3284.文化の普及について



文化の普及について


                           日比野

1.善悪の裁定と文化の堆積
 
日本のみならず、海外でもネットブログが盛んだけれど、中華系の
日本語メディアであるレコードチャイナとかサーチナとかでは、い
くつかの中国ブログサイト記事を翻訳して紹介している。

その中のひとつ、中国の「新浪博客」というブログでは、中国で生
まれた多くの文化が日本に渡り、発祥地であるはずの中国がそれら
の文化本来の「精神」を失っている現状に対して、警鐘を鳴らして
いる。

確かに日本は多くの文化を受け入れてきた。日本の文化は、基本的
に大陸や海外から輸入してきたものを保存し、かつ自分たちで使い
やすいようにカスタマイズしていく形。

日本の価値観は、古いものでも捨てることなく、とりあえず取って
おく建て増し構造を持っている。

日本文化は過去何千年かの思想、文化が堆積してずっと残っている
。たとえそれを用いるときに自分たちの使いやすいように変容させ
たとしても、原本そのものを焼却したり、抹消したりすることはな
い。

和服は三国志時代の呉の国の服(=呉服)の伝統を今に伝えているし
、正倉院の宝物も現在に残っている。平安時代なんかのように大陸
文化の輸入を止めて、国風文化が栄えて、正倉院の宝物が忘れ去ら
れても、泥棒にあって散逸することもなく、そのまま残っている。

過去の文化が分断されることなく、堆積しているというのは時に凄
い威力を発揮することがある。たとえば、何かの問題に直面したと
しても、大抵過去を振り返れば似たような経験をしているもの。そ
の時その時でどう対処していったかという歴史が残っていれば、そ
れを掘り起こして参考にすればいい。

中にはその様式などが言葉とか、ちょっとした慣習として今でも残
っていたりすることもあるから、その場合は復興させるのはさらに
容易くなる。

日本がそうやって、過去の文物を取り入れ、それを捨てないという
行動の奥には、物事に対して、徹底的に白黒つけてしまわない、と
いう考えが潜んでいるように思う。もっといえば、すべてのものに
はどこかしら善いところがあり、それが故にそれを捨てるには忍び
ない。たとえ、今は使えなくても、将来何かの役に立つかもしれな
い。だからその時までとっておこう、と。

中国の易姓革命なんかだと、王朝が変わるたびに過去の遺産を抹殺
してしまうから、文化が堆積していかない。天意によって、君主が
交代するという易姓革命的考えは、ある意味において新旧の君主に
白黒をつけていると言える。

この白黒つけてしまうという考え、善悪の裁定を社会・文化として
、どこまで厳しく要求していったかが、現在の日本と中国の差を生
んだ一因なのかもしれない。


 
2.文化の多神教
 
中国で「繁体字」と呼ばれる旧字体の復活をめぐる議論が起きてい
るそうだ。現在の「簡体字」は中国の伝統文化の継承を妨げるから
、繁体字に戻すべきだというのがその理由らしい。

漢字の簡略化は古くから俗字として行われていたのだけど、清朝末
期から正字として使う運動が起こってきたとされている。

簡略化の方法は、字形の一部を残したり、元々の字の特徴や輪郭だ
け残したり、偏や旁を置換えたり、簡略化したりする。 

これらの簡体字は『簡化字総表』にまとめられていて、今では2,235
字に及ぶという。

日本人の目から見ると、中国の簡体字はちょっと省略しすぎじゃな
いか、とも思うのだけど、よくよく考えてみれば、日本でも簡体字
にあたるものを発明してとっくに使っていた。それも1000年以
上も昔に。ひらがな・カタカナの所謂仮名文字がそれ。

しかし簡略化の度合いだけで言えば、仮名文字は簡体字のそれを更
に超える。

簡体字は字形の一部を残したり、偏や旁を簡略化したりして作って
いったけれど、どんどん簡略化していけば同然、本来持っていた表
意文字としての機能が失われ、単なる音を表す表音文字としての機
能だけが残ってゆく。

