3299.東アジアと日本の絆



米国は世界最大であった自動車会社であるGMの破綻が確定的にな
り、経済恐慌第2波が押し寄せることになる。このため、米国の復
活で世界経済を回復することはできない。そして、永遠に米国の復
活はない。米国自体は破綻したのである。

このため、新しい需要を作り、その需要で世界経済を復活するしか
ない。その経済的な需要を作りあげられるのは、現時点では東アジ
アしかない。東アジアが次の経済のエンジンになるしかない。
                 津田より

0.はじめに
 当面は、中国、日本、韓国が中心であるが、東南アジアの経済成
長を上げることはできる。日本は東南アジアの国々と連携して、中
国の台頭を抑えるしかない。そして、ミトコンドリアDNAから日
本人の成り立ちが分かってきた。また、江南の民たちがどう移動し
たかも分かってきた。

それによると、日本人は最初、サハリンからの人たちが日本に来た
。その後、台湾にいる少数民族が日本に来る。この台湾少数民族は
ポリネシアに乗り出したことでも有名である。その後、中国江南の
地から海を渡って、米作を持って日本に移住した大量の民族がいた。
そして、この江南の民は、一方ではタイ族、ベトナム族など東南ア
ジアに逃げたのだ。このため、全て稲作文化圏であり、仏教圏であ
る。日本人と顔も似ている。その文化も同じような感じである。

フリー百科事典『ウィキペディア』によると、
ーーーーーーー引用開始ーーーーーーーーー
タイ族の発祥は明らかではないが、現在の中国南部にいたとされる
が、タイ族は漢民族を含む北方諸民族の南下により中国で大規模な
人口変動が起こると移住を余儀なくされた。稲作を生業としていた
タイ族は川沿いで生活しなければならず、タイ、ライスのほか、あ
る集団はインド北東部アッサム地方のブラマ・プトラ河流域で生活
を始めた。他のグループはミャンマー(ビルマ)のシャン州に進出
し、シャン族と呼ばれる民族を形成した。この他、タイ・ラオス以
外に定着したグループでは、ベトナム北部、海南島に移住したもの
があった。

キン族はベトナム人の主流民族で、ベトナムの他、ベトナムの周辺
国(中国、ラオス、カンボジア、タイ)でも、少数民族として暮ら
している。キン族は中国南部が起源と言われているが、詳しいこと
は定かではない。福建系の漢民族から分かれたとされる。

紀元前には、現在のベトナム北部に当たる地域で勢力を伸ばし、東
南アジア最古の青銅器文化として知られるドンソン文化を発達させ
、原始的だが小規模な国家群を形成していた。これが、現在のキン
族の直接の先祖である民族(古越人)である。

同地域は秦成立以後、千年以上にわたって中国の支配を受け続けた
ため、東南アジアの他の周辺地域の民族と違って例外的にインド文
明を殆ど受容せず、漢字を使用し、中国風の姓を持つようになるな
ど中国文明を幅広く受け入れていった。だが、完全に中国に同化す
ることはなかった。
ーーーーーーーーー引用終了ーーーーーーーーー

このようにタイ族、キン族ともに日本人の祖先と同じ民族であった
可能性もある。また、ムヤユ語を話すチャンパ人は、チャンパ王国
が潰れたあと、タイ王国と琉球王国に大量に移民している。このた
め、短期間に琉球王国は海上貿易の盛んな中継貿易国になっている
のだ。

このように日本と東南アジアは昔から関係があったのである。

このような関係から将来を考えようと思う。

1.日本の古代史
 日本の古代史を紐解くと、中国との関係が明確である。しかし、
その中国とは江南の人たちである。秦が中国を統一したBC200
年に、江南(呉)からも第1陣が日本に亡命した。この時稲作を持
ってきたようである。日本は縄文時代から弥生時代になる。そして
、和服のことを呉服ということや漢字の読みが呉音であることから
280年の呉滅亡で呉の貴族や王族が大挙して日本に来た可能性が
ある。一気に古墳時代になり、大和朝廷は全国制覇している。

江南の道教も一緒に持ってきたようだ。この当時の中国でも道教を
神道と言っていたので、日本では神道としたのだ。卑弥呼が統治し
ていた280年前には鬼道の道教であったことが魏志倭人伝にあり
、それは神道の前の道教であったのだ。

