3338.政治家の世襲問題について考える



政治家の世襲問題について考える


                           日比野

1.民主主義のコスト

政治家の世襲問題について考えてみたい。 

「基本的に、企業も社会の中において、民主主義のコストを払うべ
 き立場にあるんではないかと。したがって、その、企業団体の、
 いわゆる自由というもの、認めてしかるべきだし、企業団体側か
 ら献金が政党に出されて、なされたということを、禁止っていう
 のが、よく私には理解ができないところですけどね。」

2009年4月28日のぶら下がり会見での麻生総理のコメント。

この総理のコメントの中で注目したいのは「民主主義のコスト」と
いう言葉。まず、この民主主義を成立させるためのコストをいうも
のについて考えてみる。

民主主義とは、諸個人の自由意思の集合をもって物事の意思決定を
行なう政治体制のこと。だからその条件として、国民一人ひとりに
表現の自由と選択の自由が与えられ、保証されていないといけない。

選挙の場合でいえば、何者にも制約されることなく、個々人独自の
判断によって、自分で選んだ候補者に投票できるということ。

そのためには、なんらかの方法で候補者を選択できるための判断材
料を手に入れられる環境があるということと、選択した結果を投票
行為として示すのに何の制約も課されないという2点が必要になる。

前者は選挙活動、選挙公報を通して公開され、後者についても有権
者には全て投票用紙が配布されることで一応どちらも保証されてい
る。

だけど、前者と後者について、それぞれコストという面で考えると
その内容に大分差があることが分かる。後者は各有権者に投票用紙
を配布して、投票所を設けて、投票管理人に立ち会ってもらって、
集計して、といった一連の決まった作業しかないから、それに必要
な費用は、同一選挙区毎でみれば、大体いつも似たり寄ったりで大
差ない。

ところが前者となると、選挙活動に限ってみてもその議員なり、候
補者なりの活動の程度によって、必要なコストは全然変わってくる
。

一人でも多くの有権者に自分の政策を伝えたいと思えば、公民館な
り施設を連日借りては有権者と討議したり、選挙カーの大量投入に
よる呼びかけや、電話攻勢なんかをバンバンすることになる。

公民館だって、いつもタダで借りられるとは限らないし、選挙カー
のガソリンや電話代が空から降ってくるわけじゃない。

選挙って、頑張れば頑張るほどお金が必要になる。それは事実とし
てそうなっている。金のかからない選挙なんて、NHKの政見放送
だけで当選するくらい難しい。
 


2.政党助成金

首相「テリーさんね、例えば、小選挙区約40万人。有権者40万
   人。そのうち10万人にテリー伊藤のパンフレット。郵便代
   切手80円。印刷代、封書して印刷しますから、それで約1
   0万人かけますと、印刷代、封筒代何とかで最低200円。
   それでかける80円、足す80円。280円かける10万円
   、それで2800万円ですよ。あれだけ1枚で。これだけお
   金がかかるということはテリーさん、それだけかかると思っ
   ておられました。」

2009年3月15日に行なわれたNHK「総理に聞く」でのやり
とりの一部。

民主選挙を行なう限り、選挙にお金がかかることは殆ど避けられな
い。だから、いろんな企業や団体なんかからの政治献金はとても有
難いものだったし、献金が無いととても選挙なんかできない。とこ
ろがそうした選挙献金が色々と問題になって、制約を課すようにな
った。そして、その制約の代償として1994年に政党助成金とい
うものが導入された。

政党助成金とは政党の活動を助成する目的で国庫から交付される資
金のことで、その総額は国民1人あたり年間250円。額としては
、人口一億二千万人から250円づつ集めて、全部で300億円く
らい。

07年の政党助成金は、自民党が165億9583万7000円、
民主党には110億6382万4000円が支給されている。全体
としてみれば大きな額のように見える。だけど議員一人頭に換算す
ると五千万円から一億円程度。これでも多いじゃないかと思えなく
もないのだけれど、冒頭の麻生総理の発言で分かるとおり、例えば
有権者に候補者のパンフレットを一枚出すだけで一人あたり280
円かかる。

