3310.農業技術で世界に貢献



日本の役割は、日本企業が世界に工場を建てて、世界経済を開発し
て一大市場にすることであるが、発展途上国を工業国家にする前に
基本的な生活ができる農業を根付かせることが最初である。その基
礎があると工場が進出でき、工業が根付く。そして、中国や韓国な
どは自分の手で自国産業を作り、自国企業で製品開発を行えるので
、日本の支援は必要がなくなる。しかし、まだ最初の一歩ができな
い途上国に対して、援助することが必要である。特に最初の一歩が
重要であると見る。

私は、ネパールのムスタンで農業指導をする近藤亨(こんどう 
とおる)やブータンで農業技術を教えた故西岡京治(にしおか け
いじ)などを見ると、農業から国を興すことが必要であるという原
則と農業技術を教えるのも忍耐が必要であることを学ぶ。

今後、モンゴル、中央アジア、チベットなど寒冷地の発展途上国や
アフリカの農業を手助けする必要があると見る。今後、農産物の奪
い合いが起きると見るが、この時、途上国が困窮することがないよ
うに寒冷地農業をどうするかを研究する必要がある。また、日本に
は農薬を使わない有機農法や北海道のような寒冷地があり、寒冷地
の農業を研究している。   津田より

0.はじめに
 徐々に投資資金が再度、米国債などの安全ではあるが低金利な投
資から、今後需要が増えると見られる農産物や資源・エネルギーに
向い始めている。このような商品は価格の高騰などが起き易いよう
だ。

ありあまる投資資金があり、それが実体経済を動かす資金の10倍
以上もあるために、今後も実体経済を翻弄することになる。

一番問題なのが、主食である穀物類(小麦、コメ、トウモロコシ)
などの価格の上昇であり、発展途上国の国民は大変困ることになる。

この事態に備えて、日本は農業支援を世界に展開することが重要で
ある。そのいい例がある。ブータンの故西岡京治やブータンの近藤
亨、インドの故杉山龍丸、中国の故遠山正瑛などで、現在有名なの
がウガンダでネリカ米を指導するJICA坪井達史などがいる。

日本列島は端から端まででいろいろな気候がある変化に富んだ国で
あるため、多くの気象状況に応じた農業を途上国の現地に提案でき
るようである。

この農業技術をどうするかにお付き合いください。

1.ムスタンの事例
ムスタンは年間雨量150ミリ足らずという荒地で、風も10M以上と強
いために、小型機が飛べるのは風の弱い午前中だけである。緯度的
には沖縄と同じであるが、高度が2000M−3000Mであり、気温が低い。
季節変化より1日の温度差が大きい。この温度差をどう抑えるかが重
要である。岩のゴツゴツした地形である。

近藤亨は、ネパールでのJICAの果樹栽培振興指導をしていたが、こ
のムスタンの貧しい地域を助けようと、70歳の定年後に移住して
現在87歳だそうである。

初め、乾燥したムスタンに樹木を植えて、農作地にしていったのだ。
りんごなどの果樹も育てている。この成功後、耕作に手を伸ばした。
まず、野菜を作った。その野菜などの栽培のために石積みのビニー
ルハウスを作り、昼間の太陽熱を石に蓄熱することで、夜の冷え込
みを抑えて耕作可能にしている。稲作も同様な仕組みで行っている。
現在、3000Mの耕地での稲作に挑戦しているようである。

この石積みのビニールハウスは同じような条件の地域でも使える技
術のようである。その地域にある素材を生かして、地域にあったハ
ウスを作ることが重要であろう。

2.ブータンの事例
 ブータンは貧しい農業国であった。ここに西岡は1964年海外
技術協力事業団からの派遣で来た。最初に小さい200M2の試験農
場を与えられて、昼と夜の寒暖の差が激しい気候であることから、
それに適した大根を栽培した。これが大成功であり、2年目には3倍
試験農場が与えられ、2年の任期切れしようとした時、国王から任期
の延期を要請され、かつ30倍の広いパロ農場が与えられた。

1971年にはパロ農場で行われていた「並木植え」がブータンに
広まり始める。

1976年から1980年までの4年間、焼畑にのみ頼っていた山
岳シャムガン県の最貧地域を開発する農業プロジェクトに責任者と
して携わる。村人たちを800回の話し合いで説得した。

水田を開き、水路を引くのもビニールバイプや竹を利用した。橋を
架ける際にも、いたずらに莫大な費用のかかるコンクリート製の橋
を架ける事をせず、地元の吊橋架橋技術がそのまま使え、耐久性に
優れたワイヤーロープ製の橋を多数かけて、流通を促進すると共に
、身の丈にあった開発を、地元の人達の手で地道に推し進めた。