道教を導入したので、陰陽道や易経が日本でも京都、奈良の都を作
るときに大事な要素になっている。道教と一緒に後漢時代にできた
「傷寒論」「金貴要略」などの薬草学が入っている可能性もある。
薬草学は温暖な江南の地で生まれているからである。

それと朝鮮の伽耶から鉄を入れているが、この伽耶の文化が日本の
文化に影響している。これは墓の作りや姓などの要素は伽耶と一緒
である。BC200年からAC500年の日本は江南や朝鮮の動向
に影響されていると見たほうがいい。その後でも、中国で国が滅亡
すると、その貴族が亡命してきたが、日本の文化に影響したが、も
う日本の国内政治に影響を与えることはなくなったようである。

日本の文化が多様化しているのは、このようにいろいろな文化が日
本に入り、そのいろいろな文化の要素が重層的に織り成しているこ
とで、日本の豊かな文化ができたのである。

2.日本とアジアを結び絆
 江南の道教寺院での祭りを見ると、幟が立ち日本の村祭りの雰囲
気を感じる。江南は温暖で作物が豊かに実り、人間は収穫の秋祭り
を楽しんでいる。稲作文化であり、文化的な雰囲気も一緒だと感じ
た。

稲作文化であるベトナムの雰囲気も一緒である。勤勉な人たちであ
り、技術などに熱心である。日本企業を歓迎してくれるのも、東南
アジアではタイ、ラオス、ベトナム、ミュンマー、カンボジアであ
る。全て仏教国、稲作文化である。稲作をしているので、勤勉であ
る。技術の習得についても意欲を持っている。それに対して、中国
は稲作民族を追い出した騎馬民族が支配した国家になっているため
に、日本人には馴染めないところがある。

そして、インドネシア、マレーシアも今はイスラム教であるが、昔
は仏教国であったし、稲作文化である。しかし、何かが違うという
ときがある。日本人と繋がっているようには感じない。雰囲気的に
分かる絆ということが大切なのではないかと思っている。

インドもヒンズー教であり、一部は共感できるが、しかし、日本人
と繋がっているという意識はない。ネパールやブータンはチベット
仏教国家としての親近感がある。しかし、チベットにはあまり繋が
っているという印象がない。ブータンやネパールにはある。これは
ネパールやブータンは稲作文化であり、江南から逃れて、ブータン
・ネパールに来た人たちであることが影響しているのだ。

3.日本とアジアの一体化
 このように東南アジアの多くの国に日本人は共感を感じる。そし
て、日本は多くの企業がこの共感できる東南アジアに工場を進出さ
せている。文化的な繋がりがあるために、共感できる範囲が広いこ
とで、企業進出で成功できる確率も大きい。

日本のODAで一番多いのは、ベトナムとタイであり、日本人が共
感できる国に多くのODAと企業の投資が入っている。この東南ア
ジアに中国は昆明を基点とする南北道路を作り、日本はダナンを荷
揚げ港とする東西道路と作り、日本への起点とするようである。昔
、日本人町があったホイアン港の近くのダナンを起点にするという
のも、何かの縁を感じる。このため、東西道路の両端であるベトナ
ムとタイにODAが多く投入されているのだ。

日本企業もアジアでの生産と市場を見越した動きが加速している。
ユニクロもベトナムでの生産にシフトしていくし、キャノンの半分
の生産はベトナムであるというように、日本企業の進出が増えてい
る。岡田民主党幹事長も党首選挙時にアジア内需という言葉を使っ
たが、日本と東南アジアを一体として考えて、インフラ整備と企業
進出を通じて、この地域の経済規模を拡大して有望市場に育てるこ
とが重要なのであろう。

今後、東アジア経済共同体となれば、日本という狭い領域ではなく
て東アジア全体で経済を考えることが重要になってくると見ている。

そして、日本の内需は人口減少などから今後、大きくは期待が出来
ない。東アジア全体という意識が重要に成っていくと見ている。

日本企業は欧米市場を見ていたが、今後はアジア市場を見ていくこ
とが必要である。さあ、どうなりますか??
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2639.日本の基盤・東南アジア史
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/190429.htm