政党助成金が国民1人あたり年間250円。国民にパンフレットを
一枚郵便で出すだけで1人あたり280円。差し引き30円のマイ
ナス。候補者は一年で一枚のパンフレットも送れない。

ならば手紙じゃなくて、どこかの集会場にすればいいじゃないかと
いう考えも当然ある。だけど、もしそうしたとしても、多くの人数
を収容できて、しかもタダで貸してくれる場所なんて殆どない。た
とえば球場を使ったとしても、せいぜい数万人ぐらいしか入れない
。それに球場使用料だってバカにならない。地方球場なんかだと一
日数千円で貸してくれるところもあるだろうけれど、都市部でドー
ム球場なんかになったら、数万、数十万単位で必要になる。

ましてや選挙区全員が一度に入れる会場なんて考えられない。それ
以前に何万人も一箇所に集めたら、会場設営だとか警備誘導だとか
安全確保のための人員も必要になる。入場料でも取らないと採算が
合わなくなってしまう。

そうなると必然的に大会場ではなくて、地元の集会場なんかを安く
借りてということになるけれど、そんなところは大抵50人か10
0人入ればもう満杯。だから、より多くの有権者に聞いて貰いたけ
れば、順番に何度もやるしかなくなる。

仮に有権者一人あたり250円助成して貰えるという前提で考えて
みても、会場に100人に来てくれてやっと二万五千円分の助成金
が貰える。それを午前と午後の一日2回やったとして、200人で
5万円。いくら地元の集会場とはいえ、会場を一日借りる費用にお
茶とお菓子を出せば殆ど無くなってしまう。スタッフに謝礼でも払
えばまず赤字。

テリー伊藤氏は、民主主義の運営コストとして政党助成金を払って
いるというけれど、一年で一枚の手紙も送れず、会場も満足に借り
られないような金額しか渡せなくて、一体何を助成していると言う
のだろうか。
 


3.地盤・看板・鞄は民主主義のコストを最小化する

選挙に勝つためには、「地盤」「看板」「鞄」の所謂、三バンが必
要だとは良く言われること。

「地盤」とは、選挙区内における支持者の組織、団体のこと。

「看板」とは、広く一般にその名が知られていること。知名度があ
るということ。

「鞄」とは、選挙資金がそれなりにあるということ。

日本の選挙での当落は後援組織の充実度、知名度の有無、選挙資金
の多寡や集金力の多少に依存している場合が多く、それらを端的に
表したのがこの三バン。

民主主義における選挙において、候補者は本来有権者に何を知らせ
なければいけないかといえば、その候補者の政策。有権者はその政
策を聞き、また候補者の人となりを知った上でその可否を判断しな
いといけない筈なのだけれど、そのためには避けて通ることの出来
ない前提がある。それは、有権者に候補者の存在をまず知って貰わ
なければならないということ。

何処の選挙区に何々という候補が立候補している、という事実を有
権者に知って貰わなければ始まらない。政策云々はその次の話。

この知ってもらうという事だけでさえ、膨大なコストが発生する。

先に、麻生総理のコメントとして、一枚のパンフレットを10万人
に配るだけで2800万円かかるという話を紹介したけれど、28
00万円かけてパンフレットを配ったとて、どこまでそのパンフレ
ットを読んでもらえるか分からない。隅々まで読んでくれる人も当
然いるだろうけれど、名前だけ見て、あとは忘れてしまう人とか、
中には、何にも見ないでゴミ箱にポイする人だっているかもしれな
い。

しかも、パンフレット程度の大きさだと、多少なりとも公約くらい
は書けたとしても、細かな政策を書いたりするだけのスペースは無
いし、書いたところで大抵は専門的な内容になる政策を、文章だけ
で正確に理解してもらうことは難しい。いきおい何々を実現します
とか、これこれを目指します、とかいった当たり障りの無い、抽象
的な文言になりがち。

