3362.広島市長粟屋仙吉の次女の物語、内戦を戦うということ



広島市長粟屋仙吉の次女の物語、内戦を戦うということ
From: 得丸

広島市長粟屋仙吉の次女の物語、内戦を戦うということの意味について

皆様、

1.広島市長粟屋仙吉の次女を取り上げたザ・ノンフィクション(フジ系、8月2日)

 被爆死した広島市長粟屋仙吉の次女康子さんを取り上げたザ・ノ
ンフィクションの放送は明日です。

 鬼塚英昭さんの「原爆の秘密」に登場する広島市長は、まるで原
爆で死ぬために広島に赴任したかのような描かれかたをしていまし
た。不思議に思って調べてみると、昭和8年に大阪府の警察部長をし
ているときに、陸軍ともめごとがあり(ゴー・ストップ事件)、以後
陸軍からにらまれ続けた人物であることがわかりました。

 それもあってか、粟屋仙吉は、若くして、公務員を引退して世田
谷区下馬で隠居生活を送っていたのですが、昭和18年に、その粟屋
にどうしても広島市長になってほしいと懇請したのが賀屋興宣であ
ったといいます。

 もし、昭和18年にすでに広島に原爆が落とされることが決まって
いて、陸軍がそれを知った上で、粟屋仙吉を爆心地に住まわせたの
だとすれば、一種の国家犯罪といえるかもしれません。

 門田隆将著「康子十九歳 戦渦の日記」にわずかに登場する粟屋
仙吉は、そのような陰謀をうすうす感ずいていたのかもしれません
が、陰謀など一切気にしないで最後まで市長としての役目を果たさ
れました。

 それにしても、戦後64年もたって、その次女の日記がノンフィク
ション本として出版され、すぐにザ・ノンフィクションとしてテレ
ビ番組になるところがすごい。まっすぐなものの持つ力というので
しょうか。まったく何の罪もないのに一家皆殺しに近い仕打ちを受
けた聖なる家族が、このような形で蘇ってくるところに、深い感動
を覚えます。クリスチャンであった粟屋家の人々は、宗教を超えた
形での殉教を遂げたといえるのかもしれません。

2.内戦に美談は生まれないのか
 さて二次会でも話題になりましたが、韓国には、このような美談
はないのでしょうか。大東亜戦争のときの、従軍慰安婦問題のよう
に、日本のせいで苦しめられたという話はよく耳にしますが、自分
たちの中に誇りにできる美談というものは、何かないのでしょうか。

 そんなことを考えていたら、ふっと、「あ、朝鮮戦争は、米ソの
代理戦争とはいえ、れっきとした内戦じゃないか。内戦だから美談
は生まれないのだろうか」と思いました。

 長男が3歳のころ、パリに住んでいたのですが、あるとき家の近く
で、日本語の堪能なアルジェリア人の男性に後ろから抱きかかえら
れ、日本語で「こんにちは」と挨拶をされたことがあります。長男
はこれには非常に驚いて、しばらく唖然としていました。というの
は、日本人の顔をした人とは日本語で話し、外国人の顔をした人と
はフランス語で話すというルールが出来上がっていたのに、そのル
ールに反する事例だったからです。2,3秒してから、日本語で、
「あなたは、知らない」と言って、降ろしてもらったことがありま
す。

 このエピソードと内戦とどこまで関係があるかわかりませんが、
内戦って、人を信じることができなくならないでしょうか。

 人類史上いったいどれだけの戦争が内戦として戦われたのか。ア
メリカ南北戦争、中国の国民党と共産党の戦い、インドとパキスタ
ン、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ビアフラ、ユーゴスラビア、、、。

 内戦には美談はないのでしょうか。生き延びることよりも、いか
に美しく毅然と生きたか、そちらのほうが問題ではないかと思わせ
る逸話はないのでしょうか。この点で、韓国にはいったいどんなエ
ピソードが語り継がれているのか。どんな小さな美談でもいいから
、それを知りたいものです。

 あるいは、金芝河の思想において、朝鮮戦争という内戦を戦った
ことへの反省、内戦を戦ったときに学んだこと、今後二度と同じ民
族で殺しあわないための歯止めの思想、そういったものはあるので
しょうか。松本さん、ご存知でしたら教えてください。


 歴史という物語では、語られていないものこそが重要なのかもし
れない。それが粟屋康子の日記のように、世代を二つ分も超えて蘇
ってくるところに、歴史を学ぶことの醍醐味があると思いませんか。

