだけで絶対減ることの無い利子というもの。これがある意味で
果てしない経済成長というものの根本要因です。利子を廃止しない
かぎり環境にやさしい経済なんてできないでしょう。それから近代
国家の特徴として銀行からの借金で食うようになったということが
ある。国家は銀行に国債を買ってもらう。それが税金以外の国家の
財源になっている。

もしも国家に税金しか財源が無かったら、国家は税収の枠内でそこ
そこにやるしかない。ところが銀行に国債を売ってカネが入るとな
ると、国家はこれで勝手なことができるようになる。もちろん国債
は借金だけれど、そんなものは納税者にツケを回せばいい。だから
国債の発行が近代国家のやりたい放題の運営を可能にしていると言
えます。そして利子つきの負債である銀行信用が、経済の中でます
ます大きな割合を占めてくると、その分だけお金が不足してくる。
つまり自由に使える流通するお金が減ってくる。利子付き負債とい
うマイナスのお金が自由に使えるお金の量を制限してくる。人々が
自由に利用できるマネーの量を制限し、それによって、企業にとっ
ても庶民にとっても資本を貴重な常に不足しがちなものにする。そ
れが銀行という商売のカラクリなのです。ではどうしたら、そうい
う銀行の罠に嵌らずにマネーを潤沢に供給されるものにできるのか。

パブリック・カレンシー(公共通貨)
第一に必要なのは、利子付き負債というものをなくすことでしょう。
利子付き負債で動いている経済を解消する。それから、絶えず新し
い富を生み出す人々の結合と協力を象徴するような、そういう通貨
を作りだす。

その場合、それは人民の結合と協力から生まれる通貨ですから、公
共の通貨として国家が発行することになる。銀行券ではなく日本国
紙幣です。そしてその公共通貨による融資には利子は付けない。付
けるとしても事務的な経費に充てるためのごく僅かな利子がつくだ
けです。当然そういう通貨でも借りたら国に元本は返さないといけ
ませんが、銀行のように他人の負債を増やすことを目的として発行
される通貨ではありません。

そういう社会の合意と協力の徴である通貨を作り出す必要がある。
それがダグラスの社会信用論から出てくる、第一の結論です。

しかも歴史上は、このように国家が直接通貨を発行することは、古
代では普通のことであり、近代でもその例はざらにあります。

たとえばアメリカでは、独立革命以前の時代にペンシルベニア州が
そうした通貨を発行し、そのお陰で州の経済は大いに繁栄しました。
フランクリンはアメリカの植民地が繁栄している理由を訊かれて、
それはこの通貨制度のお陰であり、英本国の方は皆銀行からの借金
で喘いでいるけれどアメリカ人民は借金に無縁だと言ったそうです。
一説では、それで困ったイングランド銀行が英国政府に圧力をかけ
て植民地を重税で締め付けようとし、この通貨制度をめぐる争いが
アメリカ革命の一因になったそうです。その後も、例えば南北戦争
が勃発した際に北部には膨大な戦費の調達が必要となり、リンカー
ンがそれをヨーロッパの銀行から調達しようとしたら、足元を見ら
れ30から40パーセントとかそういう利子を吹っかけられた。そこで
リンカーンはグリーンバックという政府通貨を発行することにした。
この英断のお陰で北部は南北戦争を戦い抜くことができ何の問題も
おきなかった。

ただ、リンカーンの暗殺にはこの通貨改革が絡んでいるという説も
あります。今世紀に入ってからでは、ジョン・F・ケネディが連邦銀
行が勝手に民間資本として通貨を発行しているのはおかしいと考え、
政府通貨を発行する計画をたて準備しているところで暗殺されてし
まった。これも通貨改革がらみという説があります。

日本の場合は、明治政府の太政官札、あれは政府貨幣ですよね。ま
た戦前に高橋是清内閣が大恐慌の時代に国債の日銀引き受けという
ことをやった。これは日銀と日銀券をそのまま使っていますが、政
府貨幣の発行と事実上は同じことです。この政策で日本は、各国の
中でもいち早く恐慌から脱却することができた。ただこの日本の例
を見ると、太政官札は暴走インフレを起こしてしまった。高橋是清
の政策は、ダグラスも、「私の言う政府発行貨幣とちょっと似てい
るな」って言っていますが、折角これで恐慌から回復した経済力は
日中戦争に注ぎ込まれてしまった。

だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公
共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を
反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること
、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のよ
うに、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出
てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきた
けれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキが
かかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイデ
ィアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思って
いるのなら、とんでもない話です。

ダグラスのA+B理論
それでは銀行と企業の関係はどうなのか。先に申しましたように産
業革命以来、生産の機械化、オートメ化が進み、それまで家内工業
だった企業がいわゆる機械制大工業に変貌して膨大な設備投資が必
要になりました。これは企業自身の資金では無理なので企業は銀行
から融資を受けるようになり、こうして金融業界が実体経済に介入
するようになった。その結果何が起きたかをダグラスは問題にする
わけです。

この環境では、たとえ大企業であろうと、もう銀行なしに企業の経
営はありえません。どの企業でも銀行に負債を負っています、今中
小企業に対する銀行の貸し渋りが問題になっていますが、銀行が大
企業に優先的に融資するから、中小企業に資金が回ってこないわけ
ですね。逆に言うとそれくらい大企業だって銀行を頼りにしている。

トヨタの無借金経営とかあれはデマですからね。大企業であればあ
るほど相当内部留保があるにしたって、設備投資や研究開発や市場
の開拓のために銀行からの融資が必要です。

そしてダグラスは第一次大戦中に企業会計の現場を経験する中で経
済に一体何が起こっているのかを発見した。生産コストは常に労働
者に対する賃金や給料をはるかに上回る、一国の商品の総価格は勤
労者の総所得を上回るので勤労者は所得=購買力の不足に悩まされ
るということを発見した。この事実をダグラスはA+B定理として定
式化しました。このA+B定理で彼は基本的には単純なことを言って
いるのです。