だから、選挙で沢山のお金を使って、パンフレットなり手紙なり、
葉書なりを有権者に送ったりしたところで、名前だけでも覚えて貰
えば御の字というのが現実。

また、選挙になると、よく家に何々候補をよろしくお願いします、
なんて電話が掛かってくるけれど、そのほとんどは名前しか伝えな
いし、伝えられない。中には政策やら何やらを話すこともあるかも
しれないけれど、あまりにも深い内容になると、候補者本人とか政
策秘書でないと答えられないし、電話でそんなに一人に時間を取ら
れては効率が悪くてやってられない。大抵は事務所に来てください
となる。

そういう現状を考えると、「地盤」「看板」「鞄」の三バンがどれ
程のアドバンテージを生んでいるのか良く分かる。

「地盤」があれば、候補者の名前なんか、支援組織内では衆知の事
実。改めて知らせる必要はない。それどころか、友人・知人に候補
者の支援をお願いしたり、選挙活動を手伝ってくれたりさえする。
「知らせる」コストが殆どタダで済むどころか、勝手に知らせてく
れさえする。とても有り難い存在。

「看板」があれば、候補者の名前は既に知られている。有権者に「
名前」を知らせる必要は殆どない。唯一必要になるのは、立候補し
ている事実を伝えること。それとて、タレント候補や著名人なんか
だと、雑誌やテレビで立候補しましたなんてニュースやインタビュ
ー記事をバンバン流してくれるから、立候補したことを知らせるコ
ストすら最小化されている。

「鞄」があることの優位は説明するまでもない。豊富な選挙資金が
あれば、それこそパンフレットなり手紙なりをどんどん刷って配っ
て、電話攻勢もガンガンやって、候補者の名前を衆知徹底させるこ
とができる。

だから、選挙における三バン、特に「地盤」と「看板」は、最初か
ら名前を知らせるというコストが殆ど発生しない。また「鞄」です
ら資金があればあるほど、スケールメリットが働くから相対的にコ
ストは抑えられる。

地盤・看板・鞄は、民主主義のコストを最小化する。
 


4.鼓腹撃壌の日本

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、「日出而作 日入而息 鑿井而飲 
耕田而食 帝力何有於我哉」

老人有り、哺を含み腹を鼓うち、壌を撃ちて歌ひて曰はく、「日出
でて作し 日入りて息ふ 井を鑿ちて飲み 田を耕して食らふ帝力何ぞ
我に有らんや」と。

口語訳:また一人の老人が口に食物をふくみながら、腹つづみをう
ち、足で地面をたたいて拍子をとりながら、「おてんとうさまが上
れば耕作に出かけ、おてんとうさまが沈めば家に帰って休む。井戸
を掘ってうまい水を飲み、田を耕しておいしい飯をたべる。天子の
おかげなどわしらには何の関係もないことだ」

『十八史略』より


古代中国の伝説の五賢帝の一人である堯帝は、ある日自分の政治が
うまくいっているか知るために忍び姿で街に出たところ、一人の老
人がこのような歌を歌っていて、それを聞いた堯帝は治世がうまく
いっていることを知ったという有名な逸話。ここから治世がうまく
いっていることを「鼓腹撃壌」というようになった。この老人は、
日々の生活に充足し、満足しており、天子の政治を意識することす
らない。

経営アナリストの増田悦佐氏はその著書で、高齢者の生活困窮者の
国際比較データを例示している。

それによれば、経済的に日々の暮らしに困っている、または少し困
っていると答えた人の割合は、日本で14.5%で一番少ない。こ
の割合はアメリカで27.6%、ドイツで29.9%、フランスが
40%、韓国に至っては49.6%だというからダントツに低い。

こうしてみると、日本人は政治に殊更関心を示さなくても、日々の
暮らしは普通に行なわれ、社会が維持されている。日本は世界で一
番「鼓腹撃壌」を成し遂げている国。

日本人は、政治に関心のない国民だと云われるけれど、逆に言えば
、国民が政治を意識しなくても生きていけるという古代中国の理想
社会になっているとも言える。

確かに国が戦乱に明け暮れていたり、餓死者を大量に出すような社
会状況であれば、政治に関心を持たないと生きていけない。先日タ
イでクーデター騒ぎがあったけれど、そんな社会だったら要人暗殺
も日常茶飯事だし、いつ戒厳令が敷かれるかもわからない。安心し
て暮らせない。

