3333.脱中心時代の結節点機能



            脱中心時代の結節点機能 
                                                  虚風老

 
脱中心化(ヒエラルヒーの解体)とネットワーク型社会においてハ
ブ型という、連結される量による勝利がすすんでおる。
プロダイバーや空港などまた商社など連結されていくものの量によ
って決まるであろうの。
あるいは、市場や英語やウインドウズなど連結の採用が多いものが
デフェクトスタンダードとなって、勝ちになるという現象が顕著で
あるわいな。
そのなかで、そこは単に「連結されている」というだけで、ヒエラ
ルヒー的な命令系統ではなくなっていくのではないじゃろうか。

東京はハブとしては勝利しつづけるかもしれんが、霞ヶ関は、その
ヒエラルヒーと縦割り故に硬直化してしまい恐竜のようなモノにな
りはててはいまいか。
地方の中核都市は、ハブ機能を持ちはじめているが、それ以外の場
所は一層ローカル化し機能を落とすことになるのであろう。(道州
制などの地方分権もその方向を指し示している)また自動車なども
、組立てのヒエラルヒーより、採用される電池=等部品によってハ
ブ化(国際的な再編が)されるのかもしれない。

結節点というのは、いうなれば、「渦」のようなもので、複雑系に
おけるアトラクターの役割をになっておる。流れがそこに収斂し消
費という力がそこの誘因なわけじゃ。

もう一つは、脱空間性にある。
近代国家のメンタリテイが「領域」にあるのに対し、活動のボーダ
レス性は進行していくであろう。(帝国と新中世化)
ボーダー型社会において出てこなくてはならないのは、「各国軍」
ではなくて「共同型の警察軍」アジアン・シー・ポリスのような各
国持ち出しの海洋警察のネットワーク(協調運用にならなければな
らない。一体となった運用(情報通信)。一つの法(条約法)の下
での機能的運行)法と情報の共有によって、命令系統に組み込むこ
となく、参加型の治安を達成するべきであろう。

領域・ヒエラルヒー思考を脱し、ネットワーク・アトラクター型に
転換していかなければ、明日はない。

      虚風老
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ちょっと、どうでもいいワシの考え… 
                     虚風老

まあ、ほんとうは、どうでもええんじゃが、このBBSは、この頃占有
させていただいておるので、酔ったついでにゴタクを書き込んでお
こう。(いつ酔ってない時があるかって?そりゃあ、秘密じゃ。
まあ、どんな言説もゴタクに過ぎないといえば、そうじゃしね(^^)
ワシは、比較宗教学的な立場から、宗教を見てしまうので、どうし
ても、一つの宗教宗派のいわゆる「信者」になることができないん
じゃな。同時に、「いわしの頭も信心から」とか「信じるものは救
われる」とかいうことの有用性も認めてしまうのじゃがね。

どちらかといえば、何故人は「神」を必要としたのかとか、何に
「神」という名を附したなかとかというふうに考えてしまう。

人が「神」を考える時それは「畏れ」からでているのかもしれない。
自然界にはたくさんの人知を超える<力>があり、それのもたらす
<現象>があった。その力のことを何がしかの名称をつけることで
、「認識の括り」とする。

この場合、認識とは「切断」と「包括」である。
切断とはその他から区別をつける排他的な行為である。そして、
その概念にはある類型が包括されている。
言語には排他性があり、「火」という言葉を使う時には「火」で包
括されたもの以外が排他される。(Aは非Aを排他している)
ただし、「火」で包括されたものは、内部的にいくらでもまた分割
することができるので、なにを包括しているかというのは、厳密に
言うことはできないじゃろう。