彼はまず企業の生産コストをAとBに分けるAは労働者の賃金とか、給
料とかでこれは人々の所得になり購買力になる。ついでにいうとこ
の購買力(purchasing power)もダグラスが作った言葉です。Bという
のは減価償却費とか、銀行への負債の返済、他の企業への支払いな
どです。そのほかいろいろな外部費用、取引先の接待とか。そうす
ると小学生でも分かることですけれども、AよりA+Bの方が大きい。
だから労働者は決して企業が生産した生産物の総体を買うことがで
きない、ということです。これが商品の価格になるとこの生産コス
トのA+Bにさらに利潤がつく。ところがダグラスは利潤のことは大
して問題にしていません。利潤はせいぜい企業会計の3%とか5%くら
いもので、それが勤労者を苦しめているとはいえない。企業への金
融の介入、これが問題なんだと彼は言っている。ところで皆さんは
、AよりはA+Bの方が大きいのは当たり前じゃないかと思われるでし
ょう。

人件費とか労務費とかは企業の総経費の中のほんの一部に過ぎない
ということは当たり前じゃないかと。しかるに20世紀の初めの英国
では、これは決して当たり前ではなかったのです。スミスやリカド
ゥの古典経済学がまだ幅を利かせていて、生産は必ず所得になって
労働者はそれによって商品を自由に買って消費するとされていまし
た。というのも古典経済学は独立自営農民などを経済のモデルにし
ていたからです。だからそれは後の機械制大工業には全く当てはま
らない議論なのに、それがまかり通っていた。ダグラスはそれが時
代錯誤の議論であることを指摘した。

ただしダグラスが真に問題にしているのは、Aより A+Bの方が大きい
という単純な事実ではなく、マネーの流れです。時間と共に生産費
用の中でAに対してBの比重がどんどん増える、逆に言うとAの比重が
どんどん減っていくという構造を明るみに出したのです。

労働者に払われる賃金は銀行ローン
企業の製品というのは様々な中間段階を経て、最終製品になる。例
えば自動車をつくるためには、まず鉄鋼やガラスやプラスチックを
生産しなければならない。中間段階の製品を作っている企業は消費
者に関係なしに生産してるわけです。だがそういう企業の生産費用
も最終的には消費者が買う商品の価格に全部転嫁され、そこに集積
されている。そういう何段もの段階を経て、最終製品になるような
高度な工業製品は、その分だけBの部分をどんどん増やしAの部分を
減らすことになる。

それから、労働者に給料を払うということの意味です。5月分の給料
をもらうとする。その5月分の給料で労働者は実は何ヶ月も前に出荷
され販売された既存の商品を買っている。ところが企業は現在進行
中の労働者の作業に給料を払っているわけです。この進行中の作業
を企業は投資活動としてやっているのであって、その投資活動の一
環として雇用があって労働者が働いている。しかも企業の投資活動
のかなりの部分が銀行からのローンに基づいている。

とすれば労働者に払われる賃金も実際にはかなり銀行からのローン
である。だから労働者は一生懸命働いて自分の労働の成果として給
料があると思っているけれど、実際はローン生活者みたいなものな
んですね。そして労働者が賃金をもらってそれで商品を買うと、そ
れを生産した企業の収益のかなりの部分は銀行に負債の返済で戻り
ます。そうするとなんのことはない、労働者はローンで暮らしてい
て、しかも商品を買うことで銀行にローンを返済していることにな
る。銀行ばかりが肥え太り労働者の境遇は一向に良くならない。そ
ういうことになっている。これは銀行の融資によって成立している
企業活動のいわば宿命でしょう。

もちろん企業の収益はみんな銀行への返済に充てられのではなく企
業の内部留保に充てられる分もあるでしょうが、それを企業は再投
資に使うでしょうから、これも勤労者の所得や購買力にはなりませ
ん。こういう形で労働者は、働けば働くほど、商品を買えば買うほ
ど自分を追い詰めていく。といっても、労働者が賃金をもらって消
費者として商品を買ってくれることだけが企業にとって市場である
わけです。だから労働者の所得が減ったら企業自身も販売不振に苦
しむというジレンマがある。この問題をどう解決するのか。

消費ギャップをいかに埋めるか
このギャップをまたまた銀行からの借金で埋めるというのがひとつ
の手です。そうなると、企業自体も蟻地獄に嵌ったみたいなもので
、金融化経済の矛盾をさらに銀行信用で埋めていくことになってい
く。もうひとつは、貿易ですね。商品を輸出する。輸出で黒字にな
って外国の市場でもぎ取ってきた金というのは、銀行資本とは関係
ない、利子も負債も関係ない、もろのゲンナマですから自由に使え
る。こんなおいしい話はない。だからどの国の企業も貿易戦争で勝
って輸出で儲けようと必死になる、ということです。してみると輸
出!輸出!貿易!貿易!と騒ぐということは、いかに企業自体の内
部矛盾、労働者の所得は減る一方、設備投資などで負債は増える一
方という矛盾が拡大しているかの証拠です。

このA+B定理からするととにかく、勤労者の購買力は驚く程限られ
ている。ダグラスは、生産諸経費が価格の形をとり、それでいろい
ろな要素が消費者に転嫁されると、実際の勤労者の購買力は実質的
な企業会計の数パーセントにすぎないのではないかと言っています。

その限られた購買力を奪い合わねばならないので、企業は激烈な競
争をすることになる。購買力が限られていることが競争の主要な原
因です。資本・購買力・マネーの不足のせいで企業間で激烈な競争
が展開されることになります。それでも労働者の賃金以外に商品が
売れて捌ける経路はありませんから、労働者がその賃金、給料で企
業が何ヶ月も前に作った商品ならなんとか買えるようにしておかな
いと企業は破綻してしまう。どうしたらいいのか。

絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命
絶えざる生産の拡大。生産さえ拡大していけば、それに付随して労
働者におこぼれで回る部分が ある程度増える。企業が拡大すれば
その分だけAの部分が名目上は多少絶対的に増える形にはなる。こう
いうことから、企業は絶えざる生産の拡大に駆り立てられる。そう
いう意味では経済成長というのは、近代企業の宿命なんですね。
そしてA+B定理の矛盾がありながら企業がすぐに潰れずに生き延び恐
慌が直ちに起きない理由もそこにあります。絶えざる経済成長で名
目賃金は多少上がり、しかも勤労者は何ヶ月も前に生産されたもの
を買っているので、それが矛盾を多少は緩和します。だがそれだけ
に、経済成長がストップすると直ちに深刻な不況や恐慌が発生しま
す。

しかし生産の拡大といっても、消費者が欲しがっているものは、ほ
とんどすべてもう作ってしまっている。では企業は何をやるか。苦
し紛れにガラクタを作る、贅沢品を作る、全くの浪費でしかないも
のを作る、危険なものを作る。それが今の企業がやっていること。
しかしながら、企業にはどっちかというと銀行の被害者の側面もあ
るわけです。銀行から金を借りちゃったんで、こういうことをやら
ざるを得なくなってしまう。企業自身も利子付き負債というものに
悩まされている。

根本問題は、マネーが、生産や消費の現実とは全く無関係に銀行の
金融的利益になるかどうかという尺度で融資されていることにあり
ます。もちろん銀行も融資先の査定はやるでしょうが、結局銀行の
そろばん勘定だけが肝心なのです。こういう形で銀行は、マネーを
発行する権利を独占している。そしてマネーに見合う需要を作りだ
すような形でマネーを発行していない。現実の需要を見極めたうえ
でそれに見合う形でマネーを発行するということをやっていない。

しかも銀行の論理、利子付き負債の論理でマネーを発行し、企業に
貸している。その結果として企業においては負債の累積的増大があ
り、労働者においては所得の継続的減少がある。これをいろいろ誤
魔化したり、先送りしたりする手はありまして、だから簡単には破
局にはならないんですけれども、根本的にはこの構造は変わりません。

この構造を解消するためには、負債経済、利子付き負債を返済する
義務に基づく経済と縁を切って別のマネーの流れを作り出す必要が
あります。それから今言った、企業の投資によって雇用が産まれ、
その雇用によってしか所得が生じない、しかもその労働者の所得だ
けが商品が買われ消費される経路であるというジレンマがあるわけ
ですね。

労働による所得は雇用によって生まれ、雇用は企業の投資から生ま
れ、投資の背景には銀行の融資がある。この連鎖を断ち切らなけれ
ば、人々は所得不足、企業は販売不振に苦しむ状況はいつまでたっ
ても変わらないでしょう。ということは、雇用と所得を一定程度切
り離す必要があるということです。雇用と所得を切り離して人々の
購買力を保証する必要がある。そうしないと経済は恐慌になってし
まう。このように負債経済を解体すること、その一環として雇用と
所得を切り離して円滑なマネーの流れを作り出すこと、これが社会
信用論の課題であります。

適正な価格の形成
ここでこれまでの話を一旦まとめましょう。理解して頂きたいのは
、ダグラスが問題にしているのは「労働者の搾取」といったことで
はなく、市場経済の要である「価格の形成」であることです。

まず、生産はあくまで人々の消費のためにあります。だから経済は
生産と消費がプラスマイナスゼロで過剰生産とか過少消費がないこ
とが望ましい。それゆえに価格は、それによって生産と消費が均衡
するようなものであるべきなのです。ところがダグラスが実際の商
品の価格を調べてみたら、その大部分を構成しているのは生産設備
の減価償却費や銀行への返済や将来に備えた研究開発費などで、労
働者の賃金給与は僅かなものでしかなかった。つまり機械制大工業
の時代には、価格は需要と供給の均衡によって自ずと決まるという
古典経済学の説はもう通用しないのです。

そしてこの価格の歪みという問題の解決策は市場の中から自然に出
てくることはない。というのも、その根本原因は、銀行が自分の金
融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右してい
ることにあるからです。

そして負債経済を解消する方策としては、国家による通貨の発行、
パブリック・カレンシー、公共通貨を発行し企業その他に利子なし
で融資するということでいいわけです。他方で雇用と所得を一定程
度切り離さないと、近代企業経済はそのジレンマから抜け出せない。
そしてこの切り離しをやるための方策が、ベーシック・インカムで
あるわけです。

国民配当と文化的遺産(カルチュラルヘリテージ)
ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当
(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なん
だと。どういう意味で配当なのかというと、まず、社会の結合と協
力から新しい富が生まれるんだということですね。

個々人の労働の成果とか対価ということではなくて、人々が結合し
協力すること自体から新しい富が生まれる。そうした富は言うなら
ば、共通の富のプールをなしている。その共通のプールから富をも
らう、引き出す権利は誰にでもある筈だということなのです。それ
は誰がどれくらい懸命に働いたかとか、そういうことには関係なが
ない。しかし生産は個々人の労働能力の結果や成果であると考えて
いるかぎり、この発想は出てこないでしょう。富とは共通のプール
をなすものという発想がないとね。そこでダグラスの独特の主張な
んですが、彼は文化的遺産、カルチュラルヘリテージというものを
強調します。これは彼のエンジニアとしての現場体験から出てきた
認識です。

彼によると、生産の90%は道具とプロセスの問題で、労働者の能力は
大した役割を演じていない。道具とプロセスが生産というものを大
方決定している。そうならば生産を決定しているのは共同体の文化
的な遺産や伝統にほかならない。道具や知識や技術は、そうした遺
産や伝統である。人類は何万年もかけて、そういう知識と技術の膨
大な蓄積を行ってきたのであり、だから現代人は改めて火の使い方
を学んだり、車輪を発明したりする必要はない。過去の何千という
世代が蓄積したものを我々は享受しているのでありまして、すべて
の人間は人類のそうした偉大な文化的遺産の相続人である。そうい
う相続人として配当をもらう権利があると彼は言っています。

