公というのを自分自身の中に持たなければならない。 虚風老 さて、ちょっくら、酔いがさめたところで、話しをもどしてみよ うかの。 計画主義というのは、限られた前提と目的でもった、単純化された 論理にもttかっておるということじゃ。 しかし、現象的な現実というのは、あらゆる関係性の総体であり、 複雑系のたまものであるといえる。(小石一つから人のあり方まで) だが、我らの「認識」というのは、一度に少ない側面だけを見るこ とによって、ものごとを捉えることができる。(全能の神様という んじゃないからの) 我々の「認識」の不完全性が、「計画」が可能ならしめているのは 、ある特定に指定された作用にかんしてだけにしか効かないという ことじゃ。 しかし、現象は、それ自体が複雑な絡み合いによって動くから、常 に現実がどう動いているかという検証がかかせない。 ある意味では、大きな(複雑系)の総体である事象を経験的にとら えたモノが、いろんな格言とか金言とか、歴史記述といった大雑把 なとらえることのほうが、確率の高さを示しておるのかもしれんの う。 論理がつかまえられる時間・空間距離はあんがい短いものなのじゃ ろう。 それ以上になれば、あらゆる関連する要素がバタフライ効果のよう に働いて、厳密であればあるほど論理と計画から現実を引き離して いくのではなかろうか。 だから、常に今現在の状況に当たらねばならない。(昔の条件−状 況をそのままに考えてはならんのじゃ。) 特に<政策は状況とセット>であるということをわすれてはならな いわけじゃ。 固定化したもの−あるいは固定化されていると思っているモノは、 現況から乖離しはじめて、それそのものが、問題の発生源となって いく。また問題の解決を妨げるモノにもなっていくわけじゃ。 常に現実−現場に当たれというのはそういうことなんじゃよ。 問題は現場にあふれておるわけじゃからの。 だから、地方主権のように問題の解決の知恵を、その問題の近くで 解決しようというのは正しいじゃろう。 しかし、地方(それぞれの身近な自治体)で問題を考え−解法をえ ようという訓練はできているじゃろうか? テレビなどの番組をみていると、幾つかの自治体では努力されたい るみたいではある。 しかし、そこには、やはりそこに関わっているリーダー達の<人の 力>がより重要な役割であることがわかる。 地方主権をするということは、ますますそこの<人の力>重要にな るよいうことじゃ。 首長も各部署の人間も、地方議会も、住民もそうである。 もっと、地方政治について、みんなが感心をもつようにならなけれ ばならない。 もっと、有能で、意欲のある人々が議会にはいらなければならない。 そうでなければ、無駄を省いて、本当の意味で<生活>は守れない ということじゃ。 おまかせ主義はやめよう。もっと議論もし、参加もしよう。 そして、自分だけの狭い利益だけでものごとを見ないようにしたい もんじゃ。 われわれは、「群れ」=「社会」を必要としておる。だからそれを 通じてなにが一番ん必要なのか、どうすれば、全体のためにもよく 、そして、それが回り回って、自分を支えるのかを考えよう。 それが、公徳心というものじゃろう。「公」は、お上や行政にだけ あるのではないんじゃ。 自身と群れがよりよく生きるために一人一人にがどうするかという ことがそうなのじゃからね。 政治も行政のありかたも、自身のことと捉える。そうすることが、 再生への一歩であるじゃろう。それらは、みんな自分に返ってくる モノなんじゃ。 虚風老 ============================== 机上だけでみる、鳥瞰図 虚風老 計画主義の落とし穴。(共産主義の根本的な誤謬かも) 先にワシがBBSで書いた、米海兵隊ヘリ部隊の北九州地方移転案 が、机上の案の危うさに基づくモノであるということは、分かるで あろう。 例えば、八ん場ダムにしろ、まず戦略的な計画を練る連中は、全体 として見る。 洪水があったとしたら、霞ケ浦の上流域で、ここらへんにダムを造 れば(幾つかの)、軽減させられるというおおまかな見通しを立て るじゃろう。 そして、現地に行き、ここならば技術的に可能な地域であるという ことからはじめる。 しかし、その段階で、現地の人の生活や、文化や人の繋がりという ものは、一切頭にある訳ではない。 