ひらがな、カタカナも元々は漢字の草書体を更に崩して作っていっ
た文字だけれど、文字の機能としては表音しかない。

だけど、日本の文字と中国のそれを比較したときに、もっと注目す
べきことがある。

それは、簡易で覚えやすいカナ文字を発明していながら、漢字を捨
てなかったこと。カナ文字と漢字を「共存」させたこと。漢字は漢
字として保存する一方、使いにくい部分について簡略化したカナ文
字を作って、それぞれを共存させるやり方をとった。漢字そのもの
を捨て去ることはなかった。これは文化における多神教と言っても
いい。

中国は簡体字を使おうという発想まではよかったけれど、簡体字化
をどんどん進めて教育して、繁体字を見捨ててしまった。これは繁
体字を黒、簡体字を白という具合に、善悪の裁定をしたことと殆ど
変わらない。これが良くてあれは駄目という具合に完全に白黒つけ
るやり方は一神教にも似ている。

多神教はまとまりをつけるのは難しいけれど、一神教のように「我
のみ正し」とはならないから、それぞれの神が生き残ることができ
る。だから、一神教文明による侵略と破壊が無い限り、過去の文化
が保存されて堆積してゆく。

それに対して一神教は、「我のみ正し」で自分以外は全て排斥して
いく傾向があるのだけど、その代わり信仰の対象が唯一つ。簡単で
分かりやすいから纏めるのが凄く楽。


 
3.簡略化の誘惑
 
宗教なんかの布教活動で、多くの衆生に広げようと思えば、教えを
簡単にすれば広がるけれど、あまりに簡単にしすぎると肝心の精神
が失われてゆく。文化も同じ。

確かに、物事を簡単に簡単にしていけばいくほど、誰にでも理解で
きるようになってゆくから、多くの人への普及を考えると、どんど
ん簡略化していきたくなる。だけど簡略化すればするほど、本来の
意味が失われ、中身がなくなって形骸化してゆく。

何かの文化なり、精神なりを一般大衆に普及していく過程で大切に
なるのは、仏教が教える「上求菩提 下化衆生」の考え方。

文化の本来の精神を求め、保持するところの「上求菩提」と、文化
を簡略化して多くの人に伝える力となる「下化衆生」。「上求菩提
」と「下化衆生」の二つが揃って始めて質と量のバランスが保たれ
る。

日本は漢字を保持することで質を確保し、ひらがな・カタカナを普
及させていくことで量も持つことができた。

日本の小学校で最初に習う文字は「あいうえお」。ひらがなから入
っていってカタカナ、漢字と進んでいく。簡単なものから難しいも
のまで段階を踏んで勉強できるようになっている。

平安時代に発明されたカナ文字をは、当時宮中の女性を中心に使わ
れていった。だけどそのころは一般庶民は文字を使えなかった。文
字は時代の流れの中で多くの人に普及していった。

布教も文化も長い時間をかけて、普段の生活にまで溶け込むことで
ようやく定着してゆく。日本にはその時間があった。

もちろん教育しないと普及もなにもないのだけれど、社会が進んで
、文字を必要とする人が増えていくにつれて、誰にでも理解できて
、覚えやすい簡易化したものがないとなかなか広く普及していかな
いのも事実。そんなとき、仮名文字があって、漢字もある日本語の
体系はすごく威力を発揮する。

簡単な入口となる文字から本来の精神を保持している文字まで有し
ている文化には「上求菩提 下化衆生」があるから、普及しやすさ
と本来の精神それぞれを持っている。

だから、そのような奥行きのある文化や伝統を持っているというこ
とはとても大切なこと。

中国は識字率を高めるために簡体字を進めたという事情があったに
せよ、近代化を急ぐあまり、いっぺんに全部やろうと焦って行った
結果がいまの簡体字問題に繋がっているように思える。
 


4.国語国字論争
 
『一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さも
 ないと、長年のヘ育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學
 ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出
 來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學
 者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、
 同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望ま
 れなくなります。』