日本でも昨年大騒ぎになった毒餃子事件。昨今の豚インフルエンザ
もそう。普段政治のことなんて知らん振りのくせに、いざ自分の身
に危険が及ぶとなったら大騒ぎ。

老子の第十七章には「太上下知有之」《太上(たいじょう)は、下
(しも)これあるを知るのみ》とあり、治められた人民が、ただ自
分たちの上に政治をする人がいるということを知るだけで、有り難
いとも何とも感じていないのが最上の政治だとしている。

本当にこのようなことが在り得るとしたら、本当に行き届いた理想
的な政治が行なわれているか、民の要求レベルが極めて低くて生き
ているだけで満足する程度の、実に慎ましやかな欲求しか持ってい
ないかのどちらか。

昨今の毒餃子問題、新型インフルエンザ騒ぎのみならず、時にガラ
パゴスとも揶揄される機能満載の携帯電話やデジタル家電、これで
もかというくらいのサービスに加え、次から次へと新製品が登場す
る日本。

日本人の要求レベルは極めて高い。

だから、日本の政治が「太上下知有之」になっているとしたら、そ
れは本当に「鼓腹撃壌」の国になっていたのだ、と考えるべき。

もし日本が、毒餃子や豚インフルエンザが日常茶飯事の国であった
なら、もっともっと政治への関心は高くなる筈。だけどそれは、決
して褒められたものじゃない。

そして更に、日本がその高まった関心を抑圧し、弾圧するような国
家体制だったとしら、どこかの国のように日常的に暴動が起こって
いるに違いない。

日本は荒れてきたとはいえ、そこまで酷くはない。日本はまだまだ
老子の理想の国の範疇にある。
 


5.徳治主義と民主主義の隙間

「鼓腹撃壌」はその前提として、仕事があり、住処があり、食糧が
行き届いていなければ、成立しない。戦後の高度経済成長がそれに
大きく貢献したことは否定しない。

そもそも民主主義とは、自分の国のことは国民皆で話し合って決め
ようという制度だから、お上から何々はご禁制である、という具合
に問答無用で規制されることはない。原則論としてそう。ゆえに国
民ひとりひとりの能力が最大限に発揮されることになって、国力が
増大しやすいのが民主主義の強み。その増大の程度は国民の数だけ
足し算されてゆくから、専制政治なんかよりうんと大きい。

だけど、高度経済成長を振り返ってみると、今でこそ何かと問題視
されている政財官のトライアングルがその核となっていた。これに
よって経済成長が強力に推進されていったことは事実。そしてそれ
があまりにも巧く行き過ぎたことが逆に仇となった。

どういうことかというと、日本の戦後復興からの発展は、国民ひと
りひとりが政治に対してコストを掛けることなく、ましてやコスト
が掛かることを殊更に意識することなく行なわれ、しかも成功して
しまったということを意味するから。

仮に、政財官のトライアングルを"天子"だと見立てれば、戦後日本
は民主制を敷いていながら、実際に行なってきたのは徳治政治であ
り、なおかつその理想である「鼓腹撃壌」社会を実現したことに当
てはまる。

民主主義においては、政治にコストがかかるということを国民が意
識していない。ここに今の問題がある。

徳治主義はその政策決定において、少数の"天子"によって決定され
るからコストはそれほどかからない。それに対して民主主義は民の
意見を全部聞いて、取り纏めないといけないから、民の数だけコス
トがかかる。

だけど、徳治主義は"天子"に全てを任せて、それでうまくいくとい
う政体だから、それが逆に、国民ひとりひとりが政治にコストを払
うという民主主義の基本を忘れさせる。

日本の政治家は、当然日本人のための政治をしてくれる筈だという
「徳」を信じる全うな国民ほど、民主主義のコストを払わない。自
分から何もしなくてもうまくやってくれると思っているから、そん
なコストを支払う訳がない。

だけど、それは自分達に都合のよい政治をさせようと思う輩(やから
)が、意識して民主主義のコストを支払うことで、恣意的な政治をさ
せることができてしまうという危険をも同時に孕んでる。