1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王か
ら「ダショー」の称号が送られた。1992年突然の死。ブータン
の国葬が行われ、パロに埋葬された。

3.ウガンダの事例
 モンティ・ジョーンズ博士がアジア稲とアフリカ稲の種間交雑し
、アフリカ固有の病害虫に強く、乾燥に強く、生育期間が在来種に
比べて短いという特長のあるネリカ稲を作る。現在では陸稲18品種
と水稲60品種がリリースされ、このうちウガンダでは陸稲の3品種を
奨励品種として普及している。

横浜での2008年第4回アフリカ開発会議で日本政府は人口増によ
る食料不足をなくすため、アフリカ大陸でコメ生産を10年間に倍増
すると公約した。

このウガンダで稲作指導をしているのが、坪井 達史である。
そのほか、西牧、後藤の2人で三専門家がウガンダ国内で出張指導し
ているが、時間は限られる。そこで、日本の本州ほどの広さのウガ
ンダ各地方にいる約100人の青年海外協力隊員のネットワークを活用
する普及作戦が09年1月に始まっている。

4.これからの日本はどうあるべきか?
 日本人は忍耐強く、あるもので工夫して、農業開発できる素養と
力を持っている。日本自体も世界に貢献できる経済的な基盤もある。

今後、人口増加に比べて食糧の増加が追いつかないと、結局、飢餓
が起こり、その飢餓をさけるために戦争になるなど、食糧不足は途
上国に悲惨なことが起こる可能性がある。

今から、そのような未来を見越して、人口計画などを行うとともに
農業開発を途上国で行い、食糧の自給体制を確立する援助は重要で
あると見る。

それも箱物を作るのではなく、現地にある材料をうまく使い、自足
できるような農業のシステムを作り上げることが必要なのであろう。
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JICA ネリカ振興計画専門家 栽培/研修担当  坪井 達史
アフリカの食料自給を助ける「ネリカ米」普及
http://www.maff.go.jp/j/pr/aff/0809/opinion.html

つぼい・たつし
JICAネリカ米振興計画 栽培/研修担当専門家。1949年、大分県出
まれ。59歳、日本大学農獣医学部卒。青年海外協力隊(フィリピ
ン)参加後、JICA稲作専門家としてフィリピン、インドネシア、コ
ートジボアール、ガーナ、イランのプロジェクトに勤務。2004年6月
からウガンダを拠点に東南部アフリカ諸国のネリカ米普及に携わっ
ている。

 私は、この国の首都カンパラから車で45分ほどのところにある国
立作物資源研究所で、4年前から、JICA(独立行政法人国際協力機構
)派遣の陸稲ネリカ栽培普及専門家としてウガンダの若い研究者と
一緒に働いています。

 ネリカという単語は一般の方には耳慣れないかもしれませんが、
NERICA(New Rice for Africa)と命名された、アジア稲とアフリカ
稲を交雑させた稲の品種シリーズのことです。1992年に国際機
関WARDA(西アフリカ稲開発協会)のMonty Jones博士が従来不可能
とされていたアジア稲とアフリカ稲の種間交雑に成功しました。
わが国もWARDAとの共同研究や資金支援でその開発に貢献してきてい
ます。現在では陸稲18品種と水稲60品種がリリースされ、このうち
ウガンダでは陸稲の3品種を奨励品種として普及しています。

 陸稲ネリカはアジア稲の高収量の性質と、アフリカ固有の病害虫
に強く、生育期間が在来種に比べて短いという特長を持っています
。ウガンダでは、2002年にネリカ普及が始まる以前の陸稲栽培面積
は1500ha程度でしたが、この改革で急速な広がりを見せ、現在では
約4万ha(約27倍)、10-15万農家で栽培されるようになってきまし
た。

 ウガンダの小規模で貧困な農家は、食用バナナ、とうもろこし、
キャッサバなどを自給作物として作り、わずかな現金収入はコーヒ
ーや野菜の販売などで得てきました。米はその点、自給用にも現金
収入にもなるため、農家にとっては魅力的な作物なのです。

 こういったウガンダの事例が参考となって、今年、日本で開催さ
れたアフリカ開発会議や北海道洞爺湖サミットの場で、わが国政府
はアフリカの食料の安全保障と貧困削減のために、アフリカの米生
産を10年間で倍増するための国際協力を実行することを表明しまし
た。これを実現するためには、ウガンダ以外の国々でもネリカ栽培
の普及が進むことが大切だと考えています。

 昨今の世界的な食糧危機への対処を考えるときに、わが国自身の
食料自給率を高める一方、アフリカやアジアなどの食料自給率を高
めるための国際協力がいっそう求められていると思います。その際
強調したいことは、人材の育成の重要性です。