土屋道雄『國語問題論爭史』ホイットニーの書簡より


もちろん、中国だけではなく、日本も漢字や仮名遣いについて、同
じように簡略化していこうという動きはあった。

国語国字論争と呼ばれるそれは、歴史的には、進んだ外来文明を取
り入れ、近代化を測る際に、既存の言語体系では対応できなさそう
な時に常に湧き上がってきた。

近年の日本では、明治の文明開化時に、前島密の漢字廃止論、西周
のローマ字化論、森有礼の英語公用語化論などがあり、また昭和の
敗戦後の当用漢字および現代仮名遣いへの変更などがあげられる。

冒頭の言葉は、言語学者のホイットニーによる森有礼からの書簡に
対する返信なのだけれど、この往復書簡を持って、森有礼は日本語
廃止論を唱えたのだと言われることもある。

だけど一橋大学名誉教授で言語学者の田中克彦氏は、これらの書簡
では、文化の速やかな吸収・学習のために「不規則形を除いた」英
語を日本の公用語に採用したらどうかとホイットニーに書簡で伺い
をたてたところ、できそこないの英語はかならずばかにされて、正
統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすから日本語を捨てて
はならないと諭したに過ぎないという解釈を述べている。

この田中教授によるホイットニー解釈は「上求菩提 下化衆生」の
観点からみれば、とても理解しやすい。

「上求菩提」は悟りを何処までも求める道。求めれば求めるほど、
その坂は急峻となり、険しいものになる。そんな厳しい修行に耐え
て、道を求め続けられる人は何時の時代もほんの一握り。

どの言語に関しても本来の精神を歪めることなく吸収しようとする
と、やはり何処までも厳密に求めなきゃいけなくなる。だけど、そ
んなことをしたら、その道を歩める人は極々限られたものになって
しまう。道を求める人と、とてもついていけない人との間に断絶が
できる。ホイットニーが指摘したこの点は、まさに「上求菩提」の
宿命というべきもの。

森有礼は、当時最先端を行っていた西欧文明をいち早く吸収するた
めに、たとえ稚拙であっても、英語を日本の公用語のひとつとして
速やかに学問吸収の一助とすべしである、とホイットニーに問うた
。

森有礼のいう「不規則形を除いた」英語を日本の公用語に採用する
という考え自体は、教えを簡素化してでも広く一般に布教して衆生
を再度すべきであるという「下化衆生」の考えそのもの。

英語を公用語とすることで、広く普及すべしという「下化衆生」を
主張した森有礼に対して、ホイットニーは他国語の学習は「上求菩
提」でなければ成し遂げられるものではなく、またその道は険しく
て多くの者は歩けないから、公用語には向かないという見解を示し
てそれを否定した。

言葉を変えて言うならば、森有礼とホイットニーの書簡の往来は「
上求菩提」と「下化衆生」の兼ね合いの問題であったとも言える。
 


5.氾濫する外来語

国語国字論争で森有礼の国語公用化論は、散々な非難を浴び、そし
て戦後の当用漢字および現代仮名遣いへの変更を経たものの、結局
、日本は日本語を捨てることはなかった。

だけど、今の日本語の現状は、ある意味において外国語に対する「
上求菩提 下化衆生」を行なっていると言える。

今の日本語でカタカナ表記の外来語がない文章なんて探すほうが難
しい。アイスコーヒーやテレビを「冷し南米産豆出し汁」とか「箱
形電波受像機」なんて呼ぶ人はいない。

現在、外来語をカタカナ表記して、そのまま使用している現状をみ
れば、結果的に部分的ではあるけれど、「不規則形を除いた」英語
ならぬ、文法を除いた単語だけの稚拙な英語が、日本語の中に混ざ
って殆ど公用語化されていると言っていい。

カタカナは表音文字だから、文字自体に意味を表す要素は含まれな
い。だから外来語のカタカナ表記だけでは、その言葉本来の精神を
理解するのは難しい。その反面、外国語の音をそのまま表記するか
ら、言葉の輸入と普及に対するハードルは低い。