建前や制度として民主主義であっても、国民の意識が徳治主義のま
まであると、その隙間を狙われてしまう。今の日本で一番注意すべ
き点はここ。

よく政治不信だなんだといわれるけれど、民主主義がきちんと機能
している限り、不信など在り得ない。自分達で選んだ政治家を信じ
られないということは、即ち自分自身が信じられないということに
なる。だから日本で政治不信というのは、徳治政治をしている筈の
政治家がそのように見えないから信じられないということであって
、政治に不信ではなくて、政治家の「徳」に対して不信を抱いてい
るということ。

徳治国家から徳が失われたら、目も当てられない。民が悲惨な目に
あう。



6.世襲という看板

「いよいよ、九代正蔵を襲名いたしました。これもひとえに、長く
 温かい目で見守っていただいた皆様のご声援のおかげと、心より
 感謝しております。江戸より続く名跡を立派に継ぎ、七代目の祖
 父をはじめ歴代の正蔵の名に恥じぬよう、これからも精進してい
 く所存であります。どうぞ末長く、ご贔屓のほどお願い申し上げ
 ます。」  
                    2005年吉日 林家正蔵

政治家が自分の地盤を息子・娘に継がせるときに、後援会や支援者
達にそう伝えて継いだ子供を紹介するけれど、これって、歌舞伎や
落語なんかの襲名披露となんら変わらない。

歌舞伎や落語の世界では、世襲なんて掃いて捨てるほどいる。落語
家の子供が落語家になっても誰も不思議に思わない。何故、歌舞伎
役者や落語家の世襲は問題なくて、政治家の世襲が問題とされるの
か。

マスコミは、政治家の世襲は新人の登場を妨げるからだと批難する
。確かに新人が政界にどれくらい進出できるかどうかで、世襲制の
是非を問われる面はある。

多少強引な例えだけれど、政治家を落語家に置き換えてみると件(く
だん)の三バンは次のように置き換えられるだろう。

地盤・・・師匠・一門
看板・・・屋号・噺家名(三遊亭なになにとか、桂何某とか。)
鞄 ・・・寄席・定席

そして政治家としての能力は次のように置き換えられよう。

政治手腕   ・・・芸の力量
得意分野   ・・・芸風

そして選挙で当選することを真打ちになることだと置き換えてみる
と、新人が代議士になる道は相当に険しいことが分かる。


真打ちになるためには、芸の力(政治手腕)があることは勿論なのだ
けれど、寄席や定席で何席も打って御客さんに認めてもらわないと
いけない(政治実績)。そうした実績を示した上で、一門から認めら
れて推薦(党公認)されないといけない。

だから、弟子入りして、芸を磨いて、寄席に出て研鑽を積む。それ
を続けてようやく真打ちが見えてくる。

そんなとき、落語家の息子だったらどうかというと、その噺家を知
るお客さんは、ああ、あの噺家の息子かという目で見る。一門も跡
をつぐのだろうとなんとなく思っているし、幼いころから寄席にも
顔を出すような環境で育つ。親の七光りがある。スタートからアド
バンテージがあることだけは確か。だけど、落語界は別に噺家の息
子でなくても、実力さえあれば、真打ちになれる。それは、芸を磨
く環境がちゃんとあるから。政治家と落語家の一番の環境の違いは
ここ。

三バンが全くない新人を落語家に例えてみると、まず、何処かの師
匠や一門に入門(入党)するまではいいのだけれど、ここからが違う
。まず看板がないから、誰も知らない前座名から始まる(尤も、噺
家の子供であってもスタートは前座名になる)。地盤がないから師
匠に稽古をつけて貰えない。鞄がないから寄席にも出られない。こ
れでどうやって真打ちになれというのか。

独学で芸を磨いて、自分で営業して席をもうけたり、ストリート落
語でもやって、少しづつファンを増やしていくしかない。よほどの
才能に恵まれないかぎり、真を打つまで物凄く時間がかかる。

だからといって、世襲を禁止したり、制限したところで問題の根本
解決にはならない。世襲新人は党公認を受けられないだとか、親類
縁者からの資産を受け継いではいけないだとかいうのは、地盤や鞄
を剥ぎ取る事と同義。誰であろうと、問答無用で前座に突き落とし
てドサ回りをさせるようなもの。