富というものは、共通の富のプールとして人々の協力と結合から生
まれると同時に、文化的遺産として過去の諸世代もその創造に関わ
っている。そういう認識が国民配当を正当化します。

それからこれは私の個人的考えなのですが、自然は驚くべき富を人
類に与えながら何の見返りも要求していない。その意味では、富は
神ないし自然からの人類への贈り物と考えるべきです。宗教の安息
日という習慣は、富は人間の労働の成果ではなく神の贈り物である
ことを忘れないためにあるものです。こういう思想も国民配当を正
当化するひとつの論拠になると思います。それから先に申しました
ように、国民配当で人々への所得、購買力を保証しないかぎり、経
済は恐慌になっちゃう。現に恐慌になっています。だから恐慌を予
防する経済的方策ということも国民配当を正当化する理論的な論拠
になります。

この国民配当は内容的にはまさにベーシック・インカムのことです
が、この国民配当という言い方のほうがいいと私は思うんですね。
ベーシック・インカム、基礎所得保証という言い方をすると、通常
「所得」は雇用や労働に結びついている観念なので、何で働かない
でそんな所得をもらえるんだと反発や疑問が出てくる。その点、国
民配当という言い方だと、より分かりやすく受け入れられやすいの
ではないか。

もっともこれは社会信用論の立場に立たないと出てこない、ヴェル
ナーなんかの所得保証論からは出てこない言葉かもしれません。つ
まりこの言葉には、こういう配当をやらないと資本主義は恐慌で崩
壊してしまうという含意があるのです。

社会信用論とベーシック・インカム
ところで昨今は日本でもヴェルナーなどの本も翻訳され、ベーシッ
ク・インカムという言葉がかなり広まってきました。ただ、従来の
ベーシック・インカム論議は、どうも論拠とか思想的根拠がもやも
やしていて曖昧なんですね。

人道的な配慮からやることなのか、福祉国家を完成させるものなの
か、それとも福祉とは別のものなのか。そういうことがはっきりし
ていない。その点では社会信用論においては、所得保証をやらない
と恐慌になるという理論的にはっきりした論拠があるわけです。そ
してベーシック・インカム論の論拠に関しては様々な人が様々なこ
とを言っていますが、ダグラスの社会信用論の究極の目的は、銀行
と大企業の高度に組織された権力、影響力から個人を守り個人の自
由を確立することです。ですから個人の人格の自由な発展という思
想こそが社会信用論の、いわば哲学的基礎と言えるでしょう。

ところで、これまでのベーシック・インカムをめぐる議論は、必ず
財源の問題で躓いてきました。

これを所得税でやるとすると、まず足りないでしょう。膨大な費用
がかかりますから。それに所得税でやったら、ベーシック・インカ
ムとは金持ちのカネをむしって貧乏人にばらまく階級闘争だと思わ
れて非常にぎすぎすした社会になる。それでは、消費税でやったら
どうかというのがドイツのヴェルナーの意見ですが、とんでもない
率の消費税になってしまう(会場笑い)。せっかく所得を保証され
ても、商品が高すぎて何も買えない。ところが社会信用論に立脚す
るなら、財源の問題は一切心配する必要はないんです。パブリック
・カレンシーでやりますから。しかし、これは紙幣を勝手気ままに
じゃんじゃん刷ってばらまくということじゃない。生産能力があり
、人民の必要ないし需要があって、その統計データを踏まえて通貨
を発行して企業に融資するならば、経済は順調にまわっていきます。

「財源が難問」という発想は、国家の収入源は税金と国債しかない
という発想から出てくるものなのです。とにかく公共通貨で基礎所
得保証をやるならば財源のことは考えなくていい。その場合に問題
になるのは、庶民がそれを通貨として受け取るかどうかということ
だけです。しかし折角所得を保証をしてくれる通貨なのに、馴染み
のないお札だから受け取らないという人はいるでしょうか。みんな
喜んで受け取るんじゃないでしょうか。福沢諭吉の日銀券じゃなく
て、なにか別の図柄のお札だったとしても。そういうことで、財源
の問題は心配しなくてよろしい。

「所得への権利」という思想
しかしながら所得というものについては我々はまだまだ古い考え方
にとらわれておりまして、所得は雇用によってしか得られないもの
という考え方は日本の世論の中に深く根を張っています。

雇用による以外に富を分配できなかった過去の時代の発想という点
では自民党も共産党も似たようなもので、だから口をそろえて「雇
用を守れ」と騒ぐ。しかし現代という時代が要請しているのは「雇
用を守れ」というスローガンではなく、「所得への権利」という思
想なのです。そもそも企業の使命は消費者に良質の商品を効率よく
提供することであって、雇用を維持することではありません。従業
員の雇用を守るために材料費を削って粗悪な製品を作る企業を世間
は認めるでしょうか。そしてマネーこそまさに「先立つもの」で、
所得があってこそ潜在的需要が有効需要になって市場が活性化する。
そこで企業活動も活発になって雇用が拡大する。だから「まず雇用
を守れ」というのは全くの本末転倒なのです。

もちろん目の前に派遣切りで失業した人がいたら私だって何とか就
職口を斡旋してあげたいと思うでしょう。しかし経済システムを全
体として分析してみれば、雇用至上主義はまったく間違ったナンセ
ンスな立場でしかありません。

そして冒頭で申し上げたケインズの言葉ではありませんが、基礎所
得が保証されたらビジネスはやらずに芸術や学問や文化活動に携わ
る、そうした人たちがいっぱい出てきて、どこに問題がありますか。
そういう人たちは購買力で経済に貢献してくれればいいんです。そ
ういう文化で社会に貢献する人々こそ真の国力を作り上げるであり
ましょう。有能でバリバリ働く人が環境を破壊し社会の存続を危う
くしている、それが現代という時代です(会場笑い)。