企業や学校でも専門用語とかなんかは、外来語のカタカナ表記がそ
のまま使われている。意味さえ理解できてしまえば、いちいち和語
の単語に翻訳する手間が掛からない分だけ普及させ易い。その反面
、あまりにも外来語を使いすぎて、ルー大柴のような言葉づかいに
なると訳が分からなくなるし、発音の問題で外国語を母国語とする
人との意思疎通がうまくいかないことだってある。

外来語のカタカナ表記は、その本来の精神を掴む「上求菩提」とい
う意味で不十分であり、英語の公用語化という「下化衆生」におい
ても、ほとんど単語としてのみしか使われることのない不完全なも
のではあるのだけれど、それでもホイットニーのいう「上求菩提」
と森有礼のいう「下化衆生」は、日本語を捨てずに、英単語をカタ
カナ表記することで、双方ともにある程度は実現してしまっている
ようにも思える。

「日本における近代文明の歩みはすでに国民の内奥に達している。
 その歩みにつきしたがう英語は、日本語と中国語の両方の使用を
 抑えつつある。〔……〕このような状況で、けっしてわれわれの
 列島の外では用いられることのない、われわれの貧しい言語は、
 英語の支配に服すべき運命を定められている。とりわけ、蒸気や
 電気の力がこの国にあまねくひろがりつつある時代にはそうであ
 る。知識の追求に余念のないわれわれ知的民族は、西洋の学問、
 芸術、宗教という貴重な宝庫から主要な真理を獲得しようと努力
 するにあたって、コミュニケーションの脆弱で不確実な媒体にた
 よることはできない。日本の言語(the language of Japan)によ
 っては国家の法律をけっして保持することができない。あらゆる
 理由が、その使用の廃棄の道を示唆している。」

森有礼『日本の教育』「序文」より
 


6.歴史的仮名遣いの伝統保持機能
  
『しかし、世間一般が考へてゐるのとは反對に、漢字問題よりは假
 名遣問題の方が重大である。なぜなら、第一に、漢字制限や音訓
 整理の方は始めから無理があり、現にその制限は破られつつある
 からである。第二に、假名遣の表音化は國語の語義、語法、文法
 の根幹を破壞するからである。最後の「陪審員に訴ふ」は國字改
 惡運動の政治的小細工を暴露する爲に書いたもので、評論集に收
 めるには聊か品の無いものであるが、さういふ事もせずにはゐら
 れぬほど低級な世界で國語國字が處理されてゐる事を知つて戴き
 たいのである。』

「福田恆存評論集7 言葉とはなにか」より


福田恆存氏は、仮名遣いの問題で表音主義には問題があるとして、
それを突き詰めれば、自身の文化を破壊すると主張した。

「世界中」の"中"の字は音読みで「ちゅう」だから、「世界中」は
「せかいぢゅう」であるべきであって、「せかいじゅう」じゃない
。また「稲妻」も稲の妻だから「いなづま」と書くべきで「いなず
ま」じゃない。

それでいて、「時計」は「とけい」と書いて「とけえ」と発音する
し、「原因」も「げんいん」と書いて「げいいん」と発音してる。
書き言葉と話し言葉のズレは今でも存在してる。


かういふ具合に、歴史的かなづかひによる表記は、本来の意味を保
存する機能がある。だから、それを放擲してしまふ現代かなづかひ
を使ひ続けると、やがて國語の語義、語法、文法の根幹が破壞され
てゆくと言ふ福田恆存氏の主張には頷けるものがある。


歴史的仮名遣いは、平安前期の発音・仮名遣を基盤として、組み上
げているものだから、ひらがな、カタカナの発明当時の伝統を継承
していることになる。

たしかに話し言葉は、喋る傍から音になって消えてゆくし、発音自
体も時代とともに変化して変わってゆくけれど、書き言葉は、文字
記号として保存されるから長くその形を留めることになる。

