3354.聴覚というデジタル入力回路



聴覚というデジタル入力回路
From: 得丸

みなさま、

言語のデジタル性について考えていたところ、(1)語彙とは何か
、(2)デジタル信号は耳から入力されるということに思い至りま
した。
少し長くなりましたが、ご意見ご質問などあれば、お寄せください。

得丸公明

 聴覚というデジタル入力回路 − 聴覚から入力される話し言葉
のデジタル符号が、五官の知覚をインデックス化して、語彙=記憶=
意識の三位一体が生まれる

1デジタル通信機器としての人体

(1) デジタル通信とは何か

 人類の言語がデジタル符号を使ったデジタル通信であることにつ
いてはすでに論じた。

 デジタル通信とは、どのような通信だろうか。一般的な定義がな
いので私流に定義すれば、「回線の両端で符号化・復号化を行なっ
て、回線上で有限・離散な信号を交換する通信」である。

「有限・離散信号」というのがデジタル信号のことで、エレクトロ
ニクスの世界では0か1かの二元符号であり、DNAの場合にはAGTC(ア
デニン、グアニン、チミン、シトシン)の四元符号である。0か1かで
あって、2や1/2や1/3などの値がない。DNAはAGTCであり、この4つ
以外の塩基がないことが重要である。受け取った側が、迷うことな
く信号を復元できるからである。

 ヒトの言語の場合には言語共同体ごとに決まっている音素や音節
がデジタル符号として用いられている。標準的日本語で我々が「分
離して聞き取っている単位的音声(音節)は112くらい」である。(山
鳥2008)[ l ]や[ c ]や[ v ]の子音はないし、母音もアイウエオの
5つに限られる。これがデジタル通信を行なう上できわめて重要なの
だ。

「符号化・復号化」はデジタル通信の中核である信号処理手法であ
る。一般に? 意味をできるだけ簡潔な符号に置き換える情報源符号
化、? 送信前の通信文に冗長的に誤り訂正符号を加え、受信後に確
かめ算を行なうことよって回線上で起こりえる符号誤りを検出し復
元する通信路符号化、? 符号を遠くに送りとどけるために電波や音
波などのアナログ搬送波をデジタル方式で変調する伝送路符号化の
3種類の符号化が行なわれている。受信側では、伝送路復号化、通信
路復号化、情報源復号化と、逆の順番で復号化が行なわれる。

(2) 伝送路・通信路・情報源の符号化とは

 話し言葉の場合に、伝送路符号化(デジタル変調)とは、肺から空
気を出して、それに声帯で振動を与えてアナログ音波とした後で、
声道の形状を変えることによって離散的なフォルマント周波数の組
み合わせを生み出して離散化した母音とすること、また、舌や唇や
歯茎や上あごを使って子音を付加することである。発声器官は、デ
ジタル変調器である。

 デジタル通信が成り立つためには、「生麦生米生卵」のそれぞれ
の音を離散信号として構音し、それを聞いた者が「生麦生米生卵」
として正しく聞き取れることが必要である。

 伝送路復号化は、聴覚器官が音声からデジタル信号を抽出するデ
ジタル復調である。話し声に含まれている音節というデジタル成分
を取り出して、聴神経を通じて脳の言語野に送る役目を果たす。

 ここで驚くべきは、我々の聴覚器官は、言葉は言語野に送り、そ
れ以外の聴覚情報は感覚野に送るという具合に、入力されたデータ
をデジタルとアナログの2系統に分けて処理していることだ。

 通信路符号化は、環境の雑音状態や、聞き手の数、聞かれたくな
い人の有無、聞き手の母語が日本語かどうか、方言の訛があるかど
うかなどの評価にもとづいて、大脳新皮質の運動野の指令で発声器
官の運動制御を行ない、あるいは、「朝日のあ」、「切手のき」と
いうようにフォネティック・コードとして冗長音節を加えて発声す
ることである。

 通信路復号化の誤り検出は、ひとまとまりの通信文が意味をもつ
かどうかという判断で行なっており、聞き取れなかった場合でも、
意味が通るように音を補完する。このために、聞き間違いや勝手な
解釈も生まれる。