日本と米国の国益が微妙にすれ違い始めている。日本の味方は東南
アジアしかいない。そこで東南アジア史を知る必要がある。Fより

日米の首脳会談を見ていると、日本と米国の国益が微妙にすれ違い
を起こし始めているように感じた。先の戦争を正当化しようとする
日本の歴史見直しの障害は中国、韓国だけではなくて、米国も同様
であることが痛いほど分かったと思う。このコラムで日本の動きを
非常に心配していたが本当のことになってしまった。

そして、次の訪問地として日本の安倍首相は石油の安定供給のため
に中東5ケ国に行く。中東の石油でも欧米のメジャーから自国石油
利権に目覚めた産油国が主導権を握っている。ここで現地での交渉
が上手くいくと、それはメジャーを蔑ろにしたことになり、米国の
国益と離反した動きとなる。というように日米の国益は微妙にすれ
違い始めているのである。それだけ平時の外交になったということ
である。

日本と国益が一致しそうな国は東南アジア諸国しかない。日本企業
が工場を海外移転したが、どこで生産した製品が日本企業を潤して
いるかというと、東南アジア(タイ、ベトナム、マレーシア)など
に進出した工場だ。

中国や韓国と違って、日本への憎しみも少ない。中国人のように、
直ぐ真似してコピー商品を作るような無作法なことはしない。どち
らかと言うと、日本人と同じように従順で忍耐強い。この人たちと
一緒に仕事をして、お互いに利益を共通した方が精神的にもいい関
係でいられる。

日本企業が中国に進出したが、この目的は中国市場を開拓するため
になっている。中国工場で作り世界に輸出するモデルは今後無くな
ると見る。それだけ中国人は扱いにくいし、技術を習得したと思う
と直ぐに止める。

このために、東南アジアの歴史を知る必要がある。中国史は日本の
中学から教えているために、普通の日本人であれば、ある程度知っ
ているが、東南アジア史は学校で習わないので知らない。

東南アジアは、12世紀に今のハノイにベトナム族の中国人的な李
朝ダイベト(大越)と今のダナンにチャム人で大乗仏教のチャンパ
王国、今のカンボジアにクメール族のヒンズー教、大乗仏教のアン
コール王国があり、今のタイ・ビルマにはビルマ族の上座仏教のバ
カン王国があった。そして、まだタイ族は今の昆明あたりで大理王
国を作っていた。

ベトナム族は揚子江中流域に住んでいた民族が、北方から来る民族
に押しやられて、今のハノイに来た米作農耕民族であるし、タイ族
も揚子江域で米作農耕民族であるが山に逃げ込んだ状態になってい
た。

インドネシアにはインド大乗仏教拠点のナーランダーと関係があっ
たスマトラ島のシュリビジャヤ朝、ジャワ島にクディリ朝があった。
インド大乗仏教はチベットだけでなく、インドネシアに一時、逃げ
込んだのである。このインドネシアからチャンパ王国などインドシ
ナ諸国に大乗仏教は伝来するので、重要な役割を果たした。インド
シナの中心的な国家がチャム人のチャンパである。香木はここの産
でありこれにより、莫大な利益を得ていた。チャンパとインドネシ
アの王国は東西貿易で富を得た。

13世紀にはモンゴル帝国がダイベト(大越)に襲い掛かるが、ア
ンコール、チャンパ、ダイベトの連合軍で、これを防いだ。この時
からベトナム民族は中国との戦いを続けているが、後に属国になる。
中継貿易で利益を得るチャンパ王国を潰す。大理王国も1257年
にモンゴル帝国に併合される。タイ族の南下が始まる。1283年
パガン王国が支配下に入る。1270年代後半にチェンマイにスコ
ータイ王国が出来て、タイ文字を作り、ここにタイ族の大理から今
のタイにその拠点を移した。タイは上座仏教を今のスリランカから
入れている。そして、南下してアユタヤ王朝になる。今のラオスに
いるラオ族もタイ族の一派である。

13世紀末イスラム教がインドネシアに入る。マレー族のサムドラ
・パサイ王国である。そして、14世紀末にイスラム教のマラッカ
王国がマレー半島にでき、マレー族の国家である。このマラッカ王
国が繁栄する。

15世紀からポルトガル人がマラッカを占領して、国際貿易拠点と
する。これ以後は欧米人に東南アジアは植民地にされていくことに
なる。タイ(チャクリ朝)だけは緩衝地域として、独立を許された。

