3373.政治と宗教について考える



政治と宗教について考える

                           日比野

1.認識のギャップ
 
政治と宗教について考えてみたい。

宗教の定義について、WEB辞書で引くと次のようになっている。

・しゅうきょう1 [宗教] 
神仏を信仰し,幸福を求めようとする教え. (派)(〜)的
「三省堂 Web辞典:http://www.sanseido.net/User/Dic/Index.aspx」

・しゅうきょう ―けう 1 【宗教】
(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また
  、神仏の教え。 
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできな
   いような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えよう
   とする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム
   ・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの
   民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界
   宗教にいたる種々の形態がある。 
「Goo辞書:http://dictionary.goo.ne.jp/jn/」


要は、目に見えず、理解の外にある存在、いわゆる、神様的存在に
価値を見出し、信じることで安らぎを得、幸福を求める体系のこと
、となっている。

これは、非常にこの世的というか、無神論的立場でみた定義にも見
えなくはないのだけれど、今回はこの定義から話を進めてみたい。

宗教というと、よくカルトであるとか、自分は信じてないから、と
かいう人も多いけれど、おそらくは、その人の宗教に対する感覚は、

「宗教をやっている人は、神様だの、仏様だの、目に見えないもの
を信じることで、心のやすらぎを「勝手に」得て満足しているだけ
だ。そうした人が入信するのが「宗教」なのだ。」

というものではないかと思う。あんなのは、心の弱い人がすがるも
のなのだ、と。

ところが、敬虔な宗教信者にしてみれば、

「本物の信仰によって、真に心が解放され、魂は救済されるのです
。貴方達は、思い通りに勝手に生きているように思っているかもし
れませんが、その信仰なき生は、地獄の門の前に立っているという
ことを知らなければなりません。」

という具合に見えているのではないかと思う。つまり、救われるべ
きは、信仰なき貴方達の方なのだ、と。

この時点で、既に双方の認識が随分と異なっている。

したがって、政治と宗教を考えるにあたって、日本に限ってみれば
、宗教を信仰する人とそうでない人の間には、こうした深い認識の
ギャップがあると予想される所から出発しなきゃいけない。
 


2.政治家と預言者
 
宗教が実際に、何を教えているのかといえば、新興宗教は兎も角と
して、伝統的宗教、たとえば、仏教であれば、執着を去って、煩悩
を滅却する教えであったり、キリスト教であれば、信仰と愛の教え
であったり、多少、教えに違いはあるにせよ、大枠でみれば、善悪
を教えて、心を正し、魂を救済する教えであるように見える。

そして、実際にそういう認識である人は多いと思う。政治と宗教は
別だ、という考えの根拠もこの辺りにあると思われる。つまり、宗
教は人の心を癒してさえいれば良いのだ、現実社会には口を出すべ
きではない、と。

だけど、政治的指導者でありながら、宗教家でもあった例は歴史上
存在している。

たとえば、モーゼとか、マホメットだとかはそう。モーゼはエジプ
トの奴隷を解放してカナンの地に向かったし、マホメットは幾多の
戦闘の後に、一度は脱出したメッカを奪回した。

だから、この世的に見ても、モーゼやマホメットは、政治家である
ようにも見える。少なくとも政治家的側面、軍事的資質を持ってい
たことは確か。当時のエジプトの王から見れば、モーゼはイスラエ
ル人の指導者だし、当時のメッカを支配する人たちからみれば、マ
ホメットは反乱軍の首領。

ところが、モーゼはシナイ山で神から十戒を授けられているし、マ
ホメットはアラーの神から啓示を受けた。そして、それに基づいて
神の教えを説いている。

だから、神の言葉を預かる人、所謂、預言者を宗教家の範疇に含め
ていいのであれば、政治家と宗教家が同一人物になることは、十分
在り得る話。

もしも、そうした人物が、一国の王であったり、大統領であった場
合は、政教一致、祭政一致の政治が行われることになる。

要は、政治家が神の啓示を受けて預言者となった場合、それでもな
お政治家として認めて国政を委ねるかどうかが、祭政一致を是とす
るかどうかの分かれ目になる、ということ。