だから、書き言葉は本来の表記のままにとどめて、発音するときに
はその時代の発音で喋るというやり方はそれはそれで合理的なもの
だと言える。だけど、残念なことに現代仮名遣いに改めてから60
年が経過しており、もうすっかり日本社会に現代仮名遣いは定着し
てしまってる。

一部の識者から歴史的仮名遣いを復活させようという主張も聞くこ
とはあるのだけれど、実際問題としては殆ど不可能だろう。
 


7.「軽井沢シンドローム」が甦らせたもの
 
「選んだのは耕平(だんな)であって薫(おねえ)さんじゃない・・・
 ・・・選ばれた薫(もの)が選ばれなかった紀子(もの)に対して気
 を遣う必要はないんじゃない。選ばれなかった紀子(もの)に対し
 て気を遣うのは選んだ耕平(もの)のするコトよ」

「理屈だよ それは・・・」


もう20年以上も前になるのだけれど、漫画家のたがみよしひさ氏
の代表的作品に「軽井沢シンドローム」というのがある。

別荘地・軽井沢に住む若者たちの青春群像を描いた作品なのだけれ
ど、漫画界に技術革新をもたらした名作とも言われている。

その理由は、漢字に本来の読み方でないルビをふったり(本気と書
いてマジとルビをふるなど)、コマの間や背景のポスターなどに作
者のツッコミや近況報告などが手書き文字で書きこんだりなど、当
時としては斬新な試みだった。

もっとも漢字にルビを振るという行為そのものは、昔は当たり前の
事だった。明治期の新聞や雑誌なんかは、すべての漢字のルビを振
る「総ルビ」で作られていた。朝日新聞も昭和20年までは記事に
は全部ルビが振ってあったそうだ。

明治大学の齋藤孝教授は、どんな難しい漢字が出てくる文章でも総
ルビにすれば読めるのだから読ませないのは間違っているとルビを
振ることを提唱している。

面白いのは、齋藤教授の著作である『理想の国語教科書』に、太宰
治の『走れメロス』を入れるとき、「嗄れ声」の振り仮名で考え込
んだという。「嗄れ声」は二箇所に登場し、一つは若いメロスで、
もう一つは年かさの王のもの。

齋藤教授は、両方とも「しゃがれごえ」とすることもできたのだけ
ど、メロスの方には「しゃがれごえ」とルビを振り、王の方には「
しわがれごえ」と振った。声に出して何度も読んでみると、この方
がぴったりに感じられたからだという。

こういった同じ言葉でもその場面や対象によってルビを変えること
は、先の「軽井沢シンドローム」でのルビの振り方に通ずるものが
ある。

ちなみに「軽井沢シンドローム」の登場後、漢字に本来の読み方で
ないルビをふって読ませる手法は、漫画界で大流行して、いまやど
の漫画でも普通に使われる手法にまでなっている。

漢字に本来の読み方でないルビを振るというやり方は、漢字本来が
持つ意味と、ルビで表されるところの口語の意味の二つをその言葉
に持たせることになるから、意味に立体性を持たせることを可能に
している。

これは、「歴史的かなづかひ」で表記された書き言葉を、読むとき
には、口語発音での話し言葉を使って喋ることと質的には変わらな
い。

だから、たとえば漢字にルビを振るように、「歴史的仮名遣ひ(れ
きしてきかなづかい)」に現代仮名遣いのルビを振ってやれば、歴
史的仮名遣いの文章を残したまま話し言葉で読めるから、仮名遣い
問題は完全解消とはいえないまでも、かなりの部分は解消するので
はなかろうか。

「軽井沢シンドローム」という漫画作品中で、注目を集めたこの手
法。形は変われど、福田恆存氏の主張は現代マンガの中に、引いて
は日本文化の中に甦える可能性を示してる。


 
8.素読と訓点
 
漢字にルビを振ったり、歴史的仮名遣いに現代仮名遣いのルビを振
る手法を応用すれば、文法構造さえ同じであれば、極端な話、古文
であっても現代語のように読むことが可能になる。

