3443.政治とは論理ではなく、力で動く



論理と力。政治とは論理ではなく、力で動く。 虚風老 
   
 
さて、政治を知るためには、論理ではわからない。
政治を読み解くのは力学であるといえるじゃろう。

戦争とは政治の延長であるといいたのはクラウンゼッツであったが、
政治を利害の調整であるとするとき、戦争はその利害の調整を<む
き出しの暴力>によって行う=自分の意志を強制的に物理的手段を
用いて、相手に及ぼすことであるといえるじゃろう。

政治においては、<むき出しの暴力>というのが抑制されているだ
けで、力学的な手法があることはかわりがない。そこには、<威し
>や<すかし=利益誘導>、<説得や世論を見方につける=世論誘
導ともいう>などの方法=戦術がある。議会制民主主義では、多数
決という力学が最後にはものをいい。それを形成するために<選挙
>というものがあるわけじゃ。

この場合<力>の源泉になっておるのは、欲望にほかならない。
これが、自立的な意思をもたない、物体どうしの運動ならば、保有
するエネルギーの関係にしたがうわけじゃ。

国際政治もまた力学によっておる。
例えば、核廃絶の利益の思惑にしたって、アメリカと日本ではまっ
たく違ったところから出発しておる。
アメリカが最重要とするのは、比較的優位それも圧倒的な差を維持
しつづけることにある。
そこでは、核が拡散していき、小国や敵対国、テロリスト(国家に
依拠しない武装グループ)などが核を持つことが優位条件を掘り崩
す一番の問題になる。そこで他の集団が核を持つ可能性をできるた
け押えたい。(これはイスラエルにもあてはまる。自分だけがもっ
ていてイスラム諸国に持たせないというのが優位を維持する最善の
方法じゃからの)
他国が核を持たないことが、アメリカの圧倒的な比較優位という現
状を温存させるからである。

逆に日本の場合は、日本の立場が持っている様々の理由を勘案する
と、現実的には核を保有することはできない。(日本国内にある反
核の心理・核実験場など物理的理由。核を持つことは、日米同盟を
離脱させることになるので、米国の強行な反対。周辺国の強力な反
対。核を配備するための膨大な予算、人員の配備の困難)
だとすると、できるだけ核の脅威を世界的に下げておかなければな
らない。そこでマイナス側にみんな(まだ核を持っていない国)を
固定させる。核廃絶が戦略となる。(まあ、核戦争が人類滅亡につ
ながるという崇高な理念でもってみているとしてもじゃ)

核の先制不使用にアメリカはのってこないのは、核を持っていない
国にはなんの縛りにもならず。核を保有する国だけが縛られるから
である。

政治の力の源泉はそれぞれのモノがその政策から受ける利害に関し
ての<欲望>であるというのがぶっちゃけた話しだ。「それで、オ
レ・わたしはどんな儲けになるの?」それが、大衆民主主義なので
ある。だから、まわりまわって社会的な正義が行われてみんなが少
しずつハッピイになるというより、直接的な利害が政治を見る焦点
になる。

そういう場所では、どうゆうふうに<利益>がもたらされるのかを
納得させる必要になるわけじゃ。
対外的にはどういう<不利益>がもたらされるかと脅すことの方が
多い。
アメリカはいつも日本を脅しておるじゃろう。自分が怯えるほど、
相手の威しは効くわけじゃ。日本はもっと肚を据えて、ことに当た
らなければならない。最終的にはそれが益になる。目先のことに右
往左往してはならない。
肚を据えるというのは、硬くなることではない。むしろすずやかに
なり無手勝つ流にたって、穏やかになることじゃ。
何も恐れること無く、何モノにも誘惑されない。そういう静かな境
地にたって、自己を存立させていく。そこで自己がやるべきことと
決めたことを行う。そういうことじゃ。

あからさまに言えば、各議員政治家が、地元の意見とか、業界の要
望という名前のもとに、欲望を汲み上げ、それをおなじような要望
をもっている人結束して、党をつくる。それが政党政治にほかなら
ない。
ただ、今では各個の欲望は(業界の要望をのぞけば)あまり束とし
て顕在化されていない。
千差万別なのである。そこでそこから欲求の「層」を取出して、
それに訴えかける方法が取られる。公共事業は「業界」とその近辺
の要望とは一致するが、個々の欲求に直接結びついているのがみえ
ない。より「身近な差し迫った要求」にその予算を振り向けて欲し
いと考えるじゃろう。

政治とはこれらの欲望が生み出す利害関係を調整する機能である。
そして、大枠で、全体としての経済・社会・外交安全保障などの政
策におとしこみ、結果として生命財産がもっともよく守られるかを
考える業である。

その決定力が権力であり。力の行使である。

小沢は甘くない。政策の整合性など信じておらん。最終的には国会
での数が<力>が決定力なのを知っておる。そして、田中=竹下(
経世会)というもっとも、族議員として自民党政治を支配した場所
を誰よりも熟知しているからこそ、党内に族議員ができて、分派活
動が起こるるのを極力できないような策をとっている。党の政調部
会を無くしたのも、議員立法を封じたのも、党税調がないのもその
ためである。

政治とはまさしく闘争である、そこで勝ち抜くのは正当にみえる論
理の力ではなく、<力業>なんじゃということを押えておく必要が
ある。そして、力を付与するのが、説得(大衆を)にあるというこ
とも事実である。

力を持たない政治は絵に描いたモチじゃ。

           虚風老
 


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