もしも、それを是とするならば、政治的指導者が、何某かの啓示を
受けて預言者となった場合には、マホメットの例を取るまでもなく
、神の教えに従って、具体的にこの世を改革して、世直しを行って
ゆく可能性は極めて高い。

そして、その人物は、魂だけでなく、この世の生命をも救済してい
くことになる。

だけど、そこには大切な観点がある、それは、その神から預かった
言葉に従って、世の中を変革してゆく場合に、その預言が、真に神
のものであるか、そうでないかは、余人にはなかなか分からない、
ということ。

イエスでさえ、当時の律法学者と度々論争している。当時は律法こ
そが守るべき戒律で正しい道だった。律法学者を公然と批難したイ
エスは、当時の権威に対する挑戦者だった。

預かった言葉が、本当に神からのもので、それに従って社会をつく
ることで人々が幸せになるのであれば、それで良いのかもしれない
けれど、そうでなかった場合は悲惨なことになる。

彼の預言は、神の言葉かもしれないけれど、そうでないかもしれな
い。そのようなリスク込みで預言者でもある政治家に国政を委ねる
のかどうかという問題がそこにはある。



3.正義と正義のぶつかり合い
 
神の言葉であれ、そうでないものであれ、それに基づいて、現体制
から変革を行った場合、その是非の結論がでるまでは、ある程度、
時間がかかる。それは正義の決まり方に起因している。

何某かの主張同士がぶつかるとき、どちらに正義があるかなんて、
その場ではなかなか分からない。どちらも自分こそが正義だと主張
しているし、どちらの言い分にもそれなりの理があるように思える
もの。

そうして主義と主義がぶつかりあい、やがて、力と力のぶつかりあ
いになって、最後には力の強い方が勝利を収めることになる。

だけど、その勝った方が正義であるかどうかは、やはりある程度の
時間が必要で、その後に、そこに顕れてくる世界、そこに住む人々
がその世界に納得し、満足し、結果として幸せを得たかどうかに大
きく左右される。その後の世界が幸福であれば、あれは正義だった
となるし、そうでなければ、その逆に傾いてゆく。

たとえば、明治維新なんかは、幕府側からみれば、下級武士のクー
デターであって、当然鎮圧の対象だった。新撰組はせっせと反幕府
勢力を取り締まっていた。

当時は勤皇だ、左幕だ、いやいや開国だ、とかいろんな主張が交わ
されていて、どれが正しい道だったかどうかなんて、なかなか分か
らなかっただろうと思う。

だけど、結局、幕府は倒れ、明治新政府が出来て日本は開国した。

今では、明治維新は正義ではない、と主張する人はほとんど見かけ
ない。それは明治維新によって、その後の日本が発展し、結果とし
て人々が幸せに暮らせるようになったから。

もし、明治維新後の日本が悲惨なものだったとしたら、幕府再興運
動かなんか起きていたかもしれない。

今だったら、たとえば、イラク戦争なんかはそうかもしれない。イ
スラム社会では、コーランがそのまま憲法にもなり、社会秩序を規
定するものだから、民主国家と比べてもずっと、祭政一致、政教一
体の社会になっている。それに対して、アメリカはイラク戦争を行
なって、民主主義という楔を打ち込んだ。

現実には、石油利権の絡みがあって、ドル基軸体制の維持のため、
というこの世的な理由があったにせよ、思想的にみれば、預言者兼
政治家が、神の教えに従って作った社会に対して、そうではないと
民主主義が戦いを挑んだ姿のように見える。預言者が政治を司るこ
とを是とする正義と、民主的に選ばれたものが政治を司るべきだ、
という正義同士がぶつかった構図がそこにある。

まだ、戦闘が終わってからそれほど時間がたっていないから、あの
戦争のどちらに正義があったのかどうかはっきりとは分からない。
現時点で、はっきりしているのは、フセイン大統領を除いて暫定政
権を経て、イラク人による新政府が発足したこと。この政府がどう
いう政治を行うか、アメリカが置いて行った民主主義の考えがイラ
クの人々に幸福をもたらすかによって、あの戦争が正義だったのか
どうか、時とともに見えてくるようになるのだろう。