全体の合理性、技術的な可能性のみが、計算される。 これは、「戦略」である。 それから、現実的にそのの住人をどうするか、その為に必要な周辺 施設の付け替えはどうすべきかが考えられる。 例えば、ある部隊をどこそこに移動させて、どこそこの戦略拠点を 奪取させる。 そこでは、奪取の可能性と損耗は計算される。(この損耗は人員が 何%毀損されるか、例えば、100%毀損されるが、何日間そこに 足止めさせられるか、敵の戦力をその間にどれくらいを毀損できる かという考えをとることになるじゃろう。硫黄島で起こったことじゃ) もちろん100%の毀損というのは「玉砕」という美名になる。 そこで、死ぬ人間の「生」も「生存の歴史・いろんなつながり」も そこ(戦略的机上)では捨てられておる。 計画主義は、生身の生としての「人間・人生」を数値上のコマのよ うに扱ってしまう。 どんな処にも、人の性・生活・生存は関わっておる。 しかし、同時に全体の合理性(あるいは、全体としての利益が、実 は、「社会」というあいまいな概念であり実体)で、最終的に個人 の利益うぃささえているという事実がある。法というものは、一人 では必要がなく、<他者の群れの中で生きる我>にとって必要とさ れる。我々は、孤立してはいない。常に社会の中に生まれ落ちてく るのじゃ。 倫理の倫は「ともがら」という意味であるんじゃね。 群れという、集団が集団として成り立つための法則・決まりの理( ことわり)ということじゃ。 我々は、常に、個と群れ(他者−集団)とのあいだにある、矛盾と 緊張関係にさらされておる。 このどちらかが「正」とすることはできないじゃろう。 「正」というのは、基準を確定することにはじまる。 その基準をどうするのか、相対主義はなかなか答えることはできない。 ワシの見方でいけば、儒教というのは、<秩序学>である。 孔子が生きた時代、春秋そして、その後の戦国では、秩序が崩壊し 、そのために、人々が塗炭の苦しみをなめた。 彼は、秩序とその基準の構築こそが、それを救うと考えた。 その中心は「孝」=長幼の序であり、それを展開すれば、家であり 王権になる。 王権の正当性をとなえ位階の秩序を確立すれば、「正」であり秩序 が保たれるというのは体制に都合がいい。(だから確立した王朝や 官僚組織にはとりいれやすい。江戸幕府が儒教をとりいれていくの は、武士の位階化・官僚化がすすむためである。)中国でも日本で も下克上(これ自体が、儒教的には秩序破壊の概念)という競争が 露わな時には、はなもひっかけられなかった。 (当然周王朝を正当とする古代儒教で、秦の始皇帝が、これを弾圧 するであろう=不正義といわれる理論的根拠) たとえば、政府の圧倒的な圧政に直面している人は、アナーキイな 状態を憧れる。 しかし、政府あるいは統治機構=権力の空白がよかったためしはな いともいえるじゃろう。 それぞれが、むきだしの闘争にさらされ、調整機関がなくなるからの。 個にしてみれば、自身や子孫・家族の存続が最優先される。そのた めの<群れ>であるはずじゃった。 計画主義では全体としての視点・鳥瞰としての合理性に基づいておる。 たとえば、ここで(コンクリート)にたくさんの金を使うより、別 の(医療や子育て支援)に使う方がいいとぴう判断をする。 本当は、どちらもが、<生の継続>の為やそれを担保するために必 要=あるいは有利性があるとして、個々次元では判断するであろう。 で、政治(国政)はいったいどの次元で判断をすべきかということ になる。 もともと、社民主義(リベラル)では、個が国家に押しつぶされな いようという面がある。 共産主義や国家主義では、個は全体のためなら、不利益を飲むべき だというかんがえがある。(その点ぜはどちらも、理念の根幹に全 体主義へ傾き易いものををもっている) この<個>と<群れ>の関係というのは、主義・体制を問わずに <社会的動物>であるわれわれの根本に横たわっているモノなのか もしれない。(国内部と国際関係) もっと原理的に考えると<生物個体>と<外界環境>とのバランス と依存にまで溯るかもしれない。 ちょっと酔っ払ったまま書き込んで、まとまりがつかないまま送る。 思考するのは、夢のまた夢。虚風老