やっぱり我々はマネーというものに対する呪物崇拝に陥っているの
ですね。報道で、定額給付金をもらったおばあちゃんが神棚に給付
金を祀ったという話がありましたね(会場笑い)。しかるにダグラ
スはマネーを切符に喩えています。

生活インフラとしてのマネー
鉄道の切符を買ってそれを神棚に祀る人はいないでしょう。切符は
それを使って電車に乗って移動するためのものです。お金もそうし
たもので、あくまで自分の欲する財やサービスを円滑に手に入れる
ための手段、その目的で富の分配を効率よくやるための手段である。

ダグラスがA+B定理で言っていることの根本はそこにあります。マ
ネーは本来分配の手段であるのに銀行の利益がそれを生産の手段に
しちゃっているから、企業にとっても労働者にとっても次々におか
しなことが起きてくるということです。

つまり現代においては生産の問題はすでに解決している。今日の問
題は分配であり、それゆえにマネーを分配の手段として考える視点
が必要である。そうしてこそマネーというものを客観的に、サイエ
ンティフィックに考察できる。そういう意味でマネーは切符のよう
なもの、経済生活に参加して社会から排除されないための切符なの
です。これを逆に言えば、現代の「貧困」とはたんにビンボーとい
うことではなくて、社会から排除され人間として否認されているこ
となのです。

別の言い方をするならば、現代においてはマネーは一種の生活イン
フラ、電気や水道のような生活インフラだということです。それを
呪物崇拝で、マネーとは何か神秘的な力を発揮する力や特権の源泉
と思う、そういう発想は根本的に間違っています。結局マネーを価
値を保蔵する手段とみなすこと自体が呪物崇拝なのです。そういう
意味で、人民が合意した公共の利益に基づいて発行される公共通貨
ならびに国民配当は、マネーを人々の生活インフラに変えていくた
めの制度です。もちろんチャンスがあったら商売をして儲けること
は否定されていません。しかしマネーはそれ以前に基本的に生活イ
ンフラでないと困るということです。さもないと経済がおかしくな
ります。

社会信用による資本の分散化
この点では社会信用論を資本の集中か分散かという観点から捉える
こともできます。

英国が東インド会社を創設して海洋商業に乗り出した17世紀、さら
に産業革命が進展した19世紀以降の時代には、資本の巨大な集中が
必要でした。銀行は資本を集中させる目的で作られた制度なのです。
日銀や連邦準銀が「中央」銀行と呼ばれるのは、そこに資本が集中
しているからです。しかし今のような資本過剰の時代に資本を集中
させておくと、資本はウオール街のカジノ資本主義の元手になって
世界経済のメルトダウンを惹き起こします。これに対しベーシック
・インカムは資本を個人という究極の単位にまで徹底的に分散させ
、それによって経済を安定させるものと言うことができます。

といっても、パブリック・カレンシーの発行には同意してもベーシ
ック・インカムには反発する人が多いだろうと思います。思うに、
働かないで所得をもらうのはおかしいと言う人たちはね、お金とい
うものを「報い」だと思っているんですよ。報い。辛い苦しいこと
に耐えてね(会場笑い)、その報いとしてお金を授かるという。人
生は辛い、悲しいものと思っている人たち。人生は楽しむべきもの
と考えない人たちが、雇用によらずに所得があるのはおかしいと言
うのではないか。

社会信用論の三つの支柱
ところでダグラスは、国民配当、ないしベーシック・インカムだけ
で民衆の購買力を確保できるとは考えていませんでした。社会信用
論には、実は三つの支柱があります。

公共通貨 = パブリック・カレンシー 
国民配当 = ベーシック・インカム 
正当価格 = ジャスト・プライス 
パブリック・カレンシーがひとつですね。それから国民配当。そし
て三つめの支柱として正当価格・ジャスト・プライスというものが
あります。これはどういうことかというと、それによって生産と消
費が均衡するような価格だけが「正当」な価格だということです。
具体的に言うと、例えば直前の四半期の日本経済の国民経済計算を
やってみて、仮に、生産の総計が100、消費の総計が75だったとしま
す。すると25%の消費ギャップがあります。これをどうやって埋める
か。それならこのギャップに等しい割合で小売価格を一律に引き下
げたらいい。販売部門ですべての商品の価格を25%ディスカウントす
る。それによって価格は生産と消費の均衡を表すものになります。

といっても小売部門をいじめて損をさせようということではありま
せん。小売部門は売上伝票をとっておいて、国家は割り引きした25%
の分を後で小売部門に対して補償します。だからダグラスはこのジ
ャスト・プライスのことを補償される割引(compensated discount)
とも呼んでいます。これは消費税とは180度反対のものですね。

こういう形でやって(以下の図3を参照)、販売部門に関しては売れ
ば売るほど儲かるという商業の論理は否定されていません。ただ価
格をつり上げることで儲けることが否定されている。このディスカ
ウントによって消費と生産が均衡し、インフレが起きなくなります。
そしてこの正当価格によって、すでにベーシック・インカムで補強
された庶民の購買力がさらに強化される、拡大される。そういう意
味では正当価格はいわば消費保証の措置とも言えるでしょう。消費
保証であり、また小売部門に対する所得保証でもある。

この三つの支柱が組み合わさることで、生産と消費が完全に均衡し
通貨が円滑に流れて経済の動脈硬化の原因になったりしない経済が
可能になると彼は言っています。ところが社会信用論を「要するに
おカネのばら撒きだ」と誤解して受け取って、そんなことをやると
暴走インフレが起きると心配する人がいます。もともとインフレや
デフレ、不況や恐慌は銀行が実体経済の生産や消費とは無関係に自
分の都合でおカネを出したり引っ込めたりすることが原因で起きる
ものです。社会信用論では、通貨はあくまで国民経済の潜在的な生
産と消費の能力を示す統計データの集計、分析、予測に基づいて供
給されます。