たとえば、古文の本文に現代文の口語訳をルビとして振ってやれば
、書き言葉には手を加えることなく、話し言葉を媒介にして、その
内容を理解することができる。

もっと極端なことを言えば、外国語であっても、母国語のルビを振
ることでいくらでも読めることになる。

ただし、このルビを振って読ませるやり方には条件がある。それは
、文法構造が近似していないとルビを振るのが難しくなること。特
に語順が違うと、単語単位でルビを振っても読むほうは語順が入れ
替わっているので、そのまま読めないし、文章単位でルビを振って
読めるようにしたとしても、今度は単語本来の意味と読みの意味が
対応しなくなってしまうから具合が悪い。

それでも日本は、漢文と日本語の間の語順の違いを解消するために
、漢文を読み下すためのレ点や返り点などを開発して、日本語の語
順で読めるように工夫を施した。

もっとも、訓点を付けて漢文を読み下すのは、初学者のための補助
として作られた面も大きく、その意味では漢字にルビを振るのと発
想的には変わらない。

江戸時代から明治期の寺子屋では漢文を訓点を一切付けない、所謂
白文を素読させていたところも多かったという。

漢文を白文で素読するといっても、大陸の発音ではなく、日本語の
発音ではあったのだけれど、白文の素読は、今の英語教育でいえば
、英語を原文のままで音読させることと殆ど同じだから、原文を読
んでかつその精神を汲み取ろうとする「上求菩提」の精神を持ちつ
つ、訓点をつけて、読みやすいようにするという「下化衆生」の工
夫も凝らしていたということになる。

今に残る優れた漢文や漢籍の多くは、宋・元時代に発行されたもの
だけれど、当の中国で散逸したにも関わらず、日本に伝わった原本
がそのまま残っているものも多い。

たとえば、佐伯藩八代藩主の毛利高標(1755〜1801)が創設した有
名な佐伯文庫などは、当時最大八万冊の蔵書があったとされ、四書
・五経・中国・オランダの歴史書・生物学・医学書などその種類も
多く、中でも漢籍においては、中国の宋・元・明版などの古い版が
あって、今でもその一部が現存している。

そうして輸入した大陸文化を「上求菩提 下化衆生」を行いながら
国内に普及させ、時代が移り変わっても、それを捨て去り、否定す
ることのない日本文化の懐は時代が下れば下る程、どんどん厚みを
増し、豊かなものになってゆく。

当時の大陸は進んだ文化を持っていたといっても、それは"子"と呼
ばれる、いわゆる教養人の間で共有されていたもの。それらは一般
庶民に普及している訳ではなかったし、易姓革命で天子が交代すれ
ば、その優れた文献すらも、天子の意向に合わなければ、否定され
消し去られてしまう運命にあった。

だから、そうした当時の大陸文化の優れた思想や精神、文化を輸入
して既存文化とも共存させて、しかもそれらを広く一般国民にまで
普及させている日本は、彼らの文化の継承者だと言う資格は十分に
ある。
 


9.落語にみる伝統と創作
 
「・・もひとつそれから我々の噺はぁ、もぉ古すぎましてね。え〜
 段々段々この頃世の中が変わってきて分らん事が多なりましたん
 です。なんでもないことが分らんのです。蚊帳なんてものは昔は
 もぉ誰でも知ってたんですけど、今でもご存じでっしゃろけど、
 蚊帳なか入って寝たという若い御方はあんま無いと思いますわ。
 わたしらもぉ昔はぁ〜蚊一杯おりました。蚊も蝿もね。でぇ、わ
 〜んと音がしてた。蚊帳入るときそのねぇ、団扇であおいでその
 辺の蚊ぁを払ろうてから、くっと中入った。そうせんと蚊ぁが一
 緒に入って来ますからな。そんなことも分らん。・・・」

桂米朝 「百年目」より


時代の移り変わりによって、過去の文化が分らなくなってくること
は良くあること。生活様式が変わり、考え方が変わってきたりする
ことで、当時当たり前だったことが説明しないと分らない領域に追
いやられてゆく。