そして、その時には、預言者兼政治家による政治と、民主主義によ
る政治のどちらが良いのかの判定が下されることになる。



4.権力を与えるもの

預言者は神が選ぶけれど、民主国家では、政治家は民衆が選ぶ。

王侯貴族などのように生まれながらにして、神から王権を授かった
人物が権力を握る社会と、民衆一人一人の総意によって権力を与え
る社会とでは、その権力を与える主体が異なっている。

この権力を与える主体が誰になるか、という一点が、権力の専横を
許すか許さないかを分ける鍵になる。

その国の権力、すなわち王である権利は神が授けるものである、と
する政体は、いわば預言者が政治家になるようなもので、その政治
家に逆らうことは神への反逆になる。確かに、その政治家が真に神
の代理人であり、神の声を預かるような人であれば、それこそ、素
晴らしい政治をするだろうと予想される。

だけど、暗愚な君主で側近に操られ利用されたり、暴君であったり
した場合には、最悪の治世となることは火を見るより明らか。だか
ら、権力を与える主体が、極々一部の者しか持っていない社会は、
そうしたリスクを抱えている。

そのようなリスクを回避する手立てを、システムとして持たせたの
が民主主義。民主国家では、政治家は民衆が選ぶから、多数の民衆
の人心を掴んだものしか、政治家として選出されることはない。

民衆は数も多くて、いろいろな考えを持っているものだから、その
意見は互いに牽制され、総体としてみれば、大抵は、最上ではない
にせよ、最悪ではないところに落ち着いてゆく。

だから、たとえ、民主選挙における候補者が、何某かの宗教信者だ
ったり、宗教家だったとしても、それとは関係のない人も含めた、
大多数の民衆の支持を集めないかぎり、絶対に当選できないシステ
ムになっている。

つまり、民主国家では、宗教が政治に直接参加したくても、その宗
教自身が、多数の国民の支持を集めるものでない限り、それは不可
能である、ということ。

もちろん、政治家たちに多くの献金をすることで、間接的に政治に
大きな影響力を発揮することは可能なのだけれど、それとて、その
肝心の献金をするためには、多くの浄財なり布施なりを集めなけれ
ばいけないから、多くの信者やシンパが必要になる。つまるところ
、大多数の民衆の支持が必要になることに変わりはない。

 

5.信教の自由と政教分離の原則

世の中一般に通用している正義と宗教の説く正義がぶつかるとき、
その場での勝敗は何某かの結果となって現われる。

この世において、権力と権威が戦えば、普通は権力側が勝つことに
なっている。武力を掌握しているのは権力側だから、当然そうなる
。

民主国家においては、法の下の平等、すなわち国民の自由意思は、
最大限尊重されなければならない。故に、「信教の自由」が保障さ
れているのだけれど、その自由は当然、他の何物にも侵害されるこ
とはあってはいけない。

むろん、その自由が他人の自由を脅かすものであれば、それは当然
制約の対象になる。国民一人一人の自由意思を互いに尊重し合うの
が前提での話。

本当は、他人の心は自由にできないものだから、「信教の自由」そ
のものを侵害することはできない筈なのだけれど、権力が「信教の
自由」の表明を出来なくさせることはできる。

たとえば、国家権力か何かで、ある特定の宗教を弾圧してしまえば
、社会的にその宗教は抹殺できるし、その宗教の信者を片っ端から
捕まえてしまえば、社会的にその宗教に対する信仰の表明はできな
くなる。

要は、「信教の自由」といっても、権力なり武力によって、特定の
団体なり宗教なりを、いつでも社会的に抹殺できてしまう危険があ
るということ。

中国共産党が、法輪功に対してやっていることは、正にこれ。

これを許してしまっては、民主国家は成り立たない。だから、民主
国家には、国家権力がいかなる宗教・宗派を弾圧したり、特定の宗
教や団体を強要または規制してはならない、という取り決めが必要
になる。それが、いわゆる「政教分離の原則」と呼ばれるもの。

