3320.谷村はるか歌集『ドームの骨の隙間の空に』



きまぐれ読書案内 谷村はるか歌集『ドームの骨の隙間の空に』
From得丸公明

みなさま、
珍しく歌集を読みましたので、感想をお届けいたします。

得丸公明



ヒロシマと書き分けないで広島の忘れたふりを真に受けないで

きまぐれ読書案内 谷村はるか歌集『ドームの骨の隙間の空に』(青磁社、2009年)

 一般に歌人は他人の歌を実に丁寧に読む。自分の歌を作るだけでも忙しいはず
なのに、どうして他人の歌に時間を割けるのだろうかと思ったことがある。おそ
らく合気道の稽古のように、他人を砥石として自分の意識や感性や技を磨いてい
くことが大切なのだろう。詩という言葉の芸術はそれを読んで理解する人がいて
はじめて成り立つから、ひとりよがりではダメで、他者に通ずる言葉を紡がなけ
ればならない。だからお互いに読み合いながら受け取った気持ちを語り合うこ
と、歌会や結社活動が大切にされるのだ。

 谷村はるかという若い歌人の第一歌集『ドームの骨の隙間の空に』は、読み終
わった私の中で、広島にまつわるさまざまな記憶が甦り、自然と歌が生まれたの
で、実にいい稽古相手であったといえる。

ヒロシマとカナで書かねば作動せぬ想像力か 橋の上にて 谷村はるか

ヒロシマと書けば残りの日常の広島はもう祈らずよいか

ヒロシマと書き分けないで広島の忘れたふりを真に受けないで

八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる

 これらの歌は、戦後日本において、カタカナ表記の被爆地と漢字表記の現代都
市との二つの顔をもっていきてきた街の抱える、意識の深層にある混迷・戸惑
い・失語状態をうまく表現している。8月以外の広島だって被爆地であり、原爆
死者の魂が漂っている街である。だのに我々は、その当たり前の事実を忘れて、
ほとんど封印して生きている。8月以外には原爆のことは考えないようにとする
思想統制があるかのように。おそらく今でも広島は心を閉ざしたまま、記憶喪失
者のように、カタカナのヒロシマとは別次元の街として生きているのだろう。

 昨年、鷹揚の会では、鬼塚英昭さんの『原爆の秘密』を夏合宿で読んだ。本を
読むまでは、「何をいまさら、広島について学ぶべきことがあるだろうか」と
いった慢心が私の中になかったかといえば嘘になる。だが本を読んで、昭和20年
8月6日に広島でおきたことについて、私は何も知っていなかったに等しいことを
思い知らされた。自分も広島について深く考えないようにという思想統制の中
で、それに慣れ親しんで生きてきたことを実感したのだった。

『原爆の秘密』が明かす舞台裏知って新たな悲しみおぼゆ 得丸公明

『原爆の秘密』の描く物語などてすめらぎ投下を許す

恨んではいけない人の決断に過去も未来も捨てたヒロシマ

もろもろの記憶を欠いたヒロシマは六日の朝の一瞬の光

過去に迫る問いを無口で聞き流し広島人は心を閉ざす

広島が何も語らぬそのわけを聞くすべありや心の底を

直前に家族を疎開させた人誰から何を聞いたのですか

この国の戦後の闇が隠蔽すピカにまつわるすめらぎタブー

陸軍の恨みを買った粟屋市長一家もろとも爆心に死す

広島は何を覚えているのだろう何故あんなにも寡黙なのだろう

 推敲も十分でない急ごしらえの下手な歌を披露してお恥ずかしいが、歌集を読
むことで、刺激されて歌が生まれる例だということでお許しいただきたい。

ふわり来てとまる鷺には丸屋根はその名持たない遺産でもない 谷村はるか

ノート借りてしかも筆写(うつ)さずコピーした世代、根性つけそびれまして

吹き方を風は自分で決められず止まりたいのに吹き抜けてゆく

 日本がユネスコの世界遺産条約に加盟したのは1992年で、当時私はパリのユネ
スコ本部に勤務していた。秋の総会のころだったか、広島ユネスコ協会の方々
が、広島の市民が自主製作した映画を何本か持ってこられて、ユネスコ本部で上
映会があった。このときも原爆に関する映画はなく、一本は痴呆性老人の看病だ
か介護の話だった。

 そのとき、広島の人たちとお茶だか会食する機会があり、原爆ドームこそ世界
遺産にふさわしい、アウシュビッツだって世界遺産なのだから原爆ドームは間違
いなく登録されますよ、と焚きつけた記憶がある。幸い、アメリカがユネスコを
脱退していたこともあり、原爆ドームは割と早い時期に世界文化遺産の登録を受
けた。

 その世界遺産も、鷺にとってみれば、単なる古びた建築でしかない。人間の文
明や文化は、人間にしか通用しないひとりよがりなものであり、動物にとってみ
れば、不自然な無機物であり、せいぜい止まり木にしかならない。

 谷村はるかの広島以外の歌は、「世代、根性つけそびれまして」にみられるよ
うに、ユーモアと、四句の途中にくる上の句と下の句の区切れと、五句の字余り
のような技巧を駆使した、現代的な変調リズムかろやかな歌が多くて楽しい。現
代を生きる人間のこだわりやさびしさなど、意識の記憶領域に刻み込まれた人間
臭い生活の一場面を明るく切り取って歌っている。それはそれで楽しいものがある。

 だがそれらの多くは、野生動物にとってはまったく無意味なものだ。私は、風
を擬人化したか、自分を風になぞらえた「吹き方を」の歌のほうが好きだ。動物
たちが理解できない固有名詞や文明的なものへのこだわりなど一切捨てて、一般
名詞と単純な動詞だけでつくられた歌。これなら動物もその気分を共有できるか
もしれない。それができれば動物たちと我々の心の交流も回復することができる
のではないだろうか。

 谷村はるかの歌集を読み終わって、私の意識がぼそぼそと言葉にしたのは、次
のような歌だった。

人間は愛されるため生まれ来て愛するために生を営む 得丸公明

 人間の尊厳は言語活動にあり、我々は詩歌を手にすることができた。これはま
さに大宇宙が人間を愛したからおきた奇跡といえる。だから我々はこの大宇宙、
世界のすべてにお返しする義務がある。世界のすべてを愛すること、まさにこれ
こそが詩歌の果たすべき役割ではないだろうか。

(2009.6.15)




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