ルビを振ることで繁体字や歴史的仮名遣いの表記のまま、現代語で
読む手法は、文法構造が近似している事の他にもうひとつ大切な条
件がある。それは、漢字や単語が指し示す概念が同じか、又は非常
に似ていなければならないということ。

たとえば、互いの話し言葉が分らない日本人と中国人が筆談で意思
疎通を試みたとする。どこかへ旅行に行く時に、電車でいこうと日
本人が「電車」と書いても通じない。ならば、と「汽車」と書いた
ら通じて良かったと思っていたら、相手の中国人は「電車」ではな
くて「自動車」で行くつもりでいたとか。

中国語では、鉄道は「火車」で自動車を「汽車」と表記する。鉄道
でも日本の「特急」に当たるのは「快速」または「特快」だし、日
本の「普通」は「直客」または「客」になるらしい。

「軽井沢シンドローム」から漫画界に流行して定着した、漢字に本
来とは違う読みのルビを振る手法が新鮮だったり、面白かったりす
るのも、読む人がその漢字本来の意味を当然知っているという前提
がある。そうでなかったら、本来と違う読みや意味が本当の意味や
読みだと勘違いしてしまうことになる。

だから、同じ漢字文化圏でも、発音体系が全く違う人同士が漢字に
よる意思疎通を図ろうと思ったら、その漢字が表意している意味や
概念が同一でなくちゃならない。

それがない場合は、情報伝達に齟齬が起きることになる。

こうした互いに当たり前だと思っていたことが、相手に通じなくな
る事は、先の落語のように時代によって当たり前でなくなっていく
ケースと、国の違いによって単語の使い方が違うケースがあり、時
間的にも、空間的にもズレを起こしていくことがあることは知って
おく必要がある。

そうしたズレをそのままにして相互理解を図るのは非常に難しいの
だけれど、そうした時に往々にして行われるのが相手に理解できる
ように今風に「翻訳」したり、相手が理解できる対象に例え直した
りすること。

先ほどの落語の例でいけば、内容が古くなって理解できないことは
現代風に焼きなおしてしまう。いわゆる新作落語とか改作落語とか
がそう。

ニセ住職と旅の修行僧のやりとりを描いた「こんにゃく問答」は舞
台をバグダッドに移した「シシカバブ問答」になったり、染物屋の
職人と吉原の花魁の純愛を描いた「紺屋高尾」が、現代のジーンズ
工場の従業員とグラビアアイドルの恋物語「ジーンズ屋ようこたん
」になったりとか。 

こうした新作落語や改作落語が行われ、それが面白くなるためには
、やはり「上求菩提 下化衆生」の精神がなくちゃいけない。

落語に限らず、どんな文化であれ、その奥には何がしかの精神が宿
っているもの。それがなければ多くの人に受け入れられることは無
いし、ましてや伝統文化になることはない。

そうした奥に潜む精神や本質を掴むには、それを求める気持ち「上
求菩提」がなくちゃいけない。そして、それを分かりやすく、如何
に伝えていくかにおいて「下化衆生」が求められる。

それができた場合は、新作落語、改作落語であっても面白さを維持
できる。

だから、新作落語や改作落語は「上求菩提」によって元々の噺本来
が持つ面白さを掴み「下化衆生」によって現代人に分かるように改
編しているとも言える。

「昔の落語全集を読むと、今の形とはずいぶん違う。常に時代に合
 わせて変化してきたものだとわかります。ところが今の落語ファ
 ンは桂文楽や三遊亭円生が刈り込んで演じた形を、昔から変わら
 ず演じられてきた落語だと思いこんでいる。そうじゃない。落語
 家は噺(はなし)を時代に合わせる努力をやめちゃいけないんだ。」
                          立川談笑
 


10.文化の性能

文化が高いとか低いとかは良く言われることだけれど、単純な高低
だけでは文化の価値や程度を推し量る尺度としては不十分。何故か
というと高低の方向が明確ではないから。