ですから経済がもしもインフレ気味になったとしたら、それはデー
タに誤認があるか分析に誤謬があるせいです。だからどこに誤認や
誤謬があったのかを検討して政策の再調整をやればインフレは解消
する筈です。これはいわば気象庁が天気予報の修正をやるようなも
のです。

社会クレジットの資本フロー
これまでお話ししてきたことをちょっと図式(図(1)〜(3))にしま
す。

図1:社会信用論の基本構図
図2:通貨の発行 生産の目的は消費である。 通貨はこのことを円滑
に実現するために発行される。 即ち通貨は、(1)人々の間の潜在的
需要をマネーに裏打ちされた有効需要に変え、(2)消費のための生産
を促進する目的で供給される。 その発行は直前の四半期の国民経済
計算のデータに基づき、企業と一人ひとりの国民に供給される。
図3:通貨の回収 生産の目的は消費なのだから、経済においては生
産と消費が均衡して、プラスマイナス・ゼロであることが望ましい。
 そこで、国家は勤労者/消費者に対し所得保証を実施するだけでな
く、需要ギャップが生じた場合には、それに等しい割合で小売価格を
一律に引き下げることを小売り部門に要請する。 そして、割り引い
た分は、後で国立銀行によって小売部門に補償される。

私のまとめ方がまずいので、分かりにくい方もおられると思います
ので、ダグラスは通貨の管理をやる部局をナショナル・クレジット
・オフィス、国家信用局と言っていますが、一応、国立銀行と書き
ましょう。日銀と違います。これは本当の国立銀行です。公共貨幣
を発行しそれを利子なしで融資します。この公共通貨は、教育や医
療や公共インフラの整備といった、公共性の高いものにもちろん融
資されますけれども、問題は、これと企業の関係ですね。

企業に対しても公共通貨は無利子で融資される。企業はそれで自分
の好きな商品を作っていい、儲かると思ったものを作っていい。企
業が出荷した商品は、問屋を経て小売りに行く。これは生産の面で
す。

一方企業は自分のところで働いている労働者に賃金を払う。勤労者
はその賃金をもって小売部門に買い物に行って消費者になる。小売
り段階で生産と消費が出会う。しかし勤労者に対しては国民配当が
、月に10万なら10万出ています。その一方で小売商は衣料品を売り
たいので、国立銀行から商品を仕入れるために1,000万円を当座貸し
越しで借りるとします。そして衣料品をディスカウントした正当価
格で売る。それから小売商は売り上げ金の中から無利子で借りた資
金を銀行に返す。国立銀行の方はその際にディスカウントした分を
小売商に補償します。

これによってインフレは起きないし庶民の購買力は確保される。
人々は買った商品の代金を小売店に支払う、小売店はそれで企業か
ら出荷された商品の代金を払うと共に銀行に仕入れの資金を返済し
、企業は小売から来た代金で国に融資された資金を返済する。これ
が通貨が回収される過程になります。お金の流れは完全に生産と消
費のリズムに一致していて、それに即して通貨が供給され、回収さ
れる。だから経済のどこにおいても、マネーが滞留して経済が動脈
硬化を起こすことがない。すべては絶えず順調に流れるようになっ
ています。

重要なことは、こうして通貨が潤滑油になって経済が順調なサイク
ルを形づくって回っていくことであります。これが社会信用論のポ
イントだと考えていただいて結構です。ところでベーシック・イン
カムをやるとするなら、その額はどれくらいが妥当かがいろいろ議
論されています。私の考えでは、社会信用論に立脚するならば国民
経済計算から引き出されるある程度客観性のある支給額の目安が存
在するように思います。

たとえば、今のアメリカで社会信用運動を代表しているリチャード
・クックという人がいます。この人は最近オバマ大統領にクック・
プランというアメリカ経済の再建案を送ったのですが、まあ、オバ
マが相手にしてくれる可能性はゼロでしょう。このプランで彼はす
べてのアメリカ人に月10万円。子どもには5万円のベーシック・イン
カムを支給することを提案しています。これに要する総費用が3兆6
千億ドルで、丁度アメリカ人の個人負債の総計に等しいそうです。
だから彼の案は、アメリカの勤労者が所得不足をクレジットカード
などのローンで補ってきたことを反映しているわけです。日本の家
計の場合はアメリカほどのローン地獄ではないので、クックと同じ
論理を使うわけにはいきませんが。

とにかくベーシック・インカムが月50万円ではインフレになっちゃ
うし、月1万じゃ経済循環の支えになる役目を果たさない、やはり
どこかに目安があるだろうと思います。

財政赤字解消、社会信用による公共事業、税金の廃止
それからパブリック・カレンシー、公共通貨の問題ですけれども、
これをきちんと制度化できれば、日本国の800兆といわれる財政赤字
をぜんぶチャラにできます。というのも、先ほど言いましたように
、マネーというのは、人がマネーと思って受け取れば、石ころでも
木の葉でもマネーになるわけです。そうすると、この公共通貨で所
得保証ということになれば、みんなそれを喜んで受け取ると思うん
ですね。みんなが受け取ったら、それはもう流通しちゃったんで、
立派なマネーなんです。

そうなったら銀行も拒否できない。しかも日銀券と兌換性をもつよ
うなマネーとして発行すれば、銀行も当然取引対象に使う。そうす
ると、銀行がもっている膨大な日本国国債を順次公共通貨で買い取
ってチャラにすることが可能になる。銀行にしてみれば自分の資産
が減ることになるから、抵抗するでしょうが。もっとも一挙に800兆
を返したら経済が大混乱するから段階的に返済ということになるで
しょう。