ここで分かるのは、東南アジアが大乗仏教の中心であったことで、
インド大乗仏教の後継地であった事実である。このため、ボロブド
ールやアンコールワットなどの大寺院ができたのだ。日本にも大乗
仏教としてインドネシア経由で大きな影響を与えている。今はイス
ラム教地域であるインドネシアが重要なキーを握っている可能性が
ある。またアンコール王国、チャンパ王国のベトナムなどを詳しく
知る必要がありそうだ。

今後、この東南アジア史を研究する価値がある。
どうですか、日本人が知らない東南アジア史について、少し分かっ
ていただいたでしょうか??この研究は継続する予定です。現地の
調査もしようと思いますのでお楽しみに??
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2648.インド文化伝来の道(東南アジア史)
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L9/190513.htm

日本文化においてインド文化の影響は大きい。仏教伝来とともに、
ヒンズー教の混合がなぜ起こり、かつ伝えられたか? Fより

東アジアは漢字や儒教の中国文化と仏教やヒンズー教のインド文化
が融合した文化であり、中国も仏教を通じてインド文化の影響を受
けている。日本も中国経由でその仏教を取得した。

しかし、中国はどうインド仏教を得たかというと、シルクロード経
由で伝わったと現在の歴史は説明している。しかし、本当にそれだ
けなのであろうか??

どうも東南アジア経由でのインド仏教伝来がある。海のシルクロー
ド経由で中国に伝来した部分があると見る。また海洋国家のチャン
パ(チャム人国家)と中国や沖縄を結び線がある。

その後、チャム人はベト族との戦いに負けて、大挙ベトナム中部か
ら逃げ出している。現在ベトナム中部にチャム人はほんの10万人
しか存在しない。チャンパ王国時代の人口は圧倒的に多かったはず。
このチャム人たちは琉球にも来たように感じている。

これは日本と元の間が元寇で断絶状態になっていたので、中継貿易
として中国(元)を日本は使えないことで、直接、海洋民族であっ
た九州・博多の倭寇たちが遠征した。朱印船貿易の始まるでもある。

13世紀から乗り出し、16世紀(戦国時代・日本)にはチャンパ
に日本人町までできることになる。そして、琉球も、その時代に倭
寇が琉球王朝の基礎を作ったと「甦る海上の道・日本と琉球」では
言っている。

17世紀の江戸時代にチャンパはグエン朝に服従することになり、
江戸日本は鎖国時代であり、海洋国家であった琉球王国に逃げてき
ていると見る。

その頃、琉球王国は中国やベトナムなどとの交易で繁栄していたの
で、直接、チャンパの大乗仏教+ヒンズー教を受け継いだように感
じる。また、江戸時代に琉球の技術が大きく前進したが、その原因
が明確でない。技術的な伝承はその技術を持った大量の移民を必要
としていたはず。もう1つ、沖縄米の在来種はインドネシア種と似
ている。チャンパの米でもある可能性があり、その面での解明が必
要になっている。

インド仏教のブッダはDC463〜DC399の人である。その後
、バラモン教からAC4世紀にヒンズー教になる。仏教が広まるの
はDC268〜232のマウリヤ朝アシュカ王時代で、AC4世紀
頃、グプタ朝時代にナーランダー僧院が建立される。

この時代がインド仏教の最盛期であり、同じAC4世紀にヒンズー
教ができ、王侯貴族が身分制度をそのままにしたいとして信仰し、
民衆にも広まっていく。8世紀ベンガル地方にできたビクラマシラ
ー寺院とサマブリマハ寺院が終末期の大乗仏教・密教の道場であっ
た。ここにインドネシアの王国やチャンパからの僧侶が集っていた。

この2寺院はナーランダーと東南アジアを結ぶ東西交流の拠点とし
て、僧侶を集めた。12世紀末イスラム教のゴール朝がこの仏教地
域でもあるガンジス河流域を支配して、仏教寺院を徹底的に破壊し
た。
これにより、仏教はインド亜大陸では消滅する。この12世紀末に
インド仏教者はインドネシアなど東南アジアかチベットに逃げるし
かなかった。