得丸公明

http://tvspot.at.webry.info/200907/article_664.html

 2009年8月2日(日)13:45〜14:45 フジテレビ系
 ザ・ノンフィクション「康子のバラ〜19歳、戦渦の日記〜」

世の中に存在している人間ドラマをお送りするフジテレビ系のドキ
ュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」 2009年8月2日は、粟
屋康子にスポットを当てた企画「康子のバラ〜19歳、戦渦の日記〜
」が放送されます。
1941年12月8日〜1945年9月2日に勃発した太平洋戦争。 本土決戦や
東京大空襲・原爆などによって多くの犠牲者を出すなど日本がアメ
リカをはじめとする連合国に敗れた戦いで、そこには数々の悲惨な
エピソードが潜んでいます。 

特に、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日に広島、
8月9日に長崎に投下された原子爆弾は、多くの死傷者を生み出すこ
とになり、生き残った人も現在に至るまで被爆の後遺症に苦しんで
います。

今回の「ザ・ノンフィクション」は、そんな広島に投下された原爆
で瀕死の重傷を負った家族を助けるために東京から焦土と化した広
島に向かった女性・粟屋康子(あわややすこ)にスポットライト!
 粟屋康子さんは、昭和20年11月に原爆の2次被爆によって19歳とい
う若さで亡くなりましたが、死を迎える直前まで克明な日記を綴っ
ていました。 

番組では、粟屋さんの日記を紐解きながら、戦争が人々に与えた衝
撃を振り返っていきます。 すでに原爆投下から60年以上が経過し
、戦争を知らない世代が多くなってきたこの世の中ですが、いろい
ろ考えさせられる時間帯になりそうです。(以上、番組宣伝より)
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得丸さん

今、ザ・ノンフィクション、見終えたところです。素敵な番組のご
紹介ありがとうございました。

そのころ19歳、そして現在は80歳代半ばの方々の証言が出てき
ますが、それらの方々の記憶の中に65年間生き続けた康子さんの
当時の存在感は、得丸さんもおっしゃってますが「まっすぐなもの
の持つ力」そのものです。

康子さんにもらったバラの花を忘れないために康子さんにもらった
髪の毛の上にバラを植えて65年間育て続けた台湾生まれの梁さん
の話は神々しくさえあります。また梁さんが康子さんに弾いてもら
った「乙女の祈り」を弾いてみせるシーンは金曜日の例会での「律
呂」そのものでした。

ありがとうございました
木野
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木野さん、

番組にお付き合いいただきありがとうございました。喜んでいただ
いて光栄です。

本に比べると、番組の伝える情報量は5分の1程度になるけれど、
ゆがめていた情報はあまりなかったし(広島で姪御さんが被爆して即
死だったことに触れていなかったのは、説明するのが面倒くさかっ
たからでしょうか)、当時のお友達の肉声や働いていた場所を映像で
見ることができて、康子さんのことをより身近に感じられました。
皆さん、いいお友達でしたね。

あの台湾の梁さんは、康子さんが亡くなったあと、ずっと魂が抜け
たようになって湘南の高木丈太郎さんの家にいたそうです。
国に帰ってからは、日本に留学していたことをひた隠しに隠して生
きてきたそうで、高木さんとも何十年も音信不通だったそうです。

梁さんが多磨霊園でお墓参りする場面のビデオがありましたが、計
画的に映像を残しておいたのでしょうか。
そのあたりは、本には書いてなかったことです。

ミクシーでも番組のことを紹介したら、同世代の宇宙技術の評論家
から、こっぴどく、なおかつしつこく、反論がきました。

>しっかりしてくださいよ!
>最初の原爆実験トリニティは、1945年7月16日。それまで、ロバー
ト・オッペンハイマーやレスリー・グローブでさえ、原爆が出来上
がるかどうか保証できなかったわけで。もちろん、出来たらどこに
落とすかの検討は先行していたけれども、最終的に広島に落とすと
決まったのはもっと後。
>だから、「昭和18年にすでに広島に原爆が落とされることが決まっ
ていて、陸軍がそれを知った上で、粟屋仙吉を爆心地に住まわせた
」なんてことはありえないです。
>広島は確か第一目標(相生橋が珍しい三叉橋で、爆撃目標に好適だ
った)でしたが、長崎の時は第一目標は小倉でしたよね。曇っている
と地上の被害が観測できないという理由で急遽長崎に変更されたの
でした。
>あまりに常識外のことが起きると、人は因縁をつい探してしまうも
のだけれど、大抵のことは偶然だったりつまらない理由だったり、
重大な結果と比して実にどうでもいい些細なことだったりするわけ
です。現実に因縁を見たがるのは人間の悪い癖です。

何が本当であったのかは、神のみぞ知るかもしれませんが、おそら
く99%の日本人は、粟屋仙吉の家が攻撃目標になっていたとは思わ
ないでしょうね。
僕は知れば知るほど、陰謀があったというふうに考えてしまいます。
このギャップは、どこから生まれるのでしょう。

ヒトの認知能力、知覚のフィルターについて、もっと研究する必要
があるのかもしれません。

得丸公明


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