今の民主国家の多くは、権力が宗教を押しつぶすことを防ぐ為に、
法律としてそれを禁止している。

戦前の日本では、神道を国家神道にして、廃仏毀釈をしたことがあ
るけれど、今の憲法では、それは禁止されている。

逆にいえば、個人が自主的に何かの宗教を信仰するのは、その限り
ではないし、その宗教団体が政治的主張をするのも別に構わない。
「信教の自由」と「表現の自由」、そして、「思想結社の自由」に
よって、それは保障されている。

政教分離の原則に従えば、仮にどこかの宗教政党が第一党になって
国政担ったとしても、自分の宗教以外の宗教を弾圧することはあっ
てはならない。それが守られる限り、民主国家は成立する。

宗教政党が国政に参加するとなった途端に、全体主義に陥る危険が
ある、と警戒する人は、おそらく、この点を気にしているものと思
われる。



6.カルトが嫌われる理由

今の日本で、いわゆるカルト教団が嫌われる理由は、その偏狭性に
ある。自分以外は信じてはならない、とか、自分達だけが正しくて
、他は皆間違っているのだ、とかいう心の狭さと、自分の教団に次
々と信者を引っ張りこもうという姿勢が嫌われている。

民主国家の前提である、法の下の平等を基準にすれば、いかなる教
団であれ「来るものは拒まず、去るものは追わず」でないといけな
い。でないと、個人の自由意思を尊重していることにはならない。

ところがカルトは、来たくない者でも引きずり込み、去る者は、地
の果てまで追いかける。こうした態度が応々にして見受けられるし
、実際そう思われている。そこが嫌われている理由。

要は、自分の意思と関係なく、何かの主張なり思想なりを押し付け
られることを警戒し、拒絶する気持ち。それがカルトが忌避される
根本にある。

だけど、この「思想の押し付け」という行為は、政教分離規定で禁
止されているところの、国家による何某かの信仰の押し付け、また
は弾圧と構造的にはなんら変わらない。

だから、個人の自由意思の尊重、「信教の自由」という規定が、い
かに民主国家としての根本を支えているかということを、国民一人
一人が、しっかりと自覚しなきゃいけない。「信教の自由」に対す
る理解が広がれば広がるほど、権力の専横を防いでゆく力になるか
ら。

したがって、民主国家においては、カルト教団が自らの教えを布教
すればするほど、自らの在り方を変えざるを得なくなる。カルトは
カルトであるが故に、ごく一部の人達の支持しか集めることしかで
きないから、そのままでは、国民全部を信者にするのは難しい。他
人の自由意志を尊重すればするほど、自らの偏狭性を捨てなくては
ならなくなる。

カルトが自身の偏狭性を捨て去れば、それは、もはやカルトでは無
くなってくる。更に、その教えに普遍性があれば、時代を超えて教
えが伝えられ、広がり、やがて世界宗教へと成長してゆくことも在
り得る。

だから、民主国家において、もし何かの宗教政党が第一党になるく
らい支持を集めることがあるとしたら、もうそれは、かなりの部分
はカルトではない、と考えてもいいのではないかと思う。

下駄の雪な政党が、結党以来40年以上たっても未だに第一党にな
れない現状を考えると、日本において、ある特定の思想団体が、い
くら多くの日本人の支持を集めようと試みたとしても、それがどれ
ほど困難な事であるのか良く分かる。



7.政治の役目 
  
政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生
命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた
上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。

だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主である
が故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。

読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて
、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えること
になるのは殆ど避けられない。

普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり
、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、
その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。な
ぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各
々一票を与えられることになるから。

国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後
にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようにな
る。

だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その
社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に
精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依
るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生
きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、
その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえ
る。

だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、
という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限ら
ないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいの
か、という中身は、国家を大きく左右する。

これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「
正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受
けたり、変化したりすることに起因している。

ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共
産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ
、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとに
コロコロ代わってる。

だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独
力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を
出来る限り整えておくことが望ましい。

仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せ
ず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、
自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正
しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正を
していくことが可能になる。

何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうでは
ない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを
変えることができる環境があるということを意味してる。

特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他
の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。

カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま
言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗
脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教
育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解け
ただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは
、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。

だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまると
ころ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無
闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で
、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに
触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するの
だと思う。

これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問
題と軌を一にする。
 


8.政治と宗教の役割分担
 
昔は、宗教が政治の代わりをしていた部分があった。インフラが整
備されていなかったり、教育機関や医療が十分でなかったり、つま
り政治の力が国中に行きとどかなかった時代には、僧侶や寺院がそ
の役目の一部を担っていた。

弘法大師は「満濃池」と呼ばれる日本最大の溜池を修築しているし
、寺子屋では読み書き・算盤を教えていた。

なぜそんなことができたかと言えば、宗教は、教団という独自の組
織を持ち、布施や浄財を集めることができたから。ある意味、民主
組織の草分けだといえるのかもしれない。

だけど、時代が下って、世の中が発達してくると、世の中が専門分
化して、より複雑になっていって、世の中を支えるために、専門家
が沢山必要とされるようになってきた。

また経済の発達によって、政治の力でインフラや教育制度が整うよ
うになってくると、そうしたこの世的な、肉体生命を維持する部分
は、どんどん政治が面倒を見るようになって、宗教は、心の教えだ
けを説けるようになってきた。ある意味において、政治と宗教の役
割分担が明確になってきたとも言える。

だから、政治が本当の意味でしっかりしていて、国民が安心して暮
らせる社会が出来ていると、宗教は、別に政治に口出しなんかせず
に、安心して心の教えだけを説いていればいい。

尤も、現代のように科学技術や社会システムが進んで、専門分化し
て高度化してしまった社会に対して、宗教が政治的な提言を行うこ
とは、なかなか出来ない事も事実。宗教が各分野の専門家を、信者
として大量に抱えることがなければ、提言一つとて難しい。

もしも、宗教が政治に口出ししなければならず、しかも、それが「
的を得ている」というようなことがあったとするならば、それはよ
ほど政治の力が落ちていることに他ならず、政治家としては非常に
情けない状態にある、と思わなくてはいけない。なぜかといえば、
世にある識者を、政治がそれだけ掬い上げていないことを意味する
から。

政治の力が落ちてくると、当然、国は乱れ、国家運営はうまくいか
なくなってゆく。畢竟、国防力の低下や治安の悪化、さらには経済
も停滞又は後退して、人心も乱れていって統制が取れなくなってく
る。

そんなときに選挙が行なわれると、どうなるか。

政治家は自分が当選するために、その乱れた人心のご機嫌を取るよ
うになってくる。平たくいえば、バラマキをしてみせたり、政治改
革をして、この国を生まれ変わらせます、とか絶叫して人心をひき
付けて票稼ぎに走るようになる。

悪くいえば、ポピュリズムに近づいてゆく。そんなとき、国民の価
値観がしっかりしていれば、そんな甘言に惑わされることなく、本
当に必要なことを求めるから、たとえば、不況下において、「米百
俵の精神」を言われても、それを支持したりすることもできる。

だから、そうした国民の考え方や価値観を間違えない為には、常に
「正しさ」を追求して止まない教育や、様々な考えを許容して内包
できる社会がそこにないといけない。
 


9.健全な民主国家の条件
 
宗教は、自分のところの教えはこうだ、と全面に押し出して布教活
動しているから、信者以外の人でもこの宗教は、こういう考えなの
だな、こういう価値観を教えているのだな、と分かる。そして、そ
れがその通りかどうかは、その教団なり信者なりの言動をみれば大
体判定できる。

教え自体は立派そうなことを言っているのに、教団や信者が立派な
立ち振る舞いをしていないのであれば、実は、教えが立派ではない
か、教団や信者が教えを誤解しているか又は理解していないかのど
れか。そんな教団を母体とする政党があれば、その政党の信頼性や
支持はその分だけ落ちることになる。

宗教はそんな風にある程度チェックができるのだけれど、同じよう
に、政党や各種団体についても価値観のチェックは出来なきゃいけ
ない。

政党は選挙にあたって、公約を国民に示して、何をやらんとするか
示すし、個々の議員にしても、その人となりや普段の活動に触れて
知っている人にとっては、如何なる価値観に基づいているかどうか
のチェックはできる。それはその他の団体に関しても同じ。