どうしてお隣のビルマには逃げなかったかというと、ビルマは上座
仏教が大乗仏教に負けて、逃げていたために、終末期の大乗仏教・
密教はビルマに入れなかった。上座仏教は仏教会議に負けてスリラ
ンカやビルマに逃げていた。

その頃には、シルクロード一帯はイスラム教地域で仏教を許さない。
特に仏像をイスラム教は嫌う。イスラム教はキリスト教やユダヤ教
には寛大であるが、仏教やヒンズー教、拝火教には徹底破壊で臨ん
だ。このため、インドとパキスタンは今でも敵対関係が消えない。
ストウーパや仏教寺院がインドになくなった理由でもある。
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2659.インドからムラユへ、そして日本へ(東南アジア史)
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/190526.htm

インドから東南アジアのムラユ経由チャンパで日本への仏教伝来の
道もあるはず。      Fより

インド4世紀にできた大乗仏教拠点であるナーランダー寺院で修行
した中国人僧で中国へ戻った僧は、5名程度であり、その内3名が
有名である。4世紀末の法顕と6世紀の玄奘、義浄である。

法顕、玄奘は西域のルートでインドに行くが、義浄は海のルートで
インド往復をした。法顕も帰路は海のルートであった。このように
海のシルクロードがシッカリしていたことが分かる。

しかし、一番有名なのが西遊記に出てくる三蔵法師で、このモデル
が玄奘なので、西域のルートしか仏教伝来の道と認識されていない
だけなのだ。

671年 義淨は海のルートでインドへ渡り、仏教寺院をめぐり、特に
ナーランダー寺院で修行し、帰路も再び海路で、マレー・インドネ
シア(スマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国など)を経て、
695年中国へ帰国している。特にシュリーヴィジャヤ王国に長期間滞
在し、新都マラユ(パレンバン)は仏教教学の一大中心だったと。
そこで義浄は僧侶が1000人以上も学問に励んでいて、その学問や儀
式の仕方もすべてインドと同じであることを強調している。

シュリーヴィジャヤ王国は7〜11世紀が全盛で、14世紀後半まで
あるが、後半は衰退している。インド文化の影響を受け、大乗仏教
を奉じたが、遺跡等は不思議なくらいわずかしかない。パレンバン
を首都、ケダーを副都として12ヶ国を従える大帝国であった。この
言葉がムラユ語である。14世紀、最終的にマジャパヒト王国に滅
ぼされる。

このように7世紀のインドネシア地域は、大乗仏教であったのだ。
そして、この地域は交易拠点として、大発展していた。そして、そ
こにはインド商人も多くいた。また、インド文化を取り入れたムラ
ユ文化が栄えていた。ムラユ語(今のマレー語)がこの一帯の共通
語として機能して、交易をスムーズに行えるようにしている。

10世紀始唐の滅亡と共に国際貿易は衰え、シュリーヴィジャヤの
消息も一時、途絶える。中国に宋(960〜1127)が成立、再び南海貿易
が盛んになると、再び隆盛になる。シュリーヴィジャは南インドの
チョーラ朝と友好を通じ、政治・経済・文化などあらゆる面で影響
を被った。シュリーヴィジャヤで大乗仏教が盛んに行われたのも、
大乗仏教の拠点中部インドとの交通が密接に保たれていたからだ。

この交易の仲間としてチャンパ王国のチャム人もいた。このチャム
人は船でこの海域を交易で行き来している。このため、大乗仏教の
東南アジアの拠点である新都マラユから密教である大乗仏教を持ち
帰り、今までのヒンズー教から王家は大乗仏教に乗り換えることに
なる。

8世紀にシャイレーンドラ朝ができ、中部ジャワに巨大な仏教遺跡
ボロブドゥールを建造した。9世紀にはシュリーヴィジャヤ王国に
両王家の結婚を通じ合体される。イスラム教ができたのが7世紀始
で、7世紀後半までには商人を中心に急拡大し、イスラム商人たち
もこの地域に進出してくることになる。

また、義浄は帰国後、仏典の漢訳を行う。訳経は国家事業として洛
陽・長安の西明寺で行なわれた。漢訳された経典は56部230巻に及ん
だ。また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著す。
この本でインドや東南アジアの社会状況がわかる。