 お金で米は買えますが、お金だけで米を作ることはできません。
お米を作るのは農家であり、それを助けるのが農業普及員であり、
研究者なのです。米づくりに係わる人材の育成こそ重要なのです。
こういった人材が育って初めて、アフリカの食料自給が達成できる
と思います。そのための人材育成の技術協力にこれからも微力を尽
くすつもりです。 
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近藤 亨(こんどう とおる)
http://www5.ocn.ne.jp/~mokeden/itiji-3.htm

1921年生まれ 新潟県加茂市出身
新潟県立農林専門学校を卒業、新潟大学農学部助教授を経て新潟県
園芸試験場研究員となり、76年に国際協力事業団(JIKA)の果樹専
門家としてネパール王国に派遣され、70歳の定年まで同国に派遣さ
れ、ネパールの立ち遅れた果樹栽培振興指導に尽力。

70歳の定年を迎えてのち、単身でネパールの秘境ムスタンに定住。

 92年、ボランティア組織「MDSA-ムスタン地域開発協力会」
を設立。同会理事長に就任、現地での活動を現在まで続投中。

 当会は近藤の理念により農業開発、実証展示、現地青年への技術
指導を手掛ける傍ら初等教育の振興に心を注ぎ、学校建設、校庭整
備、ネパールで初めての完全学校給食等実施、今まで13の小、中、
高校をムスタンの各村に建設、98年から病院を建設運営などの奉仕
活動を推進中。

 ネパール王国より2つの勲章を受けるほか、読売国際協力賞、毎
日国際交流賞団体賞、米百俵賞等受賞。著書に講談社から「夢に生
きる」・「ムスタンの朝明け」(かんぽう)短歌集「ムスタンへの
旅立ち」(新潟日報事業社)など。
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近藤さんのムスタン改造
http://makotoecocoro.blog57.fc2.com/blog-entry-86.html

●植林
町の外には、近藤さんが村人を指導して植林した樹木が植えられて
います。後10年もすれば立派な森になるそうです。
利用したのはヒマラヤの雪解け水。水さえあれば植物は育つという
シンプルな考えた方が成功をそうしたそうです。

●コシヒカリの栽培
普通高地では育たない。低温、強風、洪水などの過酷な自然が立ち
ふさがる。そして4年後(1996年)、見事な稲が実を結びました。根
元をビニールで覆うことで、水温の低下を防止し、強風にも耐えた
のです。翌年、ネパール国王から勲二等勲章を授かりました。

●養殖
雪水を利用したニジマスや鯉の養殖場。冷たく清み切った雪解け水
は、雑菌や寄生虫の繁殖をふせぎました。養殖所の助手(?)の
サントス君。日本に研修に行き、いまではすっかりネパール一の魚
技師。

●ビニールハウス栽培
ティニ村では、石垣で囲まれたビニールハウスが。
石のおかげで真夜中でも大して温度が下がらないそうです。
からし菜、ほうれん草、ピーマンなどを作ってます。

●養鶏
すっかりこの町に根付き、新鮮な卵を食べることができるようにな
りました。

●ヤギの飼育
最初は25〜30頭でしたが、いまではたっくさん。近藤さん。子ヤギ
に頭をすりつけ「ナマステ ナマステ」っとご挨拶。
このヤギ達のたい肥やきゅう肥が大切。これを檜や松たちにあげる
そうです。
この肥料のおかげで、不毛なこの土地でも作物が取れるのです。

●リンゴ栽培
なによりも村人を潤しました。綺麗なリンゴが収穫でき、ネパール
の首都の高級スーパーでも取り扱われるほど。
干しリンゴやジャムなどの加工品も近藤さんが教えました。

●学校建設
6歳〜14歳までの子供が学んでいます。今まで17校建設。毎年1校
づつ。近藤さんが中心となって作り上げて作り上げたボランティア
組織 ムスタン地域開発協力協会の地道な努力のおかげです。

●託児所
ムスタンの女性はほとんど働いています。そのためとっても役に立
っています。給食制度を供えています。

●病院
この病院にどれだけの人が助かったことでしょうか。

<睡眠時間は恐ろしく短い>
午後10時に床につき、真夜中の2時にはもう仕事を始めています。
書いているのは日本の支援者へのお礼状。すべて近藤さんの直筆で
す。支援者がいるからやってこられた。近藤さんはそれを忘れては
いないのです。