本来は、誰が弟子入りしても、自らの芸を多くの人に見てもらって
、あの噺家ならば将来真を打てるだろうと、お客さんに認めてもら
う仕組みをどうやって作っていくかを考えるべきであって、どんな
に才能があっても簡単に真打ちにさせないやり方は、かえって才能
の芽を摘むことだってある。民主主義的考えからは、多少逆行して
る。

一門から破門して、ストリート落語をやって修行してこいと突き放
すのは、芸の肥やしにはなるかもしれないけれど、そうであれば、
普段からストリート落語をやらせておいて、芸を磨かせておくべき
。選挙になったからさぁやってこいというのは少し違う。

それに、いくら地盤と看板を剥ぎ取ったところで、親の七光りまで
剥ぎ取れない。民主党の鳩山代表が北海道から立候補したところで
、鳩山邦夫氏が福岡から立候補したところで、世間は鳩山ファミリ
ーだと見る。看板は下ろさせて貰えない。

ただの冗談だけれど、政治家も、噺家の襲名披露ようにかつての大
政治家の名を名乗ることで一気に認知してもらうことだって理屈と
しては可能。三代目大久保利通とか、二代目西郷隆盛とか名乗って
立候補すれば「看板」の問題は解決する。尤も本人の実力が伴わず
に、イエスとか秀吉とか過去の偉人の名を名乗ったところで相手に
されないのが普通なのだけれど。
 


7.一門の力
 
政治家は国民の代表であるべきか、それともプロの実力を持つ政治
家であるべきか。勿論両方共に備えていることが理想だし、そうで
なくちゃいけない。

国民の代表だけれども、政治の素人であったら、官僚のなすがまま
にされてしまう危険があるし、政治のプロだけれど、国民の代表と
いう意識がなかったら、利権を欲しいままにすることだってある。

それを、食い止めるために選挙というものがあるというのはそのと
おりなのだけれど、選挙で素人か、国民を代表しない議員しか選べ
ないのであれば、何百回選挙をしたところで、国民が迷惑を被るば
かりでちっとも良くならない。

民主主義という仕組みのなかで、如何に国民の代表かつプロの政治
家を選んでいくかという命題は常に国民に突き付けられている。

だから、政治家を政治家として訓練する機関や実践の場はどうして
も必要になってくる。さもないと、とりあえずタレント候補を立て
て当選させて、あとは有力政治家や官僚の操られるがままなんてこ
とだって十分あり得る。

世の中には、当然政治家を養成する機関はある。松下政経塾なんか
は有名どころだけれど、それ以外にも例えば党が運営する自由民主
党中央政治大学院だとか、都連が設置するTOKYO自民党政経塾など
がある。中には小林興起政治経済塾などのように個人議員が開いて
いる政治経済塾なんてのもある。

さしずめ、これなんかは師匠が弟子に稽古をつけるように、政治家
としての力をつける養成機関。他にも地方議員からスタートして知
事、国会議員などに転進していくケースもある。こちらはストリー
トライブから有名になってメジャーになる道にあたるだろうか。

こうやって、実際に政治家になってゆく経路を見てみると、その背
後には、弟子の面倒を見てくれる師匠であるとか、バックアップし
てくれる一門であるとか、そういった縦の関係が強固に出来上がる
傾向が見てとれる。それは、派閥形成要因のひとつでもある。

その反面、そうした縦の関係の中で育ち、党公認を受けたり師匠の
応援を受けるような候補は、その政治手腕、所謂「芸」の力を一門
が保証していることになって、有権者にはそれなりのプロであると
アピールできる。

勿論、最初からどでかい「看板」を背負っているタレント候補はそ
の限りじゃない。だけどタレント候補であっても、一旦当選してか
らあと大過なく議員が勤まっているのであれば、それは誰かの操り
人形と化しているか、師匠筋、一門の教育が行き届いていて、それ
なりの政治家として育っているということなのだろう。
 


8.民主主義のコストを薄く広く負担する 

「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから。もっと多く
 の方々に参加して貰えるような、喜んで貰えるような、そんな土
 壌にしなきゃ駄目ですよ。」  
                      ニコニコ動画より