 情報源符号化・復号化は、我々が意識の中にもっている語彙にも
とづいて、意味を符号語(単語)に変換し、符号語を意味へと復元す
る作業である。また、文法にしたがって、語頭や語尾を変化させ、
単語を一列に並べること(いわゆるシンタックス、統語)も情報源符
号化の一部である。

 このプロセスを論ずるためには、そもそも語彙とは何か、語彙は
どのようにして獲得されるのか、獲得された語彙はどのように保存
され、利用されるのかを論ずる必要がある。

(3) 言語は、通信と思考と認識のためのツール

 これまでヒトの言語はデジタル通信であるとして、通信モデルに
もとづいて言語を考察してきた。しかし我々は言語を他者とのコミ
ュニケーションに用いるのみならず、思考にも用いている。

 思考は自分から自分に話しかけるので、話し手と聞き手が同じコ
ミュニケーションの一変型として考えられなくもないが、複数の情
報を比較した判断を行なっているので単なるコミュニケーションと
は違う。
 
 また、我々は言語によって世界を観察し理解している。たとえば
、山を歩くとき、木や草花の名前を一切知らなかったら、「緑がき
れい」、「花がきれい」としか思い浮かばないだろう。「アケビの
実が食べごろだ。キツツキの穴が開いている。立派な桂の大木だ」
といった詳細に目はいかない。

 普段の生活においても、我々は、目に入ってくるものを、ことご
とく言語化しつつ生きている。逆に言えば、言語化できないもの、
言葉としてもっていないものは、認識することができない。言語は
、我々の認知を決定づけるフィルターの役割も果たしている。

 言語化できないものが目に入ってくるというのは、過去の記憶に
ない、概念を壊される、驚くべきことであり、現代芸術作品や恐怖
体験がそれにあたる。

 たとえば原民喜が『夏の花』の中で被爆直後のヒロシマの町を描
いたとき、突然「片仮名で描きなぐる方が応はしい」といって「ア
カクヤケタダレタニンゲンノ死体ノキメウナリズム スベテアツタ
コトカアリエタコトナノカ」という一節を書き残したのは、意識が
受容を拒否する体験をなんとかして書き記そうとしたのだろう。

 こうして言語のもつ思考ツール、認識ツールとしての役割を考え
るとき、語彙とは体験や知識の記憶集成であり、同時にそれは我々
が意識と呼んでいるものと同じではないかと考えざるをえない。

2 意味のメカニズム: 言葉と記憶のD/A変換

(1) 意味とは何か

 我々はもの心ついたときから、言葉を使っているのだが、言葉の
意味とは何かということは、まだ解明されていない。

 情報理論は、意味は工学的ではないとして議論の対象から外し、
情報を2元デジタル化された後の01の符号列としてのみ扱ってきた。
情報理論の教科書でも、情報源符号化については画像や音声の量子
化について論じるのみで、我々が頭で考えたことがどのようにして
ビット列に変換されるのかということについて触れた本にはまだ出
会ったことがない。

 これは言語がデジタル通信であるということが見過ごされてきた
ためではないだろうか。

 一方、言語学でも意味論はほとんど議論されていない。独自の直
観的な言語論を展開する鈴木孝夫(1998)は「ことばの意味とは、あ
る音声の連続(たとえば「イヌ」という符号語)と結びついた、ある
特定個人の経験や知識の総体である」という。

 ここで人の話し言葉がデジタル通信であるということを思い出し
てみよう。「ある音声の連続」である?符号語?はデジタル信号列で
ある。意味のメカニズムとは、デジタル符号とアナログ知覚を結び
つけるものだと考えればよいのではないか。

 デジタル符号語による、アナログな知覚のインデックス化が語彙
形成であり、自分が意図していることを表現するときは自分の記憶
から対応するインデックスをみつけ(符号化)、符号語を受け取った
らそのインデックスをもとに自分の記憶の中でそれにふさわしい記
憶が呼び起こされる(復号化)のだ。

(2) デジタル符号によるマッピング能力

 デジタル符号語がどのようにして我々の脳内に取り込まれるのか
は伝送路復号化のところで触れた。アナログな音の入力器官とばか
り思っていた聴覚には、取り込んだ音声からデジタルな符号語を抽
出して脳に送るデジタル復調回路がある。