論理とはこの排他原則に従ったまま、無矛盾であることを命として
おる。だから、「一即多多即一」というのは、論理上は認められない。
しかし、実はこれは、論理が一つの固定的視座からしか語れないこ
とを意味している。
「一即多多即一」というのは、実は「一即多」と「多即一」の間に
はぐるりと視座を反対方向に変更しているのである。
論理的には視座を変更することは、別の論理線上へ移行することを
示しておる。
(前提が異なってしまう)こうなるとどちらも別の前提から導き出
された論理に従うので、論理に破綻はなくても平行線を辿ってしま
うわけじゃ。
論理の場合は、前提が同一であることが必要である(数学の場合は
同じ公理上になければならない)
そして、西洋の思考哲学は、根本的には「ロゴス」とは一体何かと
いうことにむけられておる。そしてそのロゴスは神学と結びついて
さえいる。

キリスト教哲学で、うまいと思えるのは、「神は合理によって証明
できないゆえに、完全・最高の神である」というのがあって、合理
というのは、無限を証明できないのじゃな。
つまり無限とは外側に切断が無いこと=つまり包括されないを指し
、ゼロとは内側に包括されるものが無いことをしめしそれが切断が
できないことをさす。どちらもこういうものは言語的に「認識」で
きないのである。(カントールがおこなった無限の処理は無限を三
つに分けその内、対応関係で処理できるものを「括り」として扱っ
ている。だから神的無限は扱えないとしている)

認識(言語等)は「切断と包括」が同時にできることなので、無限
や空を自家薬籠のものにするには八不か認識(言葉で言い表すこと
)を捨てなければならない。

また、人がモノを語る時、じつは、話しの射程を長くとったり短く
したりしているんじゃな。
いわば、話しの有功射程を無意識にズーミングしておる。

という、話しはおいといて、今日は宗教の話しなんじゃた。
(うーん千鳥足)

まず神と仏の違いについて話してみようかの。
神というのは、基本的には「招福避害」なのだと思うんじゃ。
いわゆる「鬼は外福は内」というのが原型というわけじゃ。
招福の最たるものは、古代農や狩や畜産での豊穣であり、避害は病
や、自然災害であったろう。
それらを左右したと思われる自然現象を括って、擬人化したものが
神(多神教)や精霊であろう。
それに祈りを捧げるから派生して「操神」できるかと考えたのが祭
儀なのであろう。

戦いの神というのは、負ければ、死んだり奴隷化されたり富みを奪
われたりするので人為的な最大の害であり、他方はそれを獲る=富
栄えることができるので、戦う「神」を前面に押し出す意味はわか
る。そのために祭儀をする。(これは今でも戦争の意味を変えてい
ない)
一神教というのも、神のヒエラルヒーを最高化していって(一つの
神を他の神との対抗上)、ついには最高神が他のものへの流出した
という形(プロティノス)で、他の神の無効化するという。論理上
の無限化から導きだされる。故に一神教では、神=無限でなければ
ならない。その無限の力(全知全能)の神と取引きすれば、他の神
なんて恐くないわけだ。

神を祭儀によって操るのがむりならば、善意を向けてくれることを
期待してひたすら頼み込む(祈る)他ない。しかし、科学はより「
因果の法則」を明らかにし、技術をつかえば、その因果が再現性を
持つことを知った。
現代は、それらの因果関係を実証的に解き明かして、祈りではなく
、直接的に自然現象へ介入するというのが「科学技術」であり、自
然を支配するという思想の行き着いたところであるといえよう。

しかし、生命個体において避けられない恐れは、「死」である。
この死の恐れを無害化させるために、神の保証を考えたのではない
かということだ。
つまり死んだとしても「本当には死は断滅ではない」というある種
の虚構を提示することで、死の恐怖を和らげるというものだ。

ただ、これを完全な「虚構」とは言い切れないところがある。
わしは、神の存在とか宇宙の意志については不可知であると思って
おるが、古今東西の神秘家は、体験として光りと一体の宇宙を語る。
(神秘学者というのは、象徴の読み解きと配置=いわば学問にある
が、神秘家というのは、ただのある種の体感者じゃといえよう。)
あるいは、これは、脳内現象として、の脳構造に基礎をおく共通体
験なのかもしれぬが。