日本では、まったく畑違いの分野から新人が政界に入ろうしても、
民主選挙がある限り、地盤・看板・鞄の『三バン』に代表される民
主主義のコストをどうクリアしていくかという問題に直面する現実
がある。

これまでの選挙では、民主主義のコストが莫大になって、三バンを
持っていないと物凄く不利な立場に立たされていた。その傾向は小
選挙区制になってから、益々酷くなった。

基本的に小選挙区制の定員枠はひとつしかない。唯一人しか勝ち残
れない。莫大な民主主義のコストを支払って、全力で応援したとし
ても、一票でも足りなければすべてパー。だから一票でも多く票を
確保しようと躍起になる。そんなとき選挙区が狭いと、より念入り
な選挙活動ができる。街頭演説なんかでも、同じところで何回もで
きるし、お願い電話だって何度でもできる。必然的に選挙に投入で
きる人員と金が多ければ多い候補はどんどん有利になってゆく。

中選挙区のように広い選挙区だと、移動に要する時間があるから、
逆に選挙活動の正味時間を減らすことになって、金のない候補のハ
ンデを緩和する効果はあったのかもしれない。それに定員がひとつ
じゃないから、2番手、3番手でどうにかこうにか当選する目もあ
った。だけど小選挙区だとそれがないから資金力の差がより選挙力
となって現われる。

そんな状況を、ネットが打ち破る可能性が出てきている。

2008年のアメリカ大統領選挙では、オバマ氏のネット戦略が絶
大な威力を発揮した。

オバマ氏はMIXIのような16の有名コミュニティーサイトに登
録して、有権者とコミュニケーションを取る姿勢をアピールした。
そしてそのサイトの中で、自身の最新ニュースやビデオを配信しな
がらユーザーとコミニュケーションを取る戦略をとった。その結果
、大統領選挙当日には、オバマサポーターズと呼ばれる、友達リス
トは230万人にも達し、09年4月には600万人を超えたとい
う。

また、オバマ氏は選挙期間中にネットによるオンライン献金を活用
して総額7億4500万ドル(約735億円)もの選挙資金を集め
ている。

ネットで選挙活動をする場合、民主主義のコストは、ネット接続使
用料という形で、有権者がその大半を支払ってくれる。候補はカメ
ラの前に立ち、そこそこのスペックのノートパソコンとそこそこの
スピードがある回線を用意すれば、いちいち街頭に立たなくても、
同時多発的に演説ができる。しかも有権者からの反応も得られ、そ
れに答える用意さえあれば、いくらでも答えることができる。

選挙カーが候補者の名前を連呼するだけなんかより、よっぽど密度
の濃い選挙活動ができる。

最近になって、政治家がネット動画などに出演して、自らの政策な
どをアピールするケースがちらほら出てきているけれど、日本のネ
ットユーザーはレベルが高いから、変なことを言おうものなら散々
に叩かれる。だけどそれはより確かな民主主義を行なう上で喜ばし
いことなのだと受け止めるべきだろう。

ニコニコ動画で「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですか
ら。」と言い放った政治家は、ネットコメントで見事に炎上した。

これからの選挙においてネットを使う政治家がいるとしたら、その
意味を十分に知っておく必要がある。だけど、ネットを相手にしな
い政治家は、その意味すら分からない。これからの時代、そんな政
治家は社会そのものから取り残されてゆく恐れすらある。

尤も、ネットを使う人々も民主主義のコストを自覚して、献金なり
、投票なり具体的行動に結びつかないとその人達自身が取り残され
てしまう可能性も同時にあることはある。

昨今はNHKへの集団訴訟に見られるように、ネット発の抗議行動
なんかも行なわれている。まだまだ端緒にしか過ぎないのだけれど
、注目すべき現象ではあると思う。
 


9.直き真心持ちて 道に違ふことなく


子曰:“道之不行也,我知之矣:知者過之,愚者不及也。道之不明
也,我知之矣:賢者過之,不肖者不及也。人莫不飲食也,鮮能知味
也。” 