 各言語の声域にはパスバンドと呼ばれる周波数帯があって、日本
語は125〜1500ヘルツの比較的低くて狭い周波数帯にある。(イギリ
ス英語は2000〜1万2000ヘルツであるから日本語とパスバンドが重な
っていない。) もともと聴神経が脳に送る神経パルスはデジタルで
あるが、パスバンド内の音は大脳言語野に送られてそのままデジタ
ル符号として処理され、それ以外の音は感覚野に送られてアナログ
知覚として処理される。

 聴神経の言語聴覚能力は、誕生後に両親や祖父母から音声刺激を
受けることによって生まれるものである。音声言語刺激がなければ
、音節を離散的に聞き取る能力は育たない。これは、外国語を聞く
ときに、LとRやTHとS, Zを聞き分けることが難しいことからもわか
る。こうしてヒトは生後に家族から語りかけられることによって、
音声からデジタル符号成分を取り出すデジタル復調器(demodulator
)を発達させる。

 耳から取り込まれた言葉のデジタルデータが、アナログな五官の
知覚を記憶するための索引(インデックス)となることで、人間は大
量のデータを整理して記憶することができるようになったのだ。

(3)	概念化のプロセスと概念の役割

 我々の感覚器官はつねに外部からの刺激を受けていて、それらは
無意識の領域で未処理の感覚として一時保存されている。

 何かのきっかけで、それらの感覚に注意が向けられたときに、デ
ジタルな符号語が提示されると、アナログな知覚のインデックス化
、マッピングが無意識におきる。これは?概念化?、「概念形成」と
呼ぶ現象であり、生み出された概念、つまりアナログ知覚とデジタ
ル符号のセットは、脳内の長期記憶領域に送り込まれる。

 記号論の用語を用いるならば、デジタル符号は、「記号表現
(significant 現在分詞)」であり、それが指し示す(signifier 動
詞原形)アナログな知覚が「記号内容(signifi? 過去分詞)」という
関係が生まれる。

 これによって符号から記憶、記憶から符号へと反射的にD/A・A/D
変換が行なわれる。概念というパターン一致のメカニズムによって
、デジタル符号の指し示す意味やアナログ知覚の記号表現を即座に
思い浮かべることができ、そのおかげでおしゃべりや対話が可能と
なる。

 概念は知覚に限らない。掛け算の九九なども、「くは(9x8)=72,く
く(9x9)=81」と式の部分をデジタル言語符号とみなして、対応する
答をアナログパターン認識として丸暗記する概念の一例である。

 概念、すなわちデジタル符号によってインデックス化されたアナ
ログ知覚は、大脳新皮質の記憶領域に保存される。

 アナログ知覚は実体験であるので記憶は消えにくいが、それと結
びつくデジタル符号は、恣意的であり、なんら必然性がないので、
ときどき名前が思い出せずに煩悶することがある。これはアナログ
な記憶からの逆検索がうまくいかない事例である。これに対してデ
ジタル符号を思い出したときに、それが実体験であるかぎり、いっ
たい何を意味するかということで悩むことは少ない。

 このインデックス化された個別の記憶が概念であり、概念の集合
、概念の総体が、言語学で語彙(レキシコン)と呼ばれ、認知科学で
意識と呼ばれているものではないだろうか。

3 概念の限界や錯覚を乗り越える

(1) 概念の自己中心性の罠

 我々の意識が言語体験の集積であり、それは各人が世界とどのよ
うな関係を取り結んできたかによって決定づけられるとともに、各
人が世界を認識できるかを決定する。言語の議論が、最終的に宗教
観・世界観に及ぶのはやむをえない。

 我々は、生後に獲得される言語体験を蓄積して、語彙=記憶=意識
を形成することで、複雑なコミュニケーション・思考・認知を行な
うようになった。
 
 しかしながら、我々の言語体験は属人的な偶然の産物であること
や、概念化を迅速に行うためのさまざまなバイアスが作用している
ことによって、誤解や錯覚や誤判断が生まれる土壌があることを自
覚しておく必要がある。それは、各民族が伝承する昔話やとんち話
の教えるところである。

