3370.幼少時をゴーギャンはペルーで



幼少時をゴーギャンはペルーで過ごしたことについて
From: tokumaru  

我々がものを考えるのは、単に記憶を持ち出してくるか、新しく受
け入れた知識と記憶を足し合わせるだけの、きわめて単純な作業に
すぎないのかもしれない、、、。

皆様、

−1− ポール・ゴーギャンの人生についての知識と絶望の深刻さ
        についての想像

昨日、ポール・ゴーギャンの「私たちはどこからきたのか、私たち
は何者か、私たちはどこに行くのか」という作品を近代美術館でみ
た。暑気祓いを兼ねて感想を語り合っておりました。

私は、ゴーギャンの人生をあまり知らず、「パリで証券を売ってい
た日曜画家が、プロの画家になり、西洋文明に絶望してタヒチに移
住した」といった程度の知識をもとに、「私たちはどこからきたの
か」の作品についてイメージを膨らませていました。

すると森さんが「ゴーギャンは幼少のころ、ペルー人の混血であっ
た母とともに、ペルーで数年間暮らしていた。それが作品に影響を
与えたであろう」といわれました。私は知らなかった知識であり、
「ふーむ、それは重要かもしれない」と思いました。

何が重要かというと、第一に、ゴーギャンが、パリという大都会に
絶望したときに、ヨーロッパを離れるという選択肢をもっていたの
は、幼少時の記憶がインプットされていたからであろうということ。
つまり、ヨーロッパしか知らない人であったら、ヨーロッパを出る
という発想はなかっただろうということです。

第二に、ペルーに行かずに、中米やタヒチに行ったのは、ペルーに
は求めるものがないということがわかっていたからではないか。も
しかしたら楽園としてのタヒチにかけた期待は、僕が予想していた
よりも切実で、人類存在についての救いを求めていたのではないか
ということ。

したがって、タヒチで「私たちはどこからきたのか」という問いに
出あったのは、人類はどこにも安住の地がないという徹底的な絶望
に出あったからではないか。パリでの絶望に、ペルーの悲しい記憶
とタヒチの絶望もあわさって、彼自身の絶望は人類全体の絶望へと
昇華したのではないかということです。

−2− 思考とは、知識の演算にすぎないのではないか

じつは上の私のつたない思考が、正しいか、間違っているかは、あ
る意味どうでもいいことです。

それよりも、私が思考をするにあたって、ゴーギャンの幼少時のペ
ルー居住体験という新しい知識が頭に入ったことで、それが私が
それまでにもっていた知識と比較して、新しい追加情報であるとし
て判断され、なおかつ重要な知識であると評価が行なわれたという
ところに意味があります。

新しい情報とであったときに、重要と捉えるのか、取るに足りない
と考えるのか、あるいは間違っているとして排除するかの判断が、
私の脳内で無意識に行なわれたことが重要です。

そして今回は、新たな情報の価値が重要視されて、既存の知識と足
し合わさって新たな思考が生まれたのです。

つまり、
(1) 人間の思考とは、じつは自分がもっている知識を並べているだ
けにすぎないのではないか。

我々が思考する、考えるというのは、何か新しいことを生み出して
いるのではなく、記憶を呼び出して、思い出した記憶をふりかざす
か、せいぜい新たに取り込んだ知識と比較する程度の作業にすぎな
いのではないか。

(2) 人間は、新たな知識に出あったときに、それが自分がこれまで
に蓄積してきた知識とどういう関係にあるかのチェックを行なって
いて、「新たな知識」か、「同じ知識」か、「違う知識」かを瞬時
に評価しているのではないか。

デジタル通信に、取り込んだデータが正しく受信されたかどうかを
確認するためにパリティ・チェックという作業がありますが、人間
の脳(知能)の場合にも、新しく受け取った知識と、すでに構築し
ている記憶の集合体である意識との整合性が瞬時にチェックされて
いるのかもしれません。

(3) もし、人間がそのようにして新たな知識と付き合っているのだ
としたら、我々は我々の意識をどのように形成するのかということ
にもっと注意する必要があり、また、未知の知識が正しい知識か間
違った知識かを判断する能力をつける必要があるのではないか。

(4)  いつも読書会をやっていて思うのですが、同じ本を読んでも
、人それぞれによって、受け取る知識が違うし、本そのものの評価
もまちまちです。

人それぞれ違うことは、現実がそうなのであり、それを否定するこ
とは全体主義的というか思想統制にもつながりかねないので、よく
ないことのように思っていました。

しかし、誰かがある本や文章を書く行為は、何かを伝えたいためで
あり、それを正しく受け止めて、正しく評価することが、読み手と
して本来求められている行為でしょう。

どうすれば正しく読んで、正しく評価し、正しい知識を受け取るこ
とができるのか。これについてもう少しこだわってもよいのではな
いでしょうか。


ゴーギャンの幼少時のペルー生活の知識から、話がかなり飛躍しま
したが、具体的な事例であるのでよいかと思い、ご紹介します。

皆さんはどうお考えになりますか。

得丸公明




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