たとえば、脳の具合によっては、現前や、最近の記憶ではなく、古
い記憶がどんどん視覚化(幻視)されてでてくる。それが、最初の
光体験(視覚由来以前の)まで戻るとも考えられる。
まあ、わしも神秘家という分類にはいるかもしれない方なので、宇
宙の無量の光・無限の命という体感することはあるんじゃがね。

宇宙(神)に目的や、自由意志があるかは不可知じゃが、
生命には目的(継続しようという意志)や選択の自由意志があるじ
ゃろう。それを神と名づけたものに投影しようとするのはわかる。
この場合、操神には、神に選択の自由意志があることが、重要にな
ってくるスピノサのいう理神論では、神は(物理)法則だけ立てて
意志的(選択的)に介入しないので、選民思想も、わたしだけ助け
て(ゴット・セイブ・ジ・アメリカ)も、審判もなりたたない。
しかし、それを超越性を確固として信じるということができれば、
「安心」を得られるかもしれない。

仏教はは、ダンマ(法)に従うので、本質的には理神論に近い。
(その中で、縁起の法則。物事には固定された確個たる本体(我)
はない。すべては変転している。人にとって現象というのは、心を
通じてみているもの。というのだけを示している=これらは、現代
科学の結果と齟齬しない)、ただ、布教の過程で、東アジアや、印
度チベットでも、神観をとりいれないと、人々に受け入れられない
ので、入り口が、「神の装い」と近くなってしまっている。

仏教というのは、「苦憂(不安)」からの解放である。と前にも書
いた。
おそらく、シッダールタは、恐ろしい憂悶(不安)を抱えたために
それを解決するために、サモンの道へ入ったのであろう。後に6師
外道と呼ばれる、有名な修行者を回ったが、それでも憂悶は解決し
なかった。

最後に彼は、「悟り」つまり不安と苦を根底から無くすことに成功
する。無苦憂それを彼岸と呼ぶ。
冷暖自知というが、苦憂そのものは、その人にしかわからず、その
人の苦憂(不安)が無くなったかどうかもその人にしかわからない。
そして、なくなったことは、その人にとっては、真実である。

修行とは、もちろん彼岸へ至る道を見つけ出すことでもあろうが、
その悟りを単に頭ではなく身体化することであろう。そしてそれら
もひっくるめて全部忘れ去ってしまう。
彼のいう「絶対の彼岸」は、出家をとおして得られるものなのかも
しれない。
しかし、後に、大乗仏教が興る。これは、在家信者達が、それでは
、救いは出家以外にはできないのか、欲望を断滅するいがい、世俗
生活を続けるモノは救われないのか?
ということから起こってくる。また、東アジアでは、輪廻解脱とい
うのは無く、(東アジアの神観は基本的に祖霊崇拝=祖神霊で、
それは今に至るまで変わっていない)生の継続の上で、無苦憂に至
る道として求められたせいであろう。
仏教は禅においては老荘的感覚からよまれており、また、日本で定
着した死の儀礼では、儒教的形式を取りいれているといえるじゃろ
う。(礼とは、もともと原儒が、祖神霊を奉る祭儀から発展してい
る)

実は、苦や憂というのは、たくさんのレベルや場合が存在する。
「大乗」仏教というのは、「はたして、他者を救えるか?」という
ことが自己を救うということより重要なのだとおもえる。(故に菩
薩=自分の苦の完全な消滅以前に現世に残って人を救わんと修行を
続けることを選択したものが重視される)
苦・憂は根底的にそれを取り除くのは無理でも、現前の、その引っ
掛かっているところだけを外すことができれば、また人は前向きに
生きていける。その引っ掛かかる(執着)ところは千差万別である
ので、対機説法にならざるをえない。(また別なところに引っ掛かる
かもしれないが、人には共通して引っ掛かり易い場所というものも
ある。また、その場所から外すだけでなく、外し方を覚えてしまえ
ば何度でも応用も利く。)

