3303.現代という芸術: 言葉の性善説



現代という芸術: 言葉の性善説
From: tokumaru

皆様、
現代という芸術をお届けします。

言葉の性善説

 中国の古代思想に、孟子の性善説がある。簡単にいうと、人間の
本性は生まれながらに善であるので、それに気づいて、それを大切
にして、自らを修養することによって発展させればよいという教え
である。ところが、耳目から入ってくる悪いものが心を曇らせ、善
の芽を摘んでしまうので、世の中には悪がはびこっている。こう孟
子は説く。

 これに対して、荀子は、美しいものを見ようとしたり空腹感を覚
えたり安楽を望もうとするという自然な欲求を悪とみなして性悪説
をとき、だが修養をつめば善を知り、礼儀を正すことができると説
いた。

 ともに人間には修養が必要であると説くところは同じだが、性善
説と性悪説とでは基本的な人間観がまるで違う。二人の言い分の
どちらが正しいだろうか。二人の言っていることは、動物を善とみ
るか、悪とみるかで正反対となる。

 孟子の考えでは、人間の動物的・本能的な部分は善であり、知恵
のはたらき、意識の作用によって、過ちを犯してしまうということ
になる。とすると、俗塵の視聴覚的欲望や社会的欲望にとらわれる
ことのない動物は善であるということになる。一方、荀子の考えで
は、動物は悪であり、善くなりようがない。ズバリ、荀子の言い分
は誤りであり、孟子が正しいといってよいだろう。

 性善説は、仏教の本覚思想と似ているというより、同じであろう。
人は生まれながらに悟っているとする本覚思想を知ったとき道元は
、本来悟っているはずの人間がなぜ座禅をする必要があるのかと悩
んだ。もちろん道元は意識が人間を過たせることにすぐに気づいた
から、只管打坐、何も考えずにただ坐れと教えたのだ。

 では、言葉はどうだろう。言葉は、愛する気持ちを伝えるし、心
の震えを詩に表すこともできる。だが言葉は人の心を惑わし、言葉
があるから嘘もつける。言葉は善なのか、悪なのか。私はここ数年
この問題に思い悩んできた。

 結論は、言葉も善である。それは言葉の起源を明らかにすること
によって見えてくる。

 宇宙から地表に衝撃を与えた巨大隕石によって、ゴンドワナラン
ドが分裂した。その大陸の裂け目であるアフリカ大陸の南端の断崖
絶壁に穿たれた洞窟の中で、ヒトは音素や音節というデジタル符号
を獲得した。そのデジタル符号を並べてつくった符号語を、大脳新
皮質言語野・視覚野に記憶する視覚・聴覚記憶を結びつけて脳内辞
書をつくるようになった。これが我々の意識の実態である。そして
この意識を無自覚に使うことによって、デジタル符号化・復号化を
瞬間瞬間に行なうコミュニケーションが始まった。それが言葉だ。

 その言葉は、早成動物である霊長類であるにもかかわらず、ヒト
が無力な寝ているだけの乳幼児期を過ごすように二次的晩成化をと
げて、個体の脳内で言語処理のための複雑な神経回路を形成するよ
うになって実現したのだ。閉経後のメスの育児参加や、激しい陣痛
の傷みを通じて、ヒトの大人は新しい世代の乳幼児をかぎりなく愛
するようになったことも、重要なことである。

 こう考えるとき、言葉はヒトの系統発生においても、個体発生に
おいても、愛に満ち溢れたすばらしい進化であり、どこにも悪の要
素はないということが確認できる。

 我々は、言葉が善であること、大宇宙から地球の生命への贈り物
であることを自覚し、自らの心を愛でいっぱいにして、愛情のこも
った言葉だけを使うように心がけなければならない。そこに人類を
次の文明へといざなうカギがあると思う。
 
得丸公明(2009.5.28)



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