孔子曰く「私は道の行われないわけを知っている。智者はその智が
高遠に過ぎて、道を行う必要がないと思い、愚者は智が及ばず、道
を行う方法を知らないからだ。また私は道が明らかにならないわけ 
も知っている。賢者は人情に通じ過ぎて、道を行う必要がないと思
い、愚者はその行いが及ばず、道を行う方法を知らないからだ。何
人も飲食しないものはないが、真にその味を知るものが少なきがご
ときものである」 
                    『中庸』 第四章より

孔子は、徳は智・仁・勇の三つが揃って始めて完成すると説いた。
智は知識や智恵、仁は愛情や仁義、勇は勇気や意思のことだと広く
知られているけれど、これらはそのまま政治家に必要とされる要素。

政治家には理念と政策が必要だと良く言われる。そしてそれを現実
のものとする政治手腕も。これらを、それぞれ孔子の智・仁・勇に
対応させると、理念が「仁」、政策が「智」、そして政治手腕が「
勇」に相当するだろう。

天下の正道を行なう為には、道を知り(=智)、人情に通じ(=仁)、実
際に道を行なう意思(=勇)がないといけない。故に、政治家は智・
仁・勇を全部持ってないと務まらない。智だけでも駄目だし、仁だ
けでも駄目、そして勇がないと何も行なうことはできない。全部揃
って始めて、民を安んずることの出来る政治家になれる。

徳ある人には、必ず協力者が現われる。それは徳治主義でも民主主
義でも同じ。だけど、民主主義は民の数の分だけその人の徳を知ら
しめる工夫が必要。

民主主義の一番の強みは身分や経歴に関係なく、能力如何で上に立
つことができること。たとえ政治家であってもそれは同じ。

世襲が良い悪いというのではなくて、有為の人物を選挙できちんと
選べているかどうかが大切なこと。だけど、民主主義というシステ
ムそのものに付随するコスト負担をしっかり自覚しておかないと、
その有為な人材が逆に政界に出ることを難しくするというパラドッ
クスは知っておかなくちゃいけない。

それを解く鍵は、国民が民主主義のコスト意識をどれだけ持てるか
どうか。この問題を上手く解消したとき、民主選挙においても有為
の人物、徳ある人物が選ばれるようになってゆく。

民主主義のコストは何もお金だけじゃない。時間だってそう。候補
者の演説を聞きに言ったり、事務所にいって質問したりして、どの
候補なら支援できるか自分なりに決めていくのだって、時間という
立派なコストを支払っている。

多分に理想の話だけれど、もしも有権者の殆どが候補者の名前は勿
論のこと、その政策や実力を知悉していたとしたら、選挙カーに乗
って名前を連呼するなんて何の意味もなくなる。政策や実力そのも
のが問われるから。

Jリーグのチームサポーターの様に、試合毎にあの選手のパフォー
マンスはどうだったとか、あのクロスは絶妙だったとか、プレー内
容そのものを振り返って一喜一憂するように、政治家の中身そのも
のに踏み込んで支援するようになったなら、選挙そのものの意味が
変わる。

突き詰めていえば、民主主義のコストとは、ひとりひとりの参加意
識。政治に参加してゆく意識を持つことが、民主国家において国民
が支払うべきコスト。

今よりほんの少しだけ、政治に興味を持ってみる。

今よりほんの少しだけ、社会がよくなることを考える。

そんな意識を持つだけで、社会は確実に変わってゆく。

そして、民主選挙において、徳ある人を選ぼうと思ったら、出る側
も選ぶ側も、「利」から遠く離れていないといけない。損得などに
興味がない人であればこそ、徳ある人を応援できる。己が利権で身
動き取れない人は、徳ある人を必ずしも選べない。

国民ひとりひとりが、しっかりと民主主義のコストを払うこと。

利権による票の割合を、相対的に低くすること。


そのときはじめて、天の岩戸は開きはじめる。


素の心、直き心で、道にたがわぬ人物を選んでゆくこと。

徳ある国民が、より神近き人物を選んでゆくこと。


国民(くにたみ)が直(なほ)き心で選ぶとき 神近きもの政(まつりご
と)為さん。


徳治主義と民主主義が融合した姿がそこにある。
 
(了)

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