また、諸派の中には、「死の不安」の一点突破を目指す場合がある
。死の不安が言わば不安の根源であるから、この方法は有効であろ
う。
この前テレビである和尚さんが、女子大で、教える時に、生徒自身
が何かの不治の病にかかったとして、余命なんか月かを設定して、
近親者に手紙を書いてみるという授業をしてみているという。これ
などは、死から逆照射して、自分を見詰めるというシュミレーショ
ンなので、とても効果があるらしい。

また、苦の由来が、社会的な構造や、仕組み、あるいは貧しさによ
っている場合がある。
この場合社会を変えようとすれは、より政治的な解決を目指すばあ
いもあろう。
この場合世俗権力と衝突する場合があるわけじゃ

シッダールタは、より根源的な個人のこころの中にある苦と憂に焦
点を絞っていたといえるだろうがね。(実際サモンは、生きていく
ための最低限度のものしか手にしなかった)
ひたすら生のための欲の追求と反対方向へ歩いている。(ただし、
生の本源そのものに近づいているともいえるのじゃが)

苦憂そのものには、こころ由来のものと身体(生理的)由来のもの
があるんじゃろうが、心身一如の考えかたからすれば、最終的には
生理性を乗り越えなければならないのであろう。(インド式のニル
バーナとは、輪廻からの解脱であり生の連続から離れることである
からそうなるのであろう)修行というのもそういう知見を身体化す
ることによって、本物にしていくことなのかもしれない。行無くし
て智は完成しないというからの。
まあ、わしゃろくな修行をしとらんので、そんなものは乗り越えて
おらんわけじゃもんで、迷いの森で遊行するしかないがの。

般若智とは、前のいくつかの知見から導きだされる「空観」を自分
のものにするためにある。「空」の前にはあらゆる価値観も欲の本
源も無化される。(差別化や優位化という欲求=認識から無分別に
かわる)それらは、燃え盛る命の火が動くたびに激しく揺れる影絵
のようなものだ。確かに、生きている以上炎は燃えている。それを
よくよく見詰めていると、いかに自分がその影に執着し鼻面を引っ
張りまわされることを知ることになる。

それもまた、執着を捨てるための方便なのかもしれない。

あるいは、ただ、現前の一つのことに打ち込む。剣や学問やあるい
は生活に。。。あるいは、天職である自分の仕事にただひたすらう
ちこんで、他の迷いを全部捨て去ってしまう。
それらもまた、違うアプローチで不安を蹴り飛ばす方法なのかもし
れない。

また、利他行とは、自身を捨て去るための最大の法であるともいえ
る。
情けは人の為ではない。とは、そうすることによって、自己の修行
=自己(とその欲望)への執着を断ち切る法であるということじゃ
ろう。

であるから、空観なんかからアプローチせずとも、利他行=慈悲を
徹底することは、最高度の修行であった。慈悲行そのものが、他者
を救うとともに、自己の完成であるというのが、法華経(大乗仏教
の大経典)のいわんとするところなのじゃろう。
ある意味そのひとが、本当に空観=般若智をモノにしているかは、
その人が自分の名や利益をまったく忘れはてて、自己を開き他者
(の苦憂を減じるために)につくしているかで判るといえるかもし
れない。仏教の経典や理屈などまったくしらなくても、マザーテレ
サなどは、菩薩行の人であるし、ペシャワール会の人や、たくさん
の無名の人々が日々それにいそしんでいる。菩薩行とは、力の大き
さではなく、「意志と行為」の問題なのだ。

人が満足を覚える道は一つではない。不安に立ち向かう方法も一つ
ではない。
その人が自己をどのように探求するか。そして生を切り開いていく
か。

ただ、犀の角のように歩め。という言葉が燈台の灯のように輝く。

              虚風老


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