だけど、その団体なり、政党なりに特に興味がなくて、普段会うこ
とがない人にとっては、その価値観をチェックする機会そのものが
殆どない。

必然的に、その相手の価値観に対して、適切な判断をすることは難
しくなる。それでも、民主国家では、誰であっても平等に一票を与
えられている。

だから、特に選挙においてそうなのだけれど、政治に興味がある人
ない人関わりなく、広く情報を伝達して、大衆に価値判断の材料を
提供できる手段を持たなければ、民主国家は十全に機能しない。

つまり、マスコミの健全性がポイントになる、ということ。

仮に、マスコミが、ストローの様に、全ての情報に一切手を加える
ことなく大衆に伝達できればいいのだけれど、紙面の都合や、放送
枠の関係で、流す情報に取捨選択を加えざるを得ない場合が殆ど。
いきおい、何を報道して、何を報道しないか、という価値判断がそ
こに加わることになる。

事実を伝えるだけでも、取捨選択という価値判断が加わるのに、伝
える情報そのものを操作したり、捏造しようものなら、大衆が正し
い判断をすることは著しく困難になる。

だから、マスコミはせめて、自身がどのような価値観で持って記事
を選び出し、乗せているかの広報をするべきであって、公正中立を
装って、特定の個人、団体の後押しをするような報道は、大衆をミ
スリードすることになりかねない。

広く一般大衆に、思想なり情報なりを伝えるという意味では、宗教
団体もマスコミも変わらない。であるならば、マスコミも、如何な
る思想信条に基づいて、これを報道している、という看板を掲げる
べきであって、それすらないのであれば、マスコミは、自らの教え
を高く掲げる宗教以下の存在であることを、自ら宣言していること
になる。

別に、今のマスコミ全てに対して愛国心を持てとは言わない。だけ
ど、反日思想を持っているのなら、自分は反日なのだ、とはっきり
宣言してから、そうした記事を出すべきであるとは思う。

そうすれば、読むほうも、そうだと覚悟してから読むし、最初から
読む価値がないと判断することもできる。売買の時点でそうした判
断が入るから、必然的に市場原理が働くことになる。

その意味において、宗教や各種教育制度、そしてマスコミがしっか
りとして在って、それらが常に正しさを追求しながら、お互いに切
磋琢磨できる社会であることが、民主国家にとっては何よりも大切
なこと。

民主国家は、政治だけでなく、宗教やマスコミなどの価値観や情報
の大衆普及手段が、共に正しく機能して始めて、健全な国家を構築
することが可能になる。


 
10.経済大国の責任
 
政府が弾圧などの強権を発動しなくても、信教の自由、表現の自由
に制約を課すことは簡単にできる。宗教法人税や電波利用料を引き
上げてしまえばいい。

宗教法人を含む公益法人は、一般事業が利益を獲得する活動とは異
なるという趣旨から、収益事業にのみ課税し、その税率も、一般事
業の税率より低く設定されている。また、電波利用料に関しても、
2007年時点の調査だけど、電波使用料収入総額に対して、テレ
ビ局の占める割合が僅か1%強しかないことから、安すぎるのでは
ないか、と非難の声も上がってる。

確かに、普通の企業と比べて随分優遇されている。もしこれが、普
通の企業並みに引き上げたら、相当数の宗教団体が無くなるだろう
し、放送局もいくつか姿を消すだろう。税金を普通の企業並みにす
る、ということは、普通の企業並みの利益を出さないと、教団や放
送局を維持できなくなるということを意味する。

そうなると、必然的に「布施や浄財を沢山集めることができる」宗
教や「人気があって、視聴率の取れる番組」だけを流す放送局しか
残らなくなってしまう。

だけど、お金を沢山集められる宗教や、視聴率だけあるテレビ局が
、いつも「正しい」とは限らない。

「正しい」考えや優れた見識は、「価値」を生む。

正しい考えに基づいた企業活動は、その社会のトレンドや正義に合
致しているから、安定した利益を生みだすし、優れた見識を取り入
れた政治は、道を誤ることがない。

もちろん、その「正しさ」自体は、時代によって変遷するから、今
、利益を生んでいても、未来永劫それで利益が得られるとは限らな
い。企業経営者が口を酸っぱくして、イノベーションと言い続ける
のも、価値を生む考え方が次々と考えだされ、市場を創り、リード
してゆくから。