義浄は金光明最勝王経を漢訳したが、このお経を遣唐留学僧の道慈
(?〜744)によって日本に伝えられ、金光明最勝王経に聖武天皇が
深く帰依し、長年病気と飢餓に苦しむ国民と、日本の国を救おうと
発願し、詔して建立されたのが国分寺で、全国に国分僧寺68ケ寺と
国分尼寺が建立された。
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2672.インドと日本の道(仏教アジア史)
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L9/190610.htm

東南アジアの文化はインドから伝わり、そしてチャンパ経由で日本
にも影響を与えた。この検証。    Fより

仏教の成立自体がウパニジャド哲学から生まれたもので、バラモン
教と同一である。このため、輪廻などの基礎的な教えは同じである。
バラモン教は5世紀に民間信仰を大幅に取り込んでヒンズー教とな
る。逆にヒンズー教のタントラを取り込んだのが仏教の密教化であ
り、もともとヒンズー教の要素を仏教は持っている。

しかし、ヒンズー教と仏教の決定的な違いは、カースト制度を認め
るかどうかによっている。ヒンズー教はいろいろな宗教を取り込ん
だが、頑なにカースト制度だけは守っている。アーリア民族優位を
確立するための宗教という側面を捨てていない。

ブッダは前6世紀に仏教を誕生させた。マガダ国に最初に普及した
が、前3世紀マウリア朝のアショーカ王が仏教を国教として保護し、
かつ、今のスリランカを上座仏教国とした。アショーカ王の功績が
大きい。

仏像ができたのは、ギリシャ人国家で今のアフガニスタンにあった
パトリシアの影響がある1世紀〜5世紀のクシャーナ朝で首都ガンダ
ーラ(今のラホール)で盛んに彫られたようだ。クシャーナ朝カニ
シカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることにな
った最大の功労者だった。ここを基点として東トルキスタンに仏教
が伝播した。このルートがシルクロード経由の仏教伝播ルートとな
る。7世紀中にサザン朝ペルシャがイスラム教ウマイヤ朝に滅ぼさ
れて、シルクロード経由の仏教伝来の道は閉ざされることになる。

8世紀にはパドマサンババがチベットに仏教をつたえて独特のチベッ
ト仏教となって発展したし、善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち
)、不空(ふくう)らのインド僧は、8世紀の中ごろから後半にかけて
中国にわたって密教をつたえ、これは唐代にさかえた中国密教の源
流となった。空海や最澄が日本に持ち帰ったのも8世紀のこの中国
密教であった。

また、チャンパなどの東南アジア諸国もこの時期、密教を導入して
いる。このため、インド僧はシルクロード経由の道を閉ざされて、
東南アジア経由で中国に渡ったことが分かる。

その後、1193年にナーランダ寺院、そして1203年ベンガルの密教の
中心であったビクラマシラー寺院がゴール朝の軍に破壊されて、僧
たちはチベットや東南アジアに逃げ、インド仏教は崩壊した。中国
にも12世紀の密教は伝わったようであるが、修行方法を道教が取
り入れて、仙人信仰になっている。

10世紀に北ベトナム紅河流域を中心にベト族が大越国を建てるとチ
ャンパは南に移動する。この時期と日本の日宋貿易が盛んになる時
期が一致している。チャム人はムラユ語を理解していた。このため
現在のインドネシア地域との交易を独占していたようである。チャ
ンパは一方では、中国と交易関係を持ち、中継貿易ができた。この
中国と日本も交易関係にある。このため、間接的にチャンパと日本
は繋がっていた。

海洋民族チャム人がどのような船を持っていたかが重要であるが、
陸伝いに航海するこの当時ではインドからインド商人やイスラム商
人が来ていた。この人たちが用いた船をダウ船という。イスラム商
人の大きな商売道具である。このような船をチャム人たちも持って
いた可能性がある。

しかし、14世紀に明が成立すると、明が大型船を建造して、チャ
ンパの価値を無くすることになる。そのころからチャンパは交易の
独占ができなくなり、国力を無くしていくが、この時期、チャンパ
は日本と中国との中継貿易として利益を得ていた。しかし、それも
江戸幕府が鎖国令を出して交易ができなくなる。このチャンパの代
わりをしたのが琉球王国である。このため、チャンパ自体が衰退す
ると琉球王国にチャム人は多数、押しかけたように思う。

