3419.今宵は中秋の名月



今宵は中秋の名月。(10月3日)
From浅山
東モンスーン文明圏では古代より、この秋の満月を愛でる風習が有
りました、小生の郷里では、少年少女たちによる、夕から夜に掛け
てその目半月掛けて準備した、蔓、藁などで満月の夜今度は青年団
に縄を練ってもらい、部落ごと対抗の綱引きが行われ。その後、縄
をなう時に出た藁スボを敷き、縄を土俵に相撲大会、中で勝ち抜き
でかかって行く「ガラッパ相撲」がよかった、思い出せないのは翌
朝、どうやって一里の山道を下っていったかです、でも小生は6年間
の3年以上は皆勤賞。

そして、40代で上司に聞きました、お前の十五夜と同じような行事
が古代ギリシャのスパルタにも有ったのだと、郷里ではあの夜だけ
「十五夜の夜縁側に飾られていた、お月さんに備えられていた芋や
おはぎ(郷里では時期を問わず牡丹餅と呼びますが)を盗んでよい
のです、これがそっくり古代スパルタに在ったと、雁は更に続けて
「ジャックと豆の樹、其処に出てくる琴や雌鳥などに隠されたもの
を考える」のも良し、人をだます知恵、肝たまが有るのかどうか、
見つかればそれなりの罰で学ばせられる人の道を学ぶも良しと。

子どもから大人へのイニシエーションとして、今は何が共同体に在
りますか。教育先進国フインランドの方が自然に即しているように
、先日和光高校に留学中の同国女高校生に聞きました。

日本は戦後特に厳格な輪切り学年別生活、加えて学力偏差値区分で
の格差社会の狭い範囲での闘争、NHKの「ダーウインが来た」で知る
世界よりも歪なヒト社会、中でも日本人は、生物一般には縦長異年
齢教育が自然なはず、それが失われて久しいですね、そして最小単
位の家庭でも夫々が忙しくして、夫婦も兄弟もばらばら、特に顕著
なのが「個体維持の作法」が不自然です。

この新しい流れが進化途上で落ち着く頃は小生はこの世に居ません
が、その間多くの血、涙が流されることでしょう、お釈迦様は言い
ました、生きることも「苦」、四苦の一つ(生・老・病・死)。

危ないぞ日本民族は、その間のことを凌げる知恵を持たないと、近
くの中国、韓国もその国の善さの継承を知識人の一部を除き、バク
チ経済にアメリカに負けないぞ、とばかりに覇権を競い駈けていま
す、日本人は高麗から来た方々の子孫を総理に迎え、守り立てまし
ょうか、少なくとも四年間は、2009年の満月の夕べに思う不肖サツ
マ人からでした。

欧米のハローウインも根っこは同じなのでしょうが、一神教の下で
続いたか多神教の下で続いたかが、今の人類への知恵として、貴方
はどちらを選びますか。
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re:今宵は中秋の名月。 
心に映る月の姿 阿倍仲麻呂の歌の浪漫派的解釈
From得丸公明

浅山様、皆様、

今日は天気が回復してきたので、お月様が姿を現してくれるのでしょうか。
* 
*美しいものを見ると、心も美しくなるのでしょう。花を見、月を愛で、雪を楽
しむのは、いい風習ですね。文明の利器がなにひとつなくてもできるし、その
上、お金も一円もかからない。

いや、もしかしたら、心がきれいだから、月を美しくみることができるのでしょ
うか。風と旗の禅語のようですが。

地球から眺める月の姿は、どこから眺めようと同じかと思っていましたが、私の
経験では、海外で見ると日本で見た月とは違って見えます。不思議だなあ、同じ
月なのに、どうして日本で見たのと同じ姿に見えないのだろうかと、月をみるた
びに思ったものです。月と地球の軌道の問題なのか、緯度が違うからなのか、原
因はわかりませんが。もしかしたら、海外にいると緊張をしていて、心の状態が
違っているのかもしれないと思います。

以下はあくまで私の勝手な解釈ですが、百人一首にも選ばれている阿倍仲麻呂の

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

ですが、「昔ふるさとで見た、春日の三笠山の上に出ていた月の姿が見えた」と
いう感動は、本当にふるさとの月を見たのかもしれないと思うのです。

この歌は、若い日に遣唐使として唐に渡り、34年間唐で生活をしてきた阿倍仲麻
呂が、ようやく帰国が許されて、船の出る前日の送別会のときに詠んだ歌だとい
うことです。なにせ遣唐使船は17年に一回しかありませんでしたので、一回逃す
と34年も帰れないのです。

34年ぶりに日本に帰れる、仲間たちともお別れの宴をもち、いよいよ明日船が出
るというときに、仲麻呂の心は体よりも一足先に日本に帰っていたのではないで
しょうか。ふるさとを目前にして心が日本モードに戻ったから、日本にいたとき
と同じ姿をした月が見えた。あるがままの現実を歌ったのかもしれないと思うの
です。

このとき、さぞかし仲麻呂は幸せだったことでしょう。

仲麻呂の乗船した船は翌日寧波の港を出たものの、嵐にあって越南に流れ着き、
結局仲麻呂は長安に戻って一生を終えたそうです。

仲麻呂は出発の前日にこの歌を詠んだということになっていますが、もしかした
ら、送別会の夜にふるさとの月を見たことを思い出して、もう少し後になってこ
の歌を詠んだのかもしれません。少なくとも、歌を記録したのは、越南から長安
に戻った後のことだと思います。それとも、別の遣唐使船経由で、この歌だけ日
本に帰ったのでしょうか? 時代考証が必要ですね。

どちらにしても、この宴会の夜にふるさとの月をみた経験を生かして、仲麻呂は
その後はいつでも好きなときにふるさとの月を眺めることができるようになり、
たとえ帰国できなくても心をふるさとに遊ばせる術を身につけて、ホームシック
から解放された。めでたし、めでたし。

と浪漫派は、このように解釈をいたします。この解釈が正しいか間違っているか
は、本人に確かめてみるしかないことですが。

得丸公明


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