それから、公共事業を社会信用論でやるとしたらどうなるか。

かりにどこかの自治体が橋をつくることになり、業者が入札すると
します。A、B、C、Dという業者が入札して、Aが10億円で落としたと
します。そこでAは国から無利子でこの橋の工事をやるための資金を
融資してもらう。そして橋が竣工したら自治体がAに10億円を払う。
Aはそれで当座借越していた資金を国に返済する。そして橋に高い公
共性が認められたら国はそれを自治体に回す。結果的には国が直接
自治体に融資したのとほぼ同じことですが、入札の可能性を組み込
んで自由経済と公共通貨を両立させる。

ただこの先に減価償却費という問題が出てきます。何十年か経つと
橋が痛んでくるので建て替える必要が出てくる。その減価償却費が
たとえば毎年500万円だとします。それをどうするか。住民から税金
を徴収してそれで賄うか。しかし先に言った正当価格という方策が
ある。この500万円の分だけ正当価格を上げて増収分を公共事業関係
費に充てればいい。25%のディスカウントなら、それをたとえば24%
にして増収分で公共事業の減価償却費を払ってしまうということで
す。その結果、じゃんじゃか公共事業をやると、すぐに物価に響い
てくることになります。そうなると、公共事業のあり方について人
民はきわめて敏感になるのではないでしょうか。

それから先ほど国の財政赤字をチャラにできると言いましたが、将
来パブリック・カレンシーがきちんと制度化されたなら税金という
ものを基本的になくすことができます。税金は政府の人民に対する
強盗行為みたいなもので、本来あってはならないものだと思います。
要するに税金は弱いものいじめの制度です。金持ちにはいくらでも
脱税や財産隠しの手がある。大企業はどれほど法人税を課されても
、それを商品の価格に転嫁してしまう。その一方でサラリーマンは
給与から天引きで源泉徴収、そのうえ会社からの帰りに憂さ晴らし
に居酒屋で飲むビールや焼酎も税金のかたまり。これではまるで中
世の農奴です。

それでは税金をなくすにはどうすればいいか。教育医療インフラの
整備など現代国家の公共サービスはどれほど金食い虫でも手抜きや
縮小は許されません。そこでですが、先ほどまで公共通貨は無利子
で融資されると申しましたが、これに1〜2%の利子を付けて、それを
国家の収入源にしたらどうか。公共通貨による融資は国民経済の大
動脈をなしているので、たとえ1〜2%の利子でも国の収入は膨大なも
のになる筈です。そしてこの方策には税金と違って不正や不公平と
いうことが全然ありません。

実はこの方策には実例が現存しています。アメリカの北ダコタ州に
は北ダコタ銀行という20世紀始めに西部の農民運動が生み出したア
メリカで唯一の州立の銀行があります。これは地域経済の繁栄と発
展のために創設された銀行で、今のアメリカのメガバンクの危機の
中でもビクともしていません。そしてこの銀行の利子収入は州政府
の収入になります。そのお陰でアメリカ50州のうち46州がほぼ破産
状態なのに北ダコタ州の財政は黒字です。この実例をみても、国家
の収入源が税金と国債ということがいかに経済と政治を根本から歪
めているかが分かります。

衆知を結集したプランづくりを
それから最後に強調しておきたいことは、ベーシック・インカムに
せよ公共通貨の発行にせよ、いざ実施するとなるとそのやり方は国
情や歴史の違いゆえに国毎に千差万別になるだろうということです。
だから私がみなさんに関プランというものを出して押しつけること
はできません。

 会場には120名以上の市民が詰めかけた。参加者のなかには小沢修
司さん(京都府立大学教授)、田中康夫さん(新党日本代表)、曽
我逸郎さん(長野県中川村村長)の姿も。(後ほど公開予定の質疑
応答参照)
日本の国情にいちばん適して、みんなが望む案はどういうものか衆
知を集めて考えるしかありません。公共通貨、国民配当、正当価格
、この三つの原則さえ守れば具体的なやり方はいろいろある。です
から、今日会場で資料をお渡ししましたのも、家に帰ってから資料
を読んでいただき、どういうやり方がいいか、みなさんなり、グル
ープなりで考えていただきたいからなんです。

たとえばです、公共通貨で企業に融資するとして、公共性の高い企
業に融資するのはいいけれど、パチンコ屋に融資するかどうか、ち
ょっと考えちゃうと思うんです。といっても、パチンコ屋が庶民の
娯楽であることも否定できない。融資しないのもおかしいのではな
いか。ですから、もし公共通貨が実現したとしても、民間銀行に一
定の役割はあるだろうと私は考えております。しかし部分準備制度
に基づいて無から幻のマネーを作り出すことは絶対に認めてはいけ
ない。これが諸悪の根源なんですから。あくまで預かっている預金
を必要な人に貸して手数料を稼ぐだけの堅実なマネーの仲介業者で
あってほしい。他方で、民間銀行なんかなくしてしまえ、国立銀行
と公共通貨一本やりでいいんだという考え方もありうる。

さっき、リチャード・クックについて言及しましたが、彼のクック
プランでは、月10万円ほどのベーシック・インカムを紙幣でなくバ
ウチャーで配ることになっています。ベーシック・インカムはあく
まで衣食住に使ってもらいたい、酒や博打に使われちゃ困るからバ
ウチャーでやる、ということなんです。私としてはベーシック・イ
ンカムを酒や博打に使う人がいたって構わないじゃないかと思うの
で、バウチャーでやるというのはきついなあと感じます。それはと
にかく、これもやり方がいろいろある一例です。

それから、公共通貨の発行にしても、そのために国立銀行を新たに
つくるのか。日銀なり日銀券をそのまま残して中身を換骨奪胎して
やるという手法もありえます。だから社会信用論の具体的なあり方
は、歴史と国情に即して実に多様なものになります。