突然、琉球王国は海洋国家になる。インドネシア諸国と広範な条約
を結んでいる。これはムラユ語を理解しない外界の人たちでは無理
がある。沖縄人の中にチャンパを感じるには私だけでしょうかね。

また、日本との直接的な関係で言うと中国経由で日本に渡来した
林邑僧仏哲が伝えたチャンパの舞踊は林邑楽として、今日まで雅楽
の中に伝承されている。このようにチャム人が日本にも帰化した証
拠もある。

遣唐使がときどき嵐に会い漂流したが、その漂流先がチャンパであ
ったようである。記録が残っている。

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2690.東南アジアの世紀に
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L9/190701.htm

日本は、米国との関係を維持しながら、東南アジアに目を向ける必
要にある。その検討。   Fより

東南アジアが交易によって繁栄したことは、今までのコラムを見て
いただければと分かると思う。そして、地域全体が1つの商圏とし
て発展したことでムラユ語が通じる地域を形成していた。また、イ
ンド商人、イスラム商人、中国商人がこの地域に移り住んで、それ
ぞれの文化をこの地域にもたらした。

この地域は、その後英国、オランダ、フランスの植民地になり、そ
こでも欧米文化が入り、独立後はASEANとして昔と同様な統一
的な経済政治地域を形成している。この共同体は15世紀以前の昔
に戻ったとも見える。

このため、この地域は独特の特徴ある文化があるように見えない。
しかし、インド文化と地域文化の融合、中国文化、欧米文化との融
合などという何でも融合する混沌とした文化がある。混沌とした多
様性と、にもかかわらず、どこか懐かしさがあるという共通性の併
存だという人もいる。

精神的な面では、多くの日本人が忘れたものを今も持っている。
生活の知恵なども豊富である。貧しいことが精神面で重要なことで
あると東南アジアに行くと思う。

そして、現在、この地域に新しい力を入れているのが、日本である。
日本のエスニックブームに乗り、その地域のインド料理などと融合
したいろいろな料理を日本の街に導入しようとしているし、日本企
業は安い労働者を求めて、東南アジアに工場を建てている。中国人
と違い、従順で長く勤めてもらえるために、日本固有の技術を伝承
することができる国々のような気がする。

特に現在、ベトナム・タイに日本企業は進出している。タイのトヨ
タ工場は従業員を教育して、ライン指導者までにしている。このタ
イ人が東アジアに進出するときの現地の従業員を教育することにな
る。また、キャノンなどはプリンターの出荷の半分以上をベトナム
で作ろうとしている。帝人のタイ工場には日本人がいない。などタ
イ人やベトナム人は忍耐強い。職人を育てるにはいい資質である。

日本企業はヒエラルキーを作り、その下で生産をするという形を取
らない。現地企業ができることは、現地企業を使う方向であり、
徐々に現地企業が技術を習得して、日本企業の工場に近接した地域
で生産し、納期と品質を確保してもらえばいいと考えている。この
ため徐々に現地化率が高くなる。

東南アジアで部品産業が立ち上がり、それを日系企業は中国や東南
アジアの違う国の工場で使う方向にあり、東南アジア域内と中国を
結ぶ輸送が重要に成ってきている。そのため、中国と東南アジア域
内を結ぶ高速道路や鉄道などの整備が必要になっている。

どうして、このような現地化を日本企業はするかというと、米国と
の貿易摩擦で現地化率を厳しく問われた時代があり、しかし現地化
するとコストが大幅に下がることを経験したことで、このような現
地企業育成策を取るようになったのでした。

現地化率をなぜ、米国は、問うたかというと当初、日本の部品を全
て運び、アセンブリだけを現地で行ったためであり、米国はその製
品を日本製をしたことで、逆に日本企業としては輸出規制を逃れる
ことができなくなったのでした。

このため、日本企業は、現地企業を育成して現地化率を上げる努力
をしたのだ。あの日米貿易摩擦は日本を世界の指導大国にするため
に米国が意図せずに、仕掛けた育成策であったような気がする。

しかし、現地化率を上げると中国や韓国のように自国企業にその技
術を転用して、日本企業を苦しめる現地下請企業もあり、日本企業
は中国では苦労している。単なる生産だけを目的にするなら中国か
ら東南アジアに日本企業は移転する必要があると思う。



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