 イスラム教のスーフィーズムの伝えに「群盲象を撫づ」の話があ
る。町中の人が皆盲人である町に、はじめて象がやってきた。大工
と絨毯屋とペットショップ経営の3人の盲人が皆を代表して、象とは
どんなものかと触れてみたところ、大工は象の足に触れて「象とは
、柱のようなものだ」と思い、絨毯屋は象の耳に触って「象とは、
敷物のようなものだ」と思い、ペットショップ経営者は象の鼻を触
って「象とは、蛇のようなものだ」と思って、それぞれ自信をもっ
て結論を出した。三人が三人とも、自分の手で確かに触って確認し
たのだと言って譲らず、大喧嘩になったという話である。

 この話は、偶然自分がたまたま触ったところで象とは何かを判断
した話ですまない。結局三人に理解できたものは、常日頃から仕事
で触れているものに似たものでしかなかった。にもかかわらず、
それぞれ自分の認識に自信をもっており、互いに譲らず喧嘩になっ
たところがなんとも悲しい。

 自分の知っているものしか知覚できないのも、自分の確かだと思
う体験に執着することも、目が見える人間にあてはまる。概念のフ
ィルターのはたらきによって「人間は自分があらかじめ知っている
ことしか新たに知ることができない」我々の知覚は、じつに自己中
心的であり、普遍的な理解の存在を認め、それを目指すことすらお
ぼつかないのだ。

(2) 概念使用能力を段階的に発展させる

 どうすれば、普遍的な理解にたどりつくのだろうか。おそらく視
覚の錯覚を乗り越えるのと同じように、概念の錯覚を乗り越える訓
練が必要なのである。

 純粋無垢な子供は、まず、言葉どおりに鵜呑みにするところから
始まる。スーパーの安売りチラシでもテレビCMでも、選挙ポスター
や政策ビラでも、文字どおりに受け止める。

 昔の縁日には、「おおいたち」という出し物があったという。言
葉につられて小遣いをはたいて小屋に入ると、大きな板に血がつい
たものが飾られているだけで、子供はがっかりする。言葉を信じて
それに裏切られる経験を通じて、言葉を鵜呑みにしてはいけないと
いうことを覚えていくのだ。

 次の段階で子供たちが出会うのは、親や学校やマスコミに押し付
けられた概念のフィルターによって、物事を理解し、新しい概念を
受容拒絶する段階である。子供たちは、社会性というフィルターに
よって自分の知覚を型にはめていく。

 社会が安定していて、何も期待外れや予想外のことが起きなけれ
ば、固定観念にしたがって生きていても問題なく何不自由ない社会
生活を送って死んでいくことができるだろう。社会通念や常識どお
りに認知し、思考して困ることはない。

 だが、地球環境問題が深刻化する21世紀において、それではすま
ない事態が到来すると考えられる。我々は人類文明の転換期を生き
ることになる。そのとき、ゴーギャンが出会った問題、「私たちは
どこからきたのか、私たちは何者なのか、私たちはどこへ行くのか
」と向き合うことになる。人間とは何か、どうして生まれたのか。
言葉とは何か、どうすれば正しい思考にたどりつけるのか。時代と
環境に照らして正しい意識、大宇宙の法則に合致した思考枠組みが
必要になる。

 自己中心的な意識から脱却するためには、禅や修験道・武道が求
めてきたように、自我の要素を極小化し、過去の知覚記憶を忘れて
、ひたすら大自然の法、宇宙の法と一体化する生き方を求める必要
がある。それによって宇宙の法に即した自分を作り出すのだ。これ
こそが悟りである。

 概念使用能力の第3段階は、そのような方向に自己の身体と意識を
作り出すことではないか。

記事を少しわかりやすく整理した図です。
ご覧ください。

http://www.milestone-art.com/MILESTONES/issue101/htm/p14tokmaru.html


参考文献:
山鳥重「知・情・意の神経心理学」2008,青灯社
鈴木孝夫「言語文化学ノート」1998,大修館書店


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