だけど、イノベーションを伴う斬新な考えは、世の中一般に「正し
い」とされる考えに逆らうことが多いから、風当たりが強くなるの
が普通。

だけど、もし、その新しい考えが次の時代を予期させ、先取りする
ようなものであれば、やがて、世の中が認め、それが当たり前にな
ってゆく。時代の先駆者はいつもそうした風当たりをものともせず
に改革をしていったことも事実。

次の時代の萌芽は、現在ただ今の中にある、とは良く言われること
だけれど、萌芽の段階では、ほとんどの人はそれに気付かない。

そうしたとき、その萌芽を含んだ考えに基づいた公益団体なり、何
なりに重税を課せば、簡単に潰れてしまう。萌芽の段階でそれに気
づく人が少ないが故に、その団体を経済的に支える力は弱いから。

そうした「考え」を打ち出す最たるものが、宗教団体とか、報道機
関。尤も、宗教団体と報道機関の打ちだす考えには、少しその性格
に違いがある。

宗教団体は過去に説かれ、時代の波に揉まれながらも、今に伝わる
伝統的価値や、新興宗教に見られるように、現代にマッチして未来
に繋がる価値、つまり時間軸方向に過去や未来に伸びる価値を打ち
出す傾向が強い。一方、報道機関は世の中を広くサーチしながら、
一般的な報道もする一方、普段はなかなか陽の当らない対象を見出
し、クローズアップしたりするという空間軸方向で価値を探し出し
て報道する特徴がある。

宗教団体でも、報道機関でも、そうした、「考え」を見出し、広く
普及させるが故に「公益」があるとみなされるのだろう。だから、
「考え」に重税を課すということは、そうした小さな芽を次々と摘
み取ってしまうことに成りかねない。

要は、「考え」にお金を払ってくれるという、存在なり、パトロン
なりがいないと、未来の可能性を潰すことに繋がる、ということ。
これは、文化でも同じ。

もちろん、その低率な税という特権を逆手にとって、間違った考え
や報道を普及させてしまうことで、世の中を間違った方向に導くこ
とも在り得る。「表現の自由」は自由として、保証されているもの
だけれど、その自由の行使にあたって、責任が付随することは至極
当然のこと。

つまり、間違った事を表現し、それによって誰かに迷惑を掛けた場
合には、当然、それ相応の罰則なりなんなり、しかるべき処置を甘
受しなきゃいけない。

これまでのように、間違った報道に関して、形ばかりの訂正記事を
隅っこに出してハイおしまい、といったやり方はもう通用しなくな
ってきている。昨年の毎日新聞WaiWai問題がそれを物語って
いる。

証券会社がインサイダー取引かなにかで行政指導をうけて、何日間
かの業務停止命令を受けたりすることがあるように、間違った報道
には、放送停止命令を出して、一週間かそこら放送できないように
するとかしないと、もはや世間は納得しないのではないかと思う。
そんな放送局には、いずれスポンサーも離れてゆくだろうし、それ
こそ市場原理が強力に働く。

だけど、「考え」は目に見えないし、手に取ることも、食べること
もできない。「考え」だけでは空腹は満たせない。

だから、「考え」にお金を払うことができる、という国は、普通は
経済的に豊かな大国が中心になる。

だけど、もし、その経済大国で生まれた文化なり、考えや思想なり
が、その後の何十年、何百年をリードするものであったとしたら、
その芽を摘んでしまうことの損失は計り知れない。

何がしかの「考え」が、その後の世界を支える原動力になる程のも
のであったとしたら、その「考え」を有する国は、かけがえのない
宝、全人類を照らす光を持っているということになる。

つまり、現在ただ今の、経済大国には、それだけの責任があるとい
うこと。経済大国は、その国ただ一国の国益だけでなくて、世界全
体をも潤す価値を生む可能性がある。

それが、経済大国が経済大国として存在することを許される条件な
のではないかとさえ。

「考え」が価値を生む、ということに賛同できるのであれば、例え
それが乱立であったとしても「考え」を守り、競争させ、それらを
互いに磨いてゆくことが大切。それが未来への国力の源泉となる。
そして、それは世界を支える力へと飛翔する。 

(了)

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