社会変革の道具としてのベーシック・インカム
ここで私個人の考えを申し上げますと、日本という国には明治維新
以来の東京一極集中という一大害悪があると思います。東京だけが
グローバル都市になり地方は植民地化されてきました。今はもう植
民地どころではなく棄民地域みたいになっている地方もある。それ
だけに地方が再生すれば、その農業、地場産業、中小企業なりが再
生すれば、そこから新しい形の経済、たぶんよりエコロジカルな経
済が誕生するでありましょう。

そう考えると、ベーシック・インカムを実施する際には首都圏を5年
くらい所得保証の対象からはずしたらどうだろうと(会場笑い)、
そうすれば、地方に行けば基礎所得が保証されるというので、首都
圏に集中している人口、とくに若年層がどっと地方に移動して、自
動的に人返しができる。

たとえば東京のサラリーマンで、できれば脱サラして地方で有機農
業をやりたいと思っているような人。しかし農業でそれなりに自立
するには10年やそこらかかるでしょう。ベーシック・インカムがあ
れば、その間安心して農業の習得に専念できる。そして地方に若者
が来る、人が来る、それだけで需要が生まれ、ビジネスが生まれま
す。だから首都圏は一定期間保証の対象からはずした方がいいとい
うのが私の意見です(会場笑い)。

まあ私の案に皆さんが賛成するかどうかは別にして、ベーシック・
インカムはこんな風に社会の変革にも使えるということはとても大
事なことだと思います。

皆さんもお分かりのように、目下の経済危機はたんに経済的なもの
ではありません。恐慌に加えて地球の温暖化や原油生産の逓減とい
うダブルパンチになっています。これはいわゆる“緑のニューディ
ール”で太陽光発電を普及させたくらいでは到底乗り切れない危機
、文明の転換点だと言っていいと思います。こういう転機には、学
者や役人はもう頼りになりません、文明の転換のためには、無数の
無名の人々が草の根レベルで試行錯誤して新しい生き方を模索する
ことが必要でしょう。そしてベーシック・インカムは、そうした人
々がいろいろな実験を試みることを容易にします。失敗や挫折を恐
れない生き方を可能にします。

ベーシック・インカムというと、雇用や所得をめぐる不安がなくな
るというその福祉効果に我々は気をとられがちなのですが、社会的
な実験が容易になることにその最も重要な意義があることを強調し
ておきたいと思います。

党派を越えた議論に期待
締めくくりにあと二点ばかり申し上げたいことがあります。とにか
くベーシック・インカムは決して党派的な主張にしてはならない。
戦前の社会信用運動が挫折した理由のひとつが、なまじカナダでダ
グラスの議論が大評判になって党派ができちゃったことなんです。
社会信用党という党が結成され、しかもそれがアルバータ州で政権
の座に就いた。ところが州政府の権力を握ったのはいいけれど、結
局社会信用運動の名に値することは何もやらなかった。そして最後
には世論に一種の右翼政党とみなされてしまった。ダグラスは当初
はこの党に助言していましたが、すぐに見切りをつけ批判の文章を
書いています。そのような苦い経験があるわけです。

ベーシック・インカム、公共通貨、正当価格は、理性と良識に基づ
く超党派のポリシーでなければならない。これには、財界人でも賛
成する人がいるかもしれないし、貧乏人でも絶対反対という人がい
るかもしれません。とにかくこれはイデオロギーとか階級階層の問
題ではないと思います。

まず社会信用論についてネットなどを駆使して世論を啓発する。そ
して説得と討論、ひたすら理性と良識に基づく説得と討論に頼るし
かないのです。その点で、社会信用運動はまさにデモクラシーの実
践そのものです。それに、考えてみてください。社会信用論を実行
して損をする人は誰もいないのです。個人も家庭も企業も国家も、
みんな得をします。まあ銀行だけは損をするかもしれません。しか
し銀行だって恐慌で破産するよりは堅実な地域銀行として生き延び
た方がましでしょう。

ただし現在の歪んだ社会構造のお陰で個人的に権勢や特権を享受し
ている権力亡者だけは、自分の地位と影響力の低下を恐れて反対す
るでしょう。しかし反対する人たちの大部分は、たんに論理がよく
呑み込めていないだけでしょう。

そして締めくくりとして皆さんに申し上げたいことは、現代はもう
右翼か左翼かの時代ではないということです。全く別の焦点が生じ
ているのです。所得は雇用によってのみ生じるものなのか、それと
も人間の基本的な自然権、ナチュラルライツに属するのかという焦
点です。

現代社会は今後、この焦点をめぐって揺れ動くことになるでしょう。
そして問題をさらに掘り下げてみると、これはマネーについての考
え方の対立であることが分かります。マネーは特権と権力の行使を
可能にする神秘的な呪力を発揮するものという考え方。そうではな
くて、マネーは万人が人間らしい生活を自由に享受するために社会
の連帯から生まれた生活インフラの一種であり、マネーによって人
間は美しく楽しい不安なき人生を生きることができるという考え方
。この二つの考え方の対立なのです。

そして現に、これは時代の争点になってきています。オバマ・ブー
ムのアメリカでも、経済危機が深まる中で社会信用論に近い主張を
掲げる動きが随分広がってきています。連邦準備銀行を廃止せよ、
ベーシック・インカムを実施せよ、という議論は少なくともオンラ
イン・メディアではすでにありふれたものになっています。そして
アメリカ人は、アメリカで最初にベーシック・インカムの実現を訴
えたのは公民権運動の偉大な指導者マーチン・ルーサー・キング牧
師であったことを思い起こしています。日本でも似たような動きが
連鎖反応のように広がる可能性があると思います。それにこそ期待
しております。

そして冒頭に申し上げましたように我々が直面している現実が恐慌
であるとするなら、恐慌は社会信用論が提示した三つの方策、公共
通貨、国民配当、正当価格、とくに最初の二つですね、これによる
以外に解決されることはないであろうと確信しております。

どうも、たいへん時間をオーバーしてしまいました。申し訳ありま
せん。ご静聴ありがとうございました。(拍手)



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