人はともすれば、自分自身の価値観を基準にしてあれは良いとか、
これは程度が低いとか言ってしまいがちなものなのだけれど、当の
相手から見れば、自分だって程度が低いと見られているかもしれな
い。

2664.「知の性能」において、知の性能を測る尺度として、深
さ・広さ・賞味期限の3つがあるといった事があるけれど、同じく
文化についてもこの3つの尺度で考えてみるといろいろなことが見
えてくる。

文化の深さとは、その文化の歴史そのもの。文化遺産であったり、
その道を歩んできた人達の足跡や研究、そし研鑽の集大成。学んで
も学んでも尽きることのない文化の厚み。

文化の広さとは、影響力と言い替えてもいいけれど、遠くの国の人
や、価値観の違う人であっても、その文化を受け入れさせてしまう
だけの対象の広さ。その文化に人類共通の普遍的価値が宿れば宿る
ほど、より多くの人々に影響を与えることができる。

そして、文化の賞味期限。その文化が時代と共に変化する社会や価
値観に何処まで耐えうるものか、その長さ。その文化が不変の価値
を持てば持つほど、賞味期限は長くなる。

これらの総体がその社会や国が持つ文化の性能を決める。

こうした文化の性能を極めようとする力が「上求菩提」。

そして、その奥深い文化を噛み砕いて、いろんな人に伝えて普及さ
せてゆく力が「下化衆生」。

文化の性能が高いレベルにあり、かつその文化が広く一般に普及し
ている国に長く住んでいる人は、知らず知らずに高い文化レベルを
享受しているから、その高いレベルが当たり前になっている。

畢竟、その文化においては、たとえ、それを極めようとする気持ち
がなかったとしても、外国の人達と比べると圧倒的に「上求菩提」
のポジションに居ることになる。高性能の文化に普段から接してい
るのだから当たり前。

そのアドバンテージは、その恩恵に与ったことのない国の人と会っ
た時にはっきりわかることになる。こちらが当たり前と思っていた
ことが全然そうでないのだと気づかされるから。
 


11.上求菩提の先にあるもの

色々な国々で、その国独自の文化や伝統があるけれど、各々を文化
の性能の3つの軸で比較すると、その深さも、広さも、賞味期限も
その国ごとに全部違う。

だから、お互いの国の文化をそのままぶつけあったところで、表面
的に触れるだけでは、深い相互理解にまで至る事は難しい。

そこを理解してゆく助けになるのは、他者への尊重。その場で善悪
をつけてただ一つに断じないこと。

そして、その文化の深奥に潜む光を見つめ、探究すること。でなけ
れば、その文化の本当の価値は中々分からない。

そうした本来の精神を求める気持ち「上求菩提」を失うと、文化は
易きに流れ、やがて衰退・散逸してゆく。そして、その精神を掘り
起こして今に伝える「下化衆生」もまたされなくなってゆく。

時の政権が、自らに都合が悪いからといって、国民(くにたみ)の菩
提心を否定するところには「上求菩提」は存在できない。

「上求菩提」の究極の先にあるものは、人類の叡智であり、希望の
光であり、宇宙を貫く永遠の法則。

釈迦の説いた法も、自然法も、共通しているのは普遍で不変な法則
であること。政権が何であろうが、天子がだれであろうが、そして
、人類が地球に存在してもしなくても、なお存在するもの。

繁体字だの、簡体字だの、人が治める人の世は人の都合によって揺
らぐけれど、「上求菩提」が求める究極の姿は揺らがない。それは
永遠の法則だから。

今の日本は経済的繁栄を享受して、日本の文化も世界中に発信され
始めている。世界がグローバル化して、狭くなっているからこそ、
もう一度、自身の文化に対して、その本来の精神を「上求菩提」に
よって探究すべきとき。

そうして掴みだした永遠の価値を世界中に「下化衆生」するとき、
日本は世界の光となる。
 
(了)



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