異なるシステムの抱合と共生 虚風老 大が小を飲み込み、共生するとき、共生するためには、大きい方も 、小さい方もシステムを変えなければならないといえるじゃろう。 日本は基盤(大)に対して、細細と流入してくる人々を通じて、文 化・技術を吸収してきた。そして、それが利用できる形にするため に、飲み込んだ側も飲み込まれた側もシステムを変更してきたわけ じゃ。 明治維新は、世界に組み込まれる過程であり、大幅なシステムの変 更であり、その後の太平洋戦争での敗戦後は、アメリカというシス テムに飲み込まれる側に立ったといえるじゃろうな。 冷戦の崩壊は、東側諸国が資本主義システムに組み込まれる過程で あったが、今回の経済危機は、アメリカそのもの、そしてあらゆる 文明が、グローバルなシステムに飲み込まれる過程なのじゃろう。 これは、情報の即時移転 資本の移転性の自由度(金融市場の統合) 資材・商品の移動のかってない大きさ(自由貿易) 人の移動の大きさなどが生み出したモノじゃ。 社会システムが発達したのは、繁栄を求めたからであるが、これは 、人間増殖=繁栄のシステムであったわけじゃ。 ところで、生命としての実体には、生態系という根本的なグローバ ル循環システムがある。 人間という社会システムが、増殖しすぎて、自分達人間を含む <生態系循環システム>の圧迫要因になっているというのが、「環 境問題の本質」であろうな。 生物というのは、エネルギーを取り込むシステムだが、人間は道具 を自分の肉体の延長化することで、強大化してきた。そしてその道 具にエネルギーを多量につぎ込むことで、システムの強化をしてき た。エネルギーを多消費することが贅沢であり文明化であった。 しかし、エネルギーの多消費そのものが、生態系を圧迫しはじめて いるわけじゃ。 循環するという生態系が喪われれば、生存の基盤そのものが崩れ去 ってしまうんじゃ。 <個>と<群れ>と<位階> <個>はそれぞれ、基本的に、自分中心的にしかものごとを見るこ とができない為に、利己心という傾向を持つというのはさけられな いもんなんじゃろう。 しかし、<群れ>は、個々の利己心を制御しなければ、群れとして の利益を増大できないわけじゃ。故に群れは、個々の利己心を制御 しようとする。これが群れの掟や、倫理・法律につながるじゃね。 <群れ>としての利益の増大は、個々の利益の基盤を形作るのであ るから、個々は群れの利益を優先することによって、その恩恵に浴 す。しかし、同時に群れの中は、一様で平等というわけではない。 全体は常に分節化されそれぞれに位階づけされることによって、オ ーダー(秩序)が生じる。 そして、群れの中では、常に、位階を巡る争い(競争)があるとい えるじゃろう。 環境問題は、群れが、「環球的な全体」として意識されるように至 ったことを意味する。 また、生態系という考え方は、「環球的な全体」が、多様性の相互 作用によるバランスの上になりたっていることを認識させたわけじゃ。 <個→全体>は統合化していく目が必要になり、<全体→個>には 、分節化していく目が必要であるわけじゃが、それは同時に存在す る視点であるわけじゃな。どちらか一方だけがあるわけじゃないの。 今、個の括りは、「国民国家」というレベルであり、「全体」とい うのは、国際社会という状態である。個の分節的な利益に注目すれ ば、国益の争いであり。群れの利益に注目すれば、国際協調という 形をとる。国際協調という利益を優先させても、位階の争奪戦とい うのは、常にさけられない。(米国の主導というオーダーが崩れた 今はなおさらそうである) 群れという全体が利益を得るには、「群れの法」を確立化させてい く必要がある。 そして群れの法が、なんらかの形で、強制力を持つようにしなけれ ば、個々の利益も結局は犯されるのである。その中で、個々の自由 がどこまで許されるか、また自由ができるだけ保証されるかという 「枠組み」が今までにもまして重要であるということじゃ。 虚風老