「日本でこれくらい広い農場はなかなかないでしょう」と誇らしげ
「桃源郷みたいでしょう」と

近藤さんは言います。「やりがいがある。村人を助けて豊かにでき
る。貧しい農家が豊かになるのを一目見てくたばりたいというのが
僕の夢です。」

ムスタンの町の人は言います
「優しい人です」「神様みたいな人です」
近藤さんは村人の笑顔に囲まれてすごしています。

町というか、国そのものを変えて行っている近藤さん。
すっごいですよね!一人の人間の力で、これだけすごいことができ
るのかと思いました。しかも70歳をすぎてからのスタート。
人間何歳になっても、すばらしいことを成し遂げることができるん
だって思えますよね☆

たくさんの人を幸せにし、たくさんの人から慕われ、
近藤さんの周りの人はいつも笑顔で、
これこそがほんとの幸せ。そんな例をみせてくれたような気もしま
す。
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西岡京治(にしおか けいじ、1933年2月14日 - 1992年3月21日)
は日本の海外技術協力事業団の農業専門家、植物学者。ブータン農
業の父といわれ、ブータン国王からダショーの称号を贈られた。
http://www12.ocn.ne.jp/~yuukari/hito/no7.html

 1992年3月、ダショー西岡(1980年ブータン国王は西岡京治氏の功
績をたたえて、英国のサーにあたる称号″ダショー″を贈った。)
の葬儀が、国葬として営まれ、王女や閣僚をはじめ、5千人近い人々
が参列し、40人のラマ僧の読経の中茶毘に付された。ブータンのす
べての人がダショーの死を悲しみ涙を流した。

 では、ダショー西岡がブータンでなしとげた功績とはどのような
ものだったのか。氏がブータンの農業指導を通して国際技術協力の
理想的なあり方を示した、たぐいまれな人であることを最も早く多
くの日本人に強く訴えかけたのは、本多勝一氏の記事「『ダショー
西岡』にこそ国民栄誉賞を」(朝日ジャーナル、1992年5月1日号)
である。
 氏は1964年、コロンボ計画農業専門家としてブータンに派遣され
たが、まずとり組んだのは野菜づくりの指導であった。村人が目を
見張るような収穫をあげ、日本式野菜栽培法はたちまち全国に広ま
った。ついでとり組んだ稲作でも収穫を飛躍的に伸ばした。5年間で
700ヘクタールの水田を開発し、5万3千人の焼畑農民が水田耕作に
切り替えた。氏の農園は、全国に種子、苗木を供給する他、農機具
の製作から土木機械の貸し出し、修理工の訓練まで引き受け、文字
通りブータンの農業センターとなった。
 このようにして氏は、ブータンの農業と人々の暮らしを根本的に
変革して豊かなブータンの国造りに大きく頁献し、ブータンの人々
の信頼を一身に受けることになったのである。
 しかし、氏の功績は、「こうした技術援助そのもの以上のところ
にあった。」と川喜田二郎氏は指摘し、「西岡君は、今後の世界に
向かうべき真の国際協力のあり方を身を以って示したのである」と
語っている。
 そこで、この両氏の発言、主張の意味を西岡氏自身の口から聞い
てみたい。「これまでの(いまも)国際支援は、大規模プロジェク
トの実施や、実験室内だけの援助でこと足れりとして来た。上から
与えられた援助であり、そして多額の資金が空費されているのが実
情であった」のに対し、氏の援助は「大金をかけた援助ではなく、
農民の声を徹底的に聞き、農民が真に必要とする技術を考え、普及
させること」であり、それが本当の国際協力だと言う。つまり、
「その土地にふさわしい援助、農民が自力でやることへの手伝い」
が真の国際協力であるとの哲学を貫き、身を以って実践したのであ
る。
 しかし、残念なことに、このような氏の功績は日本の政府に評価
されることなく、氏の農業支援にとって必要とされた資金も日本政
府からではなく、インドなどの資金に頼るということもあったとい
うのが実情であった。
 本多氏は、西岡氏の功績、国際的貢献について「わかり易い例え
で言えば、西岡は農業における野口英世とも言えようか。その第三
世界への影響力、今後の国際社会へのあり方への示唆からすれば、
功績はもっと大きく、かつ広いかも知れない」と記し、そして「世
界に誇るべき現代の日本人をあげるとすればこのような人物ではな
かろうか。西岡氏こそ真に国民栄誉賞に値すると思う」と一文を結
んでいる。
 このような西岡氏の早すぎる、突然の死をあらゆるブータンの国
民が悲しみ、涙を流したのはまさに当然のことではあるが、28年間
にわたって氏の残した業績は、氏の死後もブータンに根をおろし、
人々に受けつがれている。
 なお、奥様の西岡里子さんが西宮市で、京治氏の遺志をついで
「ブータンハウス」を主宰されています。
(http://www.geocities.jp/bh